・幽鬼三郎×現代兵助
『私の未来も何もかも
全てを懸けてお前を守るから』
これが俺の最期の記憶で最初の記憶。何度も何度も繰り返されて、すっかりと身に馴染んでしまった言葉で、サブロウという人間の記憶。自室の隅にはこれまたすっかりと身に馴染んでしまった、かたまりがいる。きっとそのサブロウという何かなのだろう。その何かは常に、俺の側に付かず離れず存在していた。
田舎の大学の長所は、徒歩圏内にアパートやら下宿やらが多いところだろう。俺の住むアパートも生協管理物件であり、大学へは十分もかからない。1Kの部屋はそれなりに綺麗で、古くも新しくもない。
周囲から思われているほど真面目じゃない自分の起床時刻は、適当に身支度をして普通に歩いてやっと始業5分前といったところだ。朝飯代わりの缶コーヒーを片手に重い鉄扉を押し開ける。
「……」
押し開けたまま、無言で少しだけ。部屋の隅にわだかまっていたそれが、するりと隣に並ぶまで。習慣化してしまったこの挙動を見咎める人間は、いない。
それは人のかたちをしていた。けれども、俺以外の誰にも見えないという時点でまず人ではない。じゃあ何なのかと、思い悩んで問うてみたこともあったが返事はなかった。意思の疎通は不可能らしい。意思が存在するのかどうかも怪しい。ぼんやりと焦点の定まらない視線を宙に投げ、半開きの口からは時折、あーとかうーとか意味をなさない声が漏れるだけだ。本当に何なんだろうか。
一番後ろの席に座るようになったのはいつからか。数式をノートに書き写す合間に振り返る。頭の中は、いつまでも書き慣れないギリシャ文字で埋まっているのに、目だけはしっかりとサブロウを捉えていた。小さく頭を揺らしながら、虚ろに空を見詰めるそれ。変わりはしない。そのことに覚えたのは安堵か失望か。けれども大切なのは、いかにしてこの蛇ののたくったような文字をその道数十年の教授のそれに近付けるかである。か細い唸りが聞こえた気がしたが、まぁ気のせいだろう。
物心付く前から、いや。更にそれ以前、まだ兵助と名付けられる前から、言葉は脳内にわだかまっていた。目が見えるようになる前から、サブロウはあった。それが俺にとっての普通で、他人とそのことについて語ろうとは思わなかった。それは正しい、そして幸運なことであったと今は思う。狂人扱いされてもおかしくないじゃないか。こんなこと。
自分でもあり得ない、一種の狂気の沙汰だとは分かっている。けれども、未だかつてサブロウを怖いと思ったことはなかった。
常にぼんやりとしているサブロウだが、たまに眠ることがある。深夜自室の隅で、膝を抱えてうずくまっているサブロウを何度か見かけた。サブロウはうなされていた。かたかたと小さく肩を震わせ、うなじに脂汗を浮かべて。そして小さく、
『守るから……必ず…。兵助…すまない…
全部…、お前に……。だから』
うわごとは本当に小さな声で、記憶の中の声と寸分違わず。そして何より本当に苦しげで悲しげで。だから、俺はこのサブロウを怖いと思えないのだ。
よく晴れた日だ。午前中で講義が終わる爽快感。雲一つない空。気が遠くなるほどに突き抜けていて。時間のせいか、人影どころか車すら通りかからない。
―気が、遠くなるほどに
行きと同じく数メートル後ろをひょこひょこと着いてくるサブロウを、立ち止まり待った。横に並び、追い越されそうになり。相変わらず、その目に俺は映っていないようで、
―出来心だった
ひょいと手を伸ばして、サブロウの手を取った。それは冷たかったが確かな感触があった。そのまま握り込む。サブロウの歩みが止まる。
―気のせいだろうか
こちらを見ないサブロウが、微かに笑った気がした。
今日はよく晴れたいい日だ。
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蛇足
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