悲しみのヴィーナスはどこへ [ 4/6 ]

長い長い、夢を見た。手を繋いでふらふらと当てもなく歩く。何があるわけでもどこに行くわけでもなかった。ただ2人で歩いていた。時々視線がぶつかって、また前を向いて、それから今度は顔を見合わせる。それに驚いた後、お互いに目を細めて笑う。音は聞こえなかった。笑っている顔を見て、笑っている声が聞こえているような気がする、そんな不思議な感覚の中にマルコは居た。ただただ空と、草原が広がっている空間の中を2人で歩いていた。その度に足元の草がさわさわと揺れる。その音は全て自分の頭に直接流れ込んでくるような感覚で、誰にも邪魔されないその穏やかな場所にマルコはずっと居座って居たかった。体をふんわりとあたたかい透明な絹で包まれているのだと彼はなんとなく理解する。繋いだ手は驚くほど軽く歩幅にあわせてゆらゆら揺れた。風が吹くとお互いの髪がほんの少しだけたなびく。全てがそっとそこにあって、自分が居てもいいんだと、息をしていてもいいんだと、彼は静かに目を閉じた。

彼女がねえ、と彼に言う。正確にはねえ、と言ったように彼の頭が受け取った、のだけれど。彼女の唇が綺麗に動いた。ねえ、マルコ。私マルコと一緒にごはんが食べたいなあ。彼は首を傾げる。毎日と言うわけじゃないけれど、食堂で一緒に食べてるだろう。彼女は眉を下げる。うん、そうだったね。お腹が空いちゃったんだ。そうしてまた2人は暫く歩いた。ねえ、マルコ。また彼女が言う。なんだい、と彼が立ち止まって聞く。今度は星が見れたらいいね。微笑む彼女に彼はこの前見たじゃないかと返す。ねえ、マルコ。縋るように彼女が言った。私達、幸せな世界に生まれてたら幸せだったかしら。さあ、と彼は答える。幸せな世界って、どんな世界だい。彼女は困ったように笑うとどんな世界だろうねと繋いでいた手をそっと離した。

「…起きてください、マルコ。上映はもう終わりましたよ」

軽く肩を揺さぶられてマルコは何かへ引きずり戻されるように目を覚ました。見上げると呆れ顔のフリードリヒが立っている。マルコは静かに瞬きを繰り返して寝ていたのだと理解する。夢でよかったと彼は安堵した。あんな会話はしたことがなかった。そしてあんな会話をするとしたら自分はあんな返答は決してしなかったはずだと、そう思った。

「今まで1度も寝たことなんかなかったでしょう。とうとう飽きました?」

「…なんだか、酷い夢を見てた」

「へえ、死にでもしましたか」

笑えないな、と呟いてマルコは小さく溜息を吐いた。それから座席の背にもたれていた体を起こしてぐぐっと力を込めた。長いこと眠っていたのか、それともおかしな体勢で寝ていたのか体が音を上げる。

「逆だよ」

「何がです?」

「僕が彼女を、殺してしまう夢だ」

フリードリヒは面食らったように口を結んだまま暫く瞬きだけを繰り返していた。マルコは体を伸ばした後、両膝の間で指を交差させると体を震わせるようにもう1度深く溜息を吐いてから足元に視線を落とした。

「僕は、彼女が大好きだった」

「……ええ」

「大好きだったから、大切にしていたつもりだったんだ」

嫌と言うほどフリードリヒは彼が彼女を大切にしていることを知っていた。いつまでもいつまでもただひたすらに待ち続ける彼に呆れもしたし同情したことすらあった。それでも今は彼の純粋なその心をそのままじっと見守っていた。

「でも思い出した」

「…何をです?」

「僕は最後まで、彼女に寂しいって、言わせられなかったな」

そう言って顔を上げて笑ったマルコにフリードリヒは言葉を失った。あまりにも彼が寂しそうな顔をしていたから、つい、寂しいといえなかったのは貴方なんじゃないですか、と聞きそうになってしまう。それをぐっと堪えてフリードリヒは曖昧に首を傾げた。

「…それは、いい事なのでは?」

「え?」

「寂しい思いを、させなかったんでしょう」

「いや…寂しい思いをさせていたのに、それを言わせてあげられなかった」

マルコは天井を見上げた。なかなか席を立とうとしない彼にフリードリヒは参ったなと、静かに隣に腰掛けた。あたたかくやわらかな座席に身を預け、天井を見上げる。上映が終わりもうどの星も輝いてなどいなかった。

「……もしまた、彼女に会えたら。手を繋いで歩きたいな。それで、おいしくて、やわらかくて、あったかくて、あまいパンを食べるんだ。もちろん2人で。それで……星を見たい」

「星ですか」

「うん、星を見たいんだ。多分彼女はここに来たらびっくりするだろうな。こんなに星があるんだ。…びっくりして、それからきっと子供みたいに笑ってる。それでいい。…それがいい」

「何か守れなかった約束でも…?」

躊躇いがちに尋ねたフリードリヒにマルコは小さく首を振った。

「僕の夢だよ」

「…夢」

「ああ、夢だ。約束はね、出来なかったんだ。約束をしたら後悔してしまうような気がして。僕には守れる自信がなかったし、あれで良かったんだって思う」

それでも、とマルコは言う。彼は約束をしないでいたことを後悔していた。きっと約束をしていれば嫌でも先のことを話していたはずだった。未来を、2人が並んで歩いていた未来を少しでも思い描けたはずだった。離れ離れになるのだろうとなんとなく思いながら、けれど言えずに曖昧な温かさに包まれることを幸せだと思っていた。それでいいのだと、それがきっと自分達の精一杯の幸せなのだと、そう彼は思っていた。約束をしていれば恐らく守れなかった約束を今後悔していただろう。どちらにせよ後悔していただろうと分かっていながら、それでも今後悔せずにはいられなかった。

こうなることが分かっていたらきっと自分は違う道を選んでいたのではないかとマルコは考えていた。どんな道を選んでいたかは分からない。それでも死んで、こうしてここに来ると分かっていれば、もっともっと毎日を飽きるほどに繋いでいたかったに違いないし彼女にかけたい言葉や共に過ごしたい時間や尽きない願いは思いつかないくらいに沢山あっただろう。

「時にマルコ。パンドラ、という女性をご存知ですか」

「…いいや」

「パンドラは匣を託されるんですよ。決して開けてはいけないと言われてね。それでも彼女は開けてしまった」

フリードリヒは軽く両手を広げて天井を見上げた。真っ暗な天井はぽっかりと息をしていて確かにそこには空間があるのに上手く息が出来ないようだった。彼は目を細めてマルコに視線を投げる。

「その匣にはこの世のありとあらゆる災厄が入っていたんです。パンドラはもちろん慌てて閉めたのですが、災厄は全て外へ、つまりこの世界へ出て行ってしまった。自分のしたことの大きさに彼女は絶望して泣き伏しました。泣いて泣いて泣いて、そうして匣の中から聞こえてきた音にそっと泣き止んだ」

「…どんな?」

「あたたかく、そして綺麗な音です。なんだろうと思って彼女が匣をもう1度開けたんです。そうしたら何が入っていたと思います?希望が、入っていたんですよ。希望はこの世界に出て行って、災厄で溢れてしまったこの世界を照らす希望となったんです」

突然パンドラの話をし始めたフリードリヒにマルコはただただ眉を顰めるだけだった。それでも彼は構わず話し続ける。

「ただね、この話は嘘なんですよ。たった1つ、出て行かなかったものがある。なんだか分かりますか?」

「…分からないな」

「未来を知る力ですよ」

「未来を知る力?」

「ええ、未来を知る力です。これが出て行かなかったから、人は未来を知ってしまうことはなくて、だから人は未来への希望は失わなくて済んだという、そういう話なんですよ」

何通りも解釈の仕方はあるのでしょうけれどね。フリードリヒが肩を竦めて手を下ろした。肘掛にゆったりと腕を載せまた天井を仰ぐ。隣に座ったままのマルコはすっと視線を天井から前の座席へと下ろした。

未来への希望は、マルコにとってあまりにも眩しすぎて覗くことすらできなかった。だからこそまた何にも囚われずにまっすぐな瞳で夢を見ている人を羨ましいと思っていた。それが嫌味に聞こえても嫌味のつもりではなかった。ただ羨ましかった。夢を抱いてもそこには不安があった。恐れがあった。悲しみがあり、やるせなさがあった。それをどうすることも出来ずただ与えられた世界で与えられた命を大事に握っておくことしか彼はできなかった。そうと知っていながら、もし知っていたらもっと沢山、呆れるほどにやりたかったことも言いたかったことも笑いたかったことも怒りたかったことも泣きたかったこともあったはずだと思わずには居られなかったのだ。

その傍ら、運命だとか宿命だとか、巡り会わせだとか定めだとかそういった言葉をマルコは信じたくなかったし、信じることが出来なかった。ともすると信じたくなかっただけなのかもしれない。なぜならもし、全てが何もかももう定められていていたのだとしたら、何もかもが悲しすぎると思ったからだ。生まれたときに死ぬことが決まっていることにすら目を瞑って生きていたいような気がした。この矛盾した気持ちに彼はもうずっと長いこと名前をつけあぐねていた。

「悲しいと思いますか、それとも、惨いと思いますか?」

何も言わないままの彼にフリードリヒは言う。

「でもね、もし貴方と彼女の出会いが運命だとしたら、悲しい別れも幸福な未来もどちらが自分の下へやってくるのか知ってしまっていたんですよ。そうでもなってしまえば恋なんてちっぽけなものでね。結末を知っている物語は、ただのお芝居だ」

フリードリヒはそう言い切ると立ち上がりマルコを見下ろした。

「星がなんで美しいかご存知ですか」

私達が、どんなに望んでも手に入れることが出来ないからですよ。そう微笑んで彼は扉の方に歩いていく。マルコはその背を呆然と見つめていた。振り返った彼をじっと見つめ返す。

「だから貴方は待っているのでしょう」

「…フリードリヒ、もう少し、僕にも分かるように言ってくれないか」

「…こうして待ち続けている貴方は約束なんかしなくたって誰よりも誠実で誰よりも真摯だ。彼女がそれを知ることがなくても彼女は幸せだと、私はそう思いますよ。」

それは、僕がたとえ静かに彼女が死ぬのを待っていてもかい、とは聞けずにマルコは目を閉じてゆっくりと椅子から立ち上がった。

(130812)



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