あれはいつだったか…。
 確か四年生に上がって間もなくだった。三郎が、お使いの帰りに花を摘んで来るようになった。何でもないただの野の花。一掴みにも満たないそれを、ぞんざいに突き出されたことは記憶に新しい。

『やる』

 意図は分からなかった。けれど、くれるならと受け取った。三郎が俺にくれるというだけで、現金な心は喜んだ。俺は三郎が好きだった。いつの間にか、ずっと。想い人から花を受け取るなんて、凄くロマンチックじゃないか。たとえそれに、髪の毛一筋たりとも情が込もっていなくたって。三郎が雷蔵を好きなのは周知の事実だった。優しい雷蔵。三郎という存在を許容し、包容する雷蔵。不思議と嫉妬は起こらなかった。ただ、ぽっかりと胸に空洞が宿った。

 三郎のくれる花は白い湯飲みに入れられて。昼間は部屋の明かり取りに、夜は箪笥の上に置かれた。そうして数日間往復作業を繰り返したあと、長屋の裏に埋められるのが常だった。ほんのりとした非日常は、三郎のお使いに依存した。三郎に続いてお使いを頼まれるようになって、ああ、この花にはそんな意味があるのかと、少々センチメンタルな気持ちと共に納得したこともあった。摘んだ花を手元に置いておかないのも、雷蔵に渡さないのも頷けると。しかし、そういった類いのお使いでなくとも、花は渡された。ぞんざいに、たった二文字だけの言葉を添えて。繰り返されるうちに、お使いから帰ってくる三郎を校門で待つようになった。端から見たらさぞ滑稽だったろう。それでも、必ず花は渡された。小さな花束。小さくて可憐で哀しい、それだけ。



 あれはいつだったか…。
 三郎と共にお使いに出されたことがあった。少し遠くに届け物。二人なのは戦をしている地域を越えなければならないから。しかし、実際には危惧していたほどのものではなかった。三郎の少し後ろについて、他愛ない会話をするだけ。幸せだとは感じなかったが、こんな風に終わってしまえばいいのにと思った。このままフェイドアウトして、物語が終わってしまえばいい。死にたいんじゃないけど、終わってほしい。

『あ…』

 声を上げた三郎が急に道を逸れた。

『何?』
『ちょっとそこで待っとけ』

 三郎は、道端に咲いていた黄色い名も知らぬ花を摘み出した。プチプチと、動作は自然で手慣れていた。俺は突っ立ったまま、三郎の細い指が花を摘むのを眺めて、そこに沈む意図を読み取ろうと足掻いてみる。無理だとは知っていたけれど。三郎が何を考えているのかなんて分かりっこない。せめてその指先に優しさが乗せられていたならば、その表情に慈しみが重なっていたならば。

『やる』

 いつものように差し出されるそれを受け取る。黄色い花は可愛らしくて、泣きたくなった。少し顔を歪めた俺を、何も言わずに三郎は見つめた。

『行こう。今日中に帰りたい』
『ああ』

 そこからは会話が少なくなった。三郎の少し後ろについて、ただ花をもてあそんだ。匂いを嗅ごうとしたがほとんどない。茎を摘まんで回してみたり、緩く振ってみたり。三郎は気配でやっていることが分かったのか、余りいじるな。と言った。

『いじり過ぎるとすぐ駄目になるぞ』

 いじり過ぎて駄目になったのは俺の片恋。頭の中でこねくり回して、気付いたら告げることもできなくなった。染み付いてしまって捨てることもできない。花は次第に萎れ、学園に着いてすぐに水に漬けたものの、翌日には完全に駄目になってしまった。花を埋める俺。三郎はちらりと見に来て、何も言わずに行ってしまった。



 あれはいつだったか…。
 ぼたぼたと雨が降っていて、雲が厚くて薄暗い午後。湿気が酷くて、せめてもの風通しにと障子と明かり取りを全開にして、文机に向かい本を読んでいた。頭がいつもより重い気がして憂鬱だ。じっとりとした空気に、めくる頁も湿っているように感じる。今日中に読んでしまいたい本なのだが、どうやら無理かもしれないと溜め息混じりに天井を仰いだ。

『兵助』

 背後から声がかかった。三郎だ。そういえば雷蔵は使いに出されていたなと思い至った。雷蔵不在のときは、俺の部屋で暇潰しをする。雷蔵が帰ってきたら、自分も雷蔵のところ帰る。繰り返されてきたし、それが当たり前のように思えて、都合よく使われる怒りは生じなかった。むしろ、少しだけでも側にいれることを喜んでいた。

『何を読んでいるんだ?』
『古い兵法書だ。次の演習に使えないかと思って』
『そうか』

 授業の話。級友の話。いつもと同じだが、天気のせいか途切れがちだった。雨音が沈黙を埋めるため居心地悪くは感じない。つと、三郎は明かり取りに近付き、先日自分が摘んできた花に指を伸ばした。柔らかく花弁をなぞる。湿度の高さに辟易していたからか、唇が思いがけない言葉を紡いだ。

『その花の名前、松虫草というんだ』
『ほう』
『花言葉を知っているか?』
『名前すら知らなかったのに、知っているわけがなかろう』
『かなわぬ恋、だ』

 沈黙。三郎はたいそう皮肉げな顔をした。皮肉はこちらだ。かなわぬ恋だなんて、とうの昔に気付いている。三郎が好きだった。器用にひらひら動く指も、存外に合理的な思考も、しなやかな獣を連想させる所作も、普段の大人びた表情も、時折見せる子供っぽい笑顔も。全て好きだった。告げるならば今だったろうに。お前が好きだと、それだけ。俺はそうしなかった。ただ、心をひた隠しにするため余裕ぶった笑みを浮かべて、正面から三郎を見た。かち合う視線。先に逸らしたのは三郎の方だった。その唇が、済まないとかそういった謝罪の言葉を紡ぐ前に、

『本気にするなよ』

 言って、口角を更に上げた。三郎は口を開いて、閉じて、普段と変わらない笑みを浮かべた。そして、部屋から出ていった。



 あれはいつだったか…。
 卒業後の進路が決まった。俺は迷った挙げ句、両親の強い希望に沿うかたちで実家の問屋を継ぐことになった。それなりに修羅場もあったが、最終的には双方納得済みでの決断だった。最後まで学園に通う。しかし忍にはならない。それを聞いた友人たちは酷く残念がったが、もう決めたことだからと言うと、それ以上嘆くことはなかった。一番引き止めたのはハチで、三郎ではなかった。三郎は知っていたのだろう。そういえば、何かの拍子にぽろり零した気がする。友人たちは皆忍になると言った。意外だったのは双忍の二人で、進む道は異なると言う。

『雷蔵の城仕えが決まってな。私は自分の実力を試したいからフリーでいたいし、結果自然に道を違えることになったんだ』

 三郎の台詞は少々言い訳じみていた。対して雷蔵はにこやかに、仕えることとなる城について話していた。確か、皆でこっそり酒を持ち込んで酒盛りをしていたときだった。俺はひたすら、三郎だけを見ていた。口に運ぶ酒の味も分からぬくらい、ひたすら見詰めていた。

『何』
『いいのか?雷蔵と別れて』
『よいも何も、互いに求めるものが異なるのだから仕方がない。それに、進む道が違ったとて絆が切れるわけではないさ』

 絆。三郎の口から出るにはいささか不釣り合いな言葉は、俺の胸深くに刺さった。三郎と雷蔵の間には絆がある。俺と三郎の間にあるのは何だろう。友情?きっとそんな、切れないものではない何かだろうという実感が、深く深く、悲しくて。潤んだ瞳は酒のせいにした。俯いて、湯のみの中揺れる水面をただ眺めていた。はしゃぐ声を遠く聞きながら、残りの期間に思いをはせる。終わりが近付いている。エンドマークはすぐそこだ。




title
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -