願い続けるアグアマリーナ [ 5/6 ]

その日フリードリヒは年甲斐もなく喜ばずに居られなかった。いつもなら上映時間の15分前にはやってくるマルコはまだ来ていない。代わりに彼と同じ年頃の女性が、座席に座っていたのだ。今日は自分がチケットを切る担当ではないので彼は彼女がいつここに入ってきたのか知ることはできなかったけれど、なかなか若い年頃の人が来ることのない寂れたプラネタリウムとなれば、その女性がマルコの言っていた彼女である可能性は高い。

フリードリヒは冷静を装って館内をぐるりとチェックする素振りを見せながらゆっくりと座席の周りを歩いた。顔ぶれは大体いつもどおりだ。その女性の横を通ったとき顔をちらりと覗く。そして後ろの方の壁まで真っ直ぐ歩いていって遠くはなれたところから彼女を観察した。髪の色やスタイルは以前マルコが言っていた特徴に合致していた。身長こそ座っていたため分からないけれども恐らく間違いないだろうと彼は微笑む。ただ気になるのは盗み見た彼女の顔があまりにも呆けていたことだった。なぜここに居るのか、ここがどこなのか分かっていないような、そんな雰囲気だ。今は静かに座っているけれども落ち着いているように見えてその実、何がなんだか理解が出来ないからこそじっとしているようにも思えた。

「や、フリードリヒ」

「ああ!待ってましたよ!」

「なんだい、やけに機嫌がいいなあ」

やってきたマルコに彼は微笑みながら彼女が座っている座席を指す。マルコは不思議そうにそちらに視線をやってから動きを止めた。目が大きく見開いて暫くじっとしていたけれどフリードリヒに視線を戻してからマルコは言う。

「…そうなのかい」

「ええ、髪形や色は貴方の言っていたとおり、合致してましたよ」

「…なんだって、こんな突然」

「何言ってるんです?もう貴方と私が会ってから随分時間が経ってるのに。やっとご登場ってところですよ」

勿体つけるように言ってフリードリヒが両手を軽く広げる。あまりにも突然のことに思考が追いつかないらしい、マルコはただ瞬きばかりを繰り返していた。そんな彼にフリードリヒが彼女の隣の座席を指差した。

「隣に座ってみたらいかがです。いきなりの再会で落ち着かないというならその後ろにでも。とにもかくにも始まりますのでね、上映が」

「…あ、ああ…。人違いだと悪いし…後ろに座るよ…。今日は君が解説だっけ」

「ええ、いかにも」

とびきりの解説でもしましょうかねと顔に似合わず茶目っ気たっぷりにフリードリヒが片目を瞑って持ち場へと歩いていった。漸くマルコが重い足を動かして彼女の後ろの席に腰掛けたのを確認してからフリードリヒはマイクを取る。

「今日は皆さんにブラックホールと時間のお話をしたいと思います」

宇宙と時間の話はとても興味深く縁の深いものだと天体学者や学芸員は思っている。人間の感覚として時間は誰にも平等に流れているというのが共通の認識だけれども物理学的に行くと時間は相対的なのだということは意外と認識されても理解はされない。人間にとって光の速さがただ速いものであるという以上に理解できないのと同じように、目に見えないものを理解することが困難だからである。

「時間の進み方は観測者によって異なるという特殊相対性理論と、重力によって時間の遅れが生じるという一般相対性理論を皆さんはご存知ですか」

少しだけ間をおいてフリードリヒが咳払いをする。

「まずはブラックホールの話からいたしましょう。ブラックホールは質量が大きすぎるあまり、光ですらも抜け出すことが出来ません」

天井には大きくぽっかりとした黒い渦が客席を見下ろしていた。目の前に座る彼女が天井を仰いだのに釣られるようにしてマルコも天井を仰いだ。

「そしてその大きすぎる質量のせいで、ブラックホールを外から見ている人間からすれば時間の進み方は遅くなっているんです。これが一般相対性理論ですね。ところがです。もし貴方が宇宙船に乗っていて、ブラックホールに飲み込まれてしまったとしましょう。その大きな重力に引っ張られて実際に宇宙船に乗っている貴方ははすさまじい勢いでブラックホールに吸い込まれていくのです。これが特殊相対性理論にあたります」

マルコはへえ、と思わず声を漏らしてしまったけれど本当はそれどころではなかった。目の前の彼女が本当に彼女なのか彼には今確かめようがなかった。彼女であって欲しいという気持ちと、彼女であって欲しくないという気持ちでマルコはやりきれなくなりそうだった。だからフリードリヒの解説に必死で耳を傾ける。

「光の速度は現在この世界において最も速いと言われています。その光の速さですらブラックホールを抜け出せないほど、このブラックホールは恐ろしく私達の人智の及ばないものなのです」

そう彼が言うとゆっくりとブラックホールが消えていつもの見慣れた星空へと天井が様変わりした。時間の話をしましょうか、とフリードリヒが言った。

「もし光より速いものを人間が生むことができれば、私達はタイムトラベルができるようになるのです。人は皆少なくとも一度はタイムとラベルについて考えたことがあるでしょう。未来を知りたい、過去を変えたい、もしくは過去に戻りたい、とまあ思わずにはいられないんですね」

マルコはそれを聞いてふと物思いに耽る。以前のフリードリヒの話を聴いてからというもの、彼は未来を知ることなしに生きてきた自分を幸せなのだと改めて感じていた。けれど過去はどうだろう。マルコにとっての過去はあの世界で生きていた自分だった。戻りたいだろうか、変えたいだろうか。もし過去に戻らないかと、過去を変えたくはないかと手を差し出されてしまったら、ひょっとするとその手を取ってしまうかもしれない。

もしあの世界でまだ生きていることが出来たらと、彼はふと後ろ暗い気持ちになった。彼は自分がどうやって死んだかを覚えていなかった。それでも生きていたことはしっかりと覚えていた。彼は随分と都合にいい話だと思ったけれどどうやって死んだかを覚えているということは死んだ体が、死んだ脳が、死んだ自分がその終わる瞬間に自分の死に様を記憶したということになるのだろうと考えて、その不気味さに身震いしながらやはり覚えていなくて良かったのだと気付く。

彼は一生懸命に生きた。必死に生きた。それでもやり残したことがあった、やりたいことがあった。その全てにもう手が届かないことを彼は悔んだ。だからこそ戻りたいと、変えたいと、そのとき思ったのだ。もし戻れたら、彼を知る人ばかりが彼の世界で息をしていた。彼女だってそこで息をしていた。いつも笑顔で彼の隣で微笑んで柔らかく頬を染める彼女の愛おしさを彼は恋しく思わずにはいられなかった。

主席だったミカサと、その幼馴染のエレンのやり取りはいつだってどこかずれていて、それでもお互いを思いやる温かさを、彼は素敵だと見守っていた。同じくミカサとエレンの幼馴染で、座学に秀でていたアルミンと共に立体機動を整備したあの時間の穏やかさを、彼は覚えていた。兄貴肌で面倒見のいいのライナーと、その隣でいつも控えめに優しく笑っているベルトルトと話した、体格が良すぎるとこき使われて敵わないなんていう悩みの贅沢さを、彼は微笑ましく思っていた。そんなライナーをいとも簡単に投げ飛ばした怖い顔をしたアニが、実のところ優しくてその一方で持っているか弱さを、彼は心配していた。酷いことを言っているようでクリスタを守っているユミルと、そのユミルを支えている優しく芯の強いクリスタの家族らしさを、彼は続きますようにと祈っていた。いつもふざけては教官にどやされるコニーとサシャの、皆の心の支えで自分達が子供であるということを思い出させてくれるその無邪気さを、彼は嬉しさとともにかみ締めていた。口ばかり達者で自分勝手なジャンの、本当は現実を見据えているからこそ弱さと強さを知っている優しい人間らしさを、彼はかけがえのないものだと隣で笑っていた。

あの幸せで優しく眩しかった時間は、言葉は、感情は、本当に今も彼らの中に残っているだろか。彼らの中に自分はまだ生きているのだろうか。マルコはそう思うと瞼から熱くなり指先から冷えていくようだった。

「光の速さは1秒間に30万キロメートル進むものだとされています。もし貴方が過去に遡るためには光速より速い速度の宇宙船を作らなければなりません。一般的に光の速さを越えるものは作ることが出来ないといわれているためほぼ不可能でしょう」

「では、皆さんは、もし。光の速さを越えるものがつくれるとしたら、作りますか」

フリードリヒが場内を見渡すとぱらぱらと手が挙がる。彼女はまだ天井を見上げていた。マルコは静かに自分の掌を見つめる。手を挙げてしまいたいような、それが怖いような、そんな不思議な気持ちに彼は戸惑っていた。結局彼が手を挙げないうちにフリードリヒが再び話し始める。

「速度以外にも問題があります。母親殺しのパラドックス、というのをご存知でしょうか。簡単にご説明いたしましょう。もし過去にさかのぼり、母親を殺してしまったとしましょう。そうすると自分の母親の存在が消えるので、過去をさかのぼってきた自分の存在すらも消えてしまいます。すると不思議なことに、母親を殺したこともなかったことになるのです」

それを聞きながらマルコは浅い呼吸を繰り返した。もし自分が今、過去へ戻って死に際の自分を助けてしまったら今ここで息をしている自分は存在ごと消えてしまうのだ。そうすれば死に際を助けたはずの自分は消え、結局のところ自分は死んでしまうのではないだろうかと、彼はからからに乾いた喉で必死につばを飲み込んだ。それから彼は、違う、そうではない、何も変わらないのだとそう気付いた。

「手を挙げた方、過去に戻りたいですか。過去を変えたいですか。その挙げた手を、そっと貴方の胸に当ててみてください」

それは無意識だった。マルコは気付けばそっと拳を握り締めそれを左胸に当てていた。生きていた。心臓はどくどくと、正確に、きちんと脈打っていた。無性に泣きたくなった。

「どうか過去に戻りたいなど、過去を変えたいなど仰らないでください。貴方は生きてきた。そうして今も生きている。全て、過去の貴方が、今の貴方を愛し、あたたかく生かしているのです」

最後にフリードリヒがマイクを切って語りかける。酷く小さな声だったけれど静けさに包まれた場内ではそれで十分だった。

「貴方は、幸せだった。だから、今もそうやって生きているのではないですか」


(130813)


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