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声がする。ねぇ、と呼びかけられている声。だけど今は、それを意図的に無視した。本当は悪いと思っている。だけど今は、スケッチに集中させて欲しかった。

授業後、中庭を歩いていただけのわたしの足下に転がってきたサッカーボール。きっと、サッカー部の人たちのものだろうと、持っていたのに、結局誰も取りに来なかった。呆れた、自分たちが部活で使う大切なボールを取りに来ないなんて。白と黒で彩られたそれを見ているとまるで、迷子の子供のようにも見えてしまう。持っていたスケッチブックを開いた。宥めるようにそれを撫で、模写していく。何て簡単で、日常的な出来事だろうか。わたしは形振り構わず鉛筆を走らせた。







何時間か経った。西の空にオレンジ色の夕陽が傾き始め、カラスの鳴き声が子どもたちを家へ家へと急がせているように聞こえる。一通り終わったそれを紙の上で覗き、スケッチブックを閉じた。ふと横を見てみると、男の子が見える。……小柄の、男の子だった。その子は呆然としたようにわたしを見ていた。いや、違う。わたしが持つスケッチブックと足下に転がるサッカーボールを見ていた。もしかして、この子はサッカー部員でこのボールを探しにきたのかも。

「あ、あ、ごめん!このボール、きみのだよね?」
「え、うん。そうだけど……っていうかさっき、俺のこと無視しただろ!」
「ごめん、スケッチに夢中になってて」

落ち度はわたしにあるだろう。人に話しかけられていたのに、無視したなんて……いくら集中していたからと言っても、そんなのただの言い訳で、ここで責められるのは仕方ないことなんだ。中庭から見える校庭には、誰もいなかった。サッカー部の練習は、もう終わってしまっていた?
もしかしたら、わたしは、この子のボールを何時間も借りてしまったのか。

「あああ、あの、ごめん、ほんとごめん!すっごい借りてたよね、わたし。ごめんね!」
「うん、ずーっと持ってた」
「言ってくれば、返したのに……」
「お前が俺のこと無視したからだろ!つーか何だよスケッチって」
「だって、描きたくなっちゃったから」

笑って誤魔化せるとは思ってなかったけど、笑うしかなかった。小柄なその子は鼻で笑うと、わたしからサッカーボールを受け取る。ここで会ったのも何かの縁だろう。きみ、名前なんて言うの?笑顔で問いかける前に自分の名前を名乗るとしよう。手の差し出し、握手の体勢を取って、わたしは言った。

「わたしは名字名前。美術部に入ってるわ。きみは?」
「倉間典人。サッカー部」
「サッカー部かぁ藤原さんが部長だよね。見ない顔だから、もしかして1年生?」
「え、あんたは?」
「わたしは、2年生だけど」
「…えっ」

倉間くん、と名乗るその子の顔は、さっと血の気が引くようだった。はて、わたしは何か変なことでも言ったのだろうか。


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