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名字、名字、――何度、その名前を呼ばれたことだろう。目の前に映っている大きな瞳に上手く反応できず、目を開けてから5秒後にそれを認識する。先輩、どうして、掠れた声が喉から出てくる。先輩の顔はほっと安堵したようにひとつ息を吐き、拳でわたしの頭を小突いた。弱い力だったからそこまで大袈裟なリアクションをしなくてよかったものの、先輩が怒っているのはきっと確かだ。お前、店で倒れたって、分かってるの?……低い声だった。


「…何だかここが天国な気がします」
「は、何。死にたいの?」
「いえ、何か……何でもありません。あの、ここ何処ですか?」
「お前の家」


あっさりと言われ、少し戸惑う。わたしの家って…バイト先から少し距離のある場所なのに。もしかして店長が運んできてくれたというの?辺りを見回していると、店長らしき姿は見あたらない。もしかして帰った、とか……。まだ、何のお礼も言ってないと言うのに。先輩から見たら、わたしが慌てふためいてることなんて一目瞭然だったんだろう。落ち着かせるように肩に手を置き、「ここまで連れてきてくれたのは店長じゃないよ」と囁く。その声は酷く静かで、優しかった。


「え、じゃあ先輩がわたしを……?」
「ううん、付き添ってここにいるだけ。ここまで連れてきてくれたの、名字の彼氏だよ」
「え……」


漏れた短い反応、脳裏に過ぎったのは彼の横顔だけだった。でも、今わたしは彼といわゆるケンカ中だ。そんな気易く話しかけられるような雰囲気ではなかったはず。……いや彼にとってそんなのは関係ないのかもしれない。変なところでマイペースだったし。
それでも、今わたしは先輩の言葉が信じられなかった。わたしは彼にいっぱい、いっぱい――酷いことを言った。傷つけた。突き放した。彼に助けてもらうような資格ないのに。

あんたの彼なら今隣の部屋にいるから。呼ぶよ、わたし帰るからね。話を勝手に進め、先輩は自分の荷物を整理し始めた。止めて、帰らないで。わたしと彼を2人きりにしないで。そんな叫びも掠れた喉からは届くことなく消えていく。――先輩が帰って数分後、ドアをノックする音が聞こえた。「入るよ」と遠慮がちな声が痛い。ダメと言えず、彼は沈黙を肯定と受け取り、部屋に入ってきた。

見据えるその静かな瞳が怖い、痛い、……愛おしい。何もすることが出来ず、溢れてくる涙を堪え、静かに嗚咽を漏らすことしかわたしには出来なかった。ほんとむりょく。


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