忘れるつもりなどなかったのだ。初めにかくれんぼのルールに則って数をかぞえて、その後立て続けにいろんな人と話したものだから、自分がいまどこかに隠れているニアをさがすオニの役をしているということが、頭から飛んでしまったのだ。 年少の誰々がどこにいったか知らないかとか、ちゃんと順番で決められているとおり植木鉢に水やりをしたかとか、あるいはゲームで片側のチームに人数が足りないから臨時で参加してくれないかとか、あちこちで声をかけられ、さまざまな用事に見舞われているうちに、自分自身に用事があることをすっかり覚えていられなくなってしまったのだ。 時は夕暮れ。遊び回って汗をかいたから早めにシャワーを浴びにいって、浴び終わってからタオルがまだその時刻には準備されていないのがわかった。 わたしは裸のままバスルームから首を出して大声で保母さんを呼んだ。幸いほかのやんちゃで人をからかってばかりいる子どもたちに見つかる前に、一人の保母さんに気づいてもらえた。 今度からは注意してね、と言って保母さんはわたしに一枚のバスタオルを渡すと、リネン室に戻っていった。ほかの子どもたちのも準備するためだろう。 リネン室。子どもたちのためのタオルやシーツなどが大量に格納されたこの場所で、ハウス内に響きわたるくらい盛大な悲鳴が上がった。 ちょうど水を拭いて洋服を着終わったわたしは、なにごとかと声のしたほうへと駆けていった。 そこには開いたドアからなだれるようにしてぶちまけられたタオルが少し平たい山のように広がっていた。その中央部がもごもごと動いたと思ったら、そこから人の頭がぽこっと現れた。 左右にぶんぶんと頭を振って顔を歪めているのは、ニアその人だった。 「ニア!」 わたしは思わずニアに駆け寄ろうとしたが、おばさんに止められた。 「ユメはさがっていなさい」 ロジャーはわたしを一瞥してそう言うと、ニアに向き直った。「ニア。おまえほど慎重な者が。どうしてこんなことをしたんだ」 わたしは心配に思ってニアを見つめた。ニアと山のようなタオルの周りを取り囲むようにして固唾を呑んでいる子どもたちをかき分けて、ニアを見下ろしてメロが言った。 「どうせまたユメと遊んでて羽目はずしたんだろ。あんなおてんばとつるむからこうなるんだ」 「メロは黙っていなさい」 「この前だってな、こいつらやばいことしてたんだぜ」ロジャーの言う声を無視してメロが言った。「知りたい奴、いないか?」 メロの思わせぶりな口振りに釣られた子どもたちが一斉にメロに問いかけた。なんだい、メロ、何を知ってるんだよ、教えてくれよ、やばいことってなんだよ。 そこに一人の勇ましい女の子の声が割って入った。 「ユメが外で遊んでて石につまづきそうになったのを、ニアが助けたって話でしょ」 それを聞いて周りの子どもたちは、なんだそんなことか、つまんねぇの、変わりもの同士、お熱いこったなぁ、と言ってつまらなそうに退散していった。わたしはリンダに感謝した。 「リンダ」 気に食わなさそうにメロがじろりとリンダをにらんだ。しかしメロよりリンダのほうが背は高く、メロの視線ごときでこの力関係が動くようには見えなかった。 「間違ったことは言ってないでしょ。ぜんぶ本当のことだわ」 それを証明するかのごとくリンダははっきりとそう言うと、今度はユメに矢を向けた。 「ユメがじつはおてんばだってことも、たしかだわ。人は見かけによらないものね。ニアには同情するけど、本人は苦しからず思ってるんだから、救いようがないわ」 それだけ口にすると、リンダは子どもたちにまぎれてそこを去っていった。 「こいつにつける薬なんてないさ」 「メロ。あっちに行ってなさい」ロジャーが言った。メロとニアが接触するときは、たいていロジャーの仲介がある。 「おいメロ、今日はあいつにちょっかいを出しに行くんじゃなかったのか」 マットに声をかけられると、ふん、とメロは言ってその場を去った。 最終的にはニアとロジャー、それからわたしと片づけをするメイドさんたちだけになった。 「どうしてこうなったんだ?」ロジャーは改めてニアに聞いた。 「洗いたてのタオルにくるまれてみたいというおかしな衝動に駆られたんだ。でもこんなにおおごとになるとは思ってなかった。みんなにも迷惑をかけた。ごめんなさい」ニアは言った。 「もうしないと誓えるかね」 誓います、とニアは言った。こういうとき、ニアは何一つ余計なことを言わない。 「メイドさんたちの手伝いをしなさい」とロジャーはニアに指示した。 ニアはうなずくと、床に散らばったタオルを集めてはメイドさんに渡していった。これらをもう一度洗い直すとなると、大変な労力が必要だ。 わたしもそれを手伝おうとすると、ロジャーがそれを止めた。 「ユメはどうしてそれを手伝おうとするんだ?」 「だって、ニアにかくれんぼしようって提案したのは、わたしだから」 「手伝おうとする心意気はいいが、それが本当にニアの為になるかい?」とロジャーがわたしのほうにかがんで言った。 突然の正論に、わたしは消えてしまいたくなった。「ニアのためにはなりません」と答えようとしたが、のどがつまってうまく声が出なかった。わたしは泣いていたのだ。 「どうして泣くんだ?」ロジャーはいぶかしむように言った。 「どうしてもこうしてもないの」がんばって声を出してわたしは言った。「ニアのせいじゃないの」 「わかったから、夕食まで遊んでいなさい。それか、絵本でも書いていなさい」 わたしを相手にするのは止めだというように、ロジャーは言った。わたしは保母さんの一人に手を引かれて別の部屋につれて行かれた。 夕食の時間も、ニアの姿は食堂にはなかった。わたしのせいで今も片づけをさせられているのだ、と思って、わたしは悲しかった。 夕食後、落ち着かない気持ちで一人自室に寝転がり絵本を開いたり閉じたりしていると、コンコン、とドアを叩く音がした。叩き方でニアだとすぐにわかった。 「わたししかいないよ」 起きあがりながらそう答えると、ドアは開いた。ドアの前に現れたニアに、わたしは抱きついた。 「苦しいですよ」 「どれくらい苦しい?」とわたしは聞いた。 「山積みのタオルに挟まって押しつぶされていたときと同じくらい」とニアは答えた。 「今日は遊びの途中でいなくなって、それと手伝えなくてごめんね」とわたしは言った。「ロジャーがやめろって言うから」 「ロジャーは正しいですよ」とニアが言った。「あそこを隠れ場所に選んだのは私なんですから、ユメが謝ることじゃない」 「でも、わたし思っちゃったんだもん。ニアと一緒にあそこに入って抱き合っていたかったなって」 わたしが言ったのを聞いてニアは目を丸くした。それからうつむいて、一つため息を落とした。 再び「ニア」と言ったとき、わたしは抱きしめられていた。 しばらくニアの腕の中にいた。わたしは体中が火照るのを感じて、涼しい夏の夜風よもっと吹いて、ああでも他の人たちには今のこの状況を知らせないで、おしゃべりな夜風さん、と思った。 わたしを離すと、「どうせ忘れてたくせに、よく言いますよ」とニアは言った。 「でも」と抗議しようとするわたしを制し、ニアは部屋の中に入ってわたしをベッドに座らせ、自分もその横に座った。しばらく沈黙の間があった。わたしは頼りない気持ちで足をぶらぶらとベッドのしたで泳がせた。それからふいにニアは言った。 「わたしたちはまだ子どもです」 「そんなこと言わないで!」とわたしは言った。「子どもだからって、できないことがたくさんあるなんておかしなこと、わたしは認めたくない」 「ユメ、落ち着いて聞いてください」 「わたしは落ち着いてるもん!」とわたしは言った。 本日三回目のため息をニアは落とすと、立ち上がって窓から顔を出した。 「今日は月がよく見えますね」 「そう?」とわたしは言った。「見せて見せて」 「ほら」とニアが言って、わたしの手を取った。 ニアの隣に立って窓の外を見ると、ニアの言うとおり雲の切れ間からお月さまがきれいな丸を描いていた。 「きれい」 わたしが言うと、ニアもうなずいた。 「まぶしいくらいですね」 わたしは部屋の電気を消した。そうするといっそうお月さまは夜空に映えて見えた。 「ユメは早く大人になりたいと思いますか?」 ニアの問いに、わたしは首を振った。 「ぜんぜん! いまだって十分幸せだもの! 時間が経過したからって、それにともなって幸せも増すなんてことわたしには考えられない」 「わたしも、変わりたいとは思いません。でも、人は変わるものです」 ニアがそう言うので、少し悲しくなってわたしは言った。 「ニアも変わっちゃう?」 「変わるでしょう。でも、それはユメも同じですよ。ユメも変わるんです」 「そっかぁ。そうだね」あいまいに相づちを打ちながらわたしは言った。「ニアといっしょなら、怖くないかな」 「そうですか」ニアは少し考えてから言った。「今日のことを、思い出す日は来るでしょうが、そのとき自分がどんな環境にいるのかを考えても、たいして不思議な気はしませんね」 「ニアは物事がよくわかるから」とわたしは言った。「ね、わたしはどんなわたしになっていると思う?」 「ユメも今と大して変わらないんじゃないですか。寝相も、悪いままでしょう」 「どうしてわたしの寝相が悪いことを知ってるの!?」 「自分で言ってたじゃないですか」 「言わないよ!」 「ずっと小さい頃に言いましたよ」ニアは言った。「覚えてないんですか?」 「うそ! そんな大事なこと、言ってたら覚えてるよ!」 「自分で頭にたんこぶができちゃったと言って、聞きたくもないのに私はそのわけを聞かされたんですよ。そしてその後日実際に、寝坊したユメを私が起こしに行かされて、そこで頭と足とが回転して逆さまになってるあなたを見せつけられたこともありました。それも、忘れましたか?」 考えているうちに、ニアの言うことが正しいことが明らかになっていった。 「でもなんで忘れちゃったんだろう」 「あなたは忘れっぽいんですよ。今日だって、かくれんぼの途中で忘れてしまった」 「そうかもしれない」深刻な思いでわたしはうなずいた。 「せっかくいい幼年時代を過ごしているのに、もったいないじゃないですか」 「いい幼年時代だと思う?」 「もちろん」とニアは言った。もちろん。 わたしは感慨深くなって、ニアに言った。 「ねえ、あしたかくれんぼ、もう一回してくれる?」 「ユメが覚えていてくれるなら」雲を明るく照らし出しているお月さまを見上げながらニアは答えた。 2016.9.11 back |