夜半、兵助は三郎の部屋を訪れた。ためらいがちに障子を引き開けたあとは、ひたすら茫然とした面持ちで廊下に突っ立ったまま。そんな兵助を見て三郎は内心首を傾げたものの、それを面に出すことなく代わりに唇を厭らしくねじ曲げた。

「これはこれは。こんな夜半に訪ねられる者の迷惑も顧みず一体何のご用でしょうか?」

 ささくれ立った乾いた言葉に返答はなし。ただぼんやりと焦点の合っていない目で三郎を見る兵助にただならぬものを感じて、三郎は大きく舌打ちをした。

「入れ。んでそこを閉めろ」

 そこでようやく兵助が動いた。普段の凛然とした動きはどこへやら、のろのろと足を踏み出し後ろ手に障子を閉める。そのまま一、二歩三郎に近寄ったかと思いきや、ぺたりその場に座り込んだ。

「何の用だ」

 鋭く硬い声で三郎は問う。視線を廻らせて横目でこちらを見やる三郎をぼんやりと捉えると、兵助は口を開いた。

「三郎は俺を憎んでいるんだろう」
「…そうだ」
「なぁ、三郎」

 俺を殺してくれ。と。
 ただならぬ依頼に三郎はきつく眉をひそめた。その真意が読み取れない。本気なのか冗談なのか、はたまた自分を嵌めようとしているのか。こちらを見ているようでどこか遠くを見ているような目には何ら感情が浮かんでいない。もしくは、全てを通り越した深い虚無だけが残っているようだった。

「何故、殺されたい」
「父上が死んだんだ」
「なぜ、それで殺されたいんだ」

 兵助は小さく小さく笑った。

「父上が死んだ。叔父上は、自分が権力を握るために俺を世継ぎにしたい。兄上と争うことになる。多くの家臣が巻き込まれての争いになる。下手をすれば、民すら巻き込まれる。だから」

 穏やかに語る口調とその内容には隔たりがあった。諦念を示す大きな隔たりがあった。ちらりと三郎の胸中を同情が掠めていったが、沸き上がる怒りによってそれは掻き消されていった。

「高々その程度で、死にたいだなんて」

 声は掠れて低く響いた。怒鳴り付けることすら出来ないくらいの怒りだった。

「だから、お前が俺を憎むなら殺せばいい」

 ゆうるり微笑む兵助に、三郎は掴みかかった。胸倉を取れば細い身体は簡単に傾ぎ、背を床に打ち付ける鈍い音が響く。馬乗りになって己を睨む三郎に、兵助は抵抗を見せなかった。当たり前のようにそっと頤を持ち上げて、その白い首を晒した。
 誘われるようにして三郎は首に手を掛ける。それでも少し気後れし、じわじわと指に力を込めて締め上げた。合わせて、兵助の微笑が深まってゆく。まるで安心しきった赤子のように、目を細めて兵助は笑う。三郎はその表情に躊躇いを覚えた。

「…なぜ?」

 気付けば手を離していた。膨大な怒りは流れ去り、後には憐れみのような悲しみが残った。自分には大したことではないと思える事象に心を病み、心底死を望むこの少年がとてつもなく憐れであった。

「なぜ…なんてそんな」

 そこでやっと、兵助の顔が歪んだ。張りつめたものが少し弛むのを感じる。

「だって、孤独だ。誰も俺を見ない。俺を聞かない。好きなように使って、疎んで、解釈して、嫌って。上っ面ばっかり滑っていく。そんなところに帰れるわけがない。のに、俺の居場所はそこにしかないんだ。そんな生き方しか、なくて…」

 三郎はそろそろと上体を起こした。今度ばかりはその程度でとは思えなかった。台詞にはどうしようもないほどの苦痛が込められていたから。学園に入学するころから、それ以前からそんなことを考えなければいけない現実を、その程度ということは出来なかった。歪んだ顔を隠すように兵助の腕が顔を覆う。押し倒された体勢のまま、小さく兵助は言った。

「憎んでくれて構わない、三郎。でもこれだけは言わせてくれ。
 一族のことは本当にすまなかった。采配の非情さを知ったのは数年前で、俺には何もできなかった」

 何とも言えない顔で見下ろす三郎を見ないまま、兵助はただ繰り返した。

「すまない。三郎」





 その夜、何があったのか俺は知らない。けれど翌日から、二人の雰囲気はがらりと変わった。そして、二人でいることがぽつりぽつり増えていった。何をするでもなくただ傍にいるだけだったけれどね。三郎が兵助に向ける視線には確かに同情があって、兵助からは頑なな気負いが抜け落ちていた。行動を共にすることも多くなって、ちょっと異質で気安い間柄に見えた。
 季節は巡る。また春が訪れて、学年が上がる頃に、兵助の叔父上が学園を訪ねてきた。領主様が亡くなってから、様々に理由を付けて実家に帰らなかった兵助に業を煮やしたがために。





 丁寧さと親しみと嫌味が程よく混じり合った台詞をつらつらと吐く叔父を兵助の隣に正座して眺めながら、勘右衛門は欠伸を噛み殺した。いっそ清々しいほどに退屈だ。姿勢を正して聞いている兵助も、こっそりと爪をいじっている。こういう部分は図太くなったよなぁ。と、この場にいない男が兵助に与えた影響に思いを馳せる。何だかんだでお互い居心地がいいのか、友情のような何かは着々と育まれているように思えた。
 座敷の障子は締め切られ朗らかな風を感じることは出来ない。強張った腰を伸ばすために兵助がこっそりと姿勢を正した時、ふっと影が差した。

「お話し中失礼いたします。火薬委員会の重要伝達事項があるため、委員長代理は至急担当教諭のところへ向かうようにと言遣って参りました」

 立て板に水とすらすら述べるのは三郎だった。実際のところはどうか知らぬが、抜け出すのにはよい頃合いか。気を取られる叔父に気付かれぬよう、兵助と勘右衛門は素早く視線を交わした。すみませんがこの辺で、と兵助が口を開きかけたとき。
 そのときだった。

「鉢屋先輩!!」

 庄左衛門が三郎を呼んだ。よく通る、大きな声で。叔父の眉がぴくりと動いた。不可解さと嫌悪をないまぜにした表情で、叔父は障子の向こう正座した影を見据えた。

「兵助の、ご学友かな?入っておいで」

 奇妙に猫なで声であるのがその場の面々をより一層不安にさせた。三郎は躊躇いをはらんだ仕草で障子に手をかけ、一拍置いてゆっくりと開け放った。雷蔵の顔をした三郎の姿を上から下まで舐めるように眺めつくし、やはり粘っこく叔父は言う。

「名前は何と?」
「…鉢屋三郎です」
「ふむ、鉢屋君。鉢屋三郎君。私は兵助の叔父だから、彼に関することは何でも知っておきたいのだが。ちょっと聞いてもいいかね。
 鉢屋君。君の出身は、どこだい?」

 質問に三郎は答えなかった。答えられなかったし、答えなくともその反応だけで悟られているだろうと思った。何よりも屈辱があった。ただじっと、膝の上で握り締められた拳を見ていた。





 その日以来叔父上は、事ある毎に文を送り学園を訪ねて来るようになったんだ。三郎と兵助を引き離すためにね。三郎と親しくすることは次の領主として致命的で。そのくらい、鉢屋という身分は低いものだった。
 三郎の祖父はかつて領主様の最も信頼していた家臣だったそうだよ。でも、何があったか詳しくは伝えられていないんだけど、反逆を企て領主様を殺そうとしたらしい。領主様は怒り狂い、最下層の身分をわざわざ設けて一族ごとそこへ堕とした。三郎と親しくすることは、反逆者と親しくすること。そんなの、体裁ばかり守り抜こうとする人間の集団で、許されるわけがないよね。
 けれども兵助は、完全に叔父上の訓告を無視した。そんなの関係ないってさ。繊細そうなわりに頑固な一面もある兵助らしいよね。そんな兵助に代わって気に病んだのは、皮肉で攻撃的なのが傷付きやすさの裏返しな三郎の方だった。





 不意に三郎が兵助を呼んだ。昼下がり三郎の部屋でてんでばらばらに寝転がり、思い思いに書を広げ眺めている最中のことだった。仰向けた兵助からは、左斜め上にいるであろう三郎の声しか聞こえない。どんな表情をしているのか、ましてやどんな顔をしているのか予想すら出来なかった。

「どうした?」
「やっぱりお前は実家に帰って領主を継げ。兵助。そしていつかは親父たちを今の身分から解放してやってくれ」

 またその話か。と兵助は聞こえるように溜め息を吐いた。ここのところずっと、三郎はそのことばかりを話題にしてはこっそりと拗ねる。少々うんざりしないでもなかったが、甘えられているのだと思えば可愛いものだ。そう兵助は思っていた。

「俺は兄上を差し置いて領主になろうとは思わない。勿論、一族の件は出来る限り尽力するが、それは卒業後の話だ」
「ならばせめて私とつるむのはよせ。帰れるものも帰れなくなるぞ」
「三郎」

 書を置いて寝返りを打ちうつ伏せになると、やっと三郎のつむじが視界に入った。兵助は手を伸ばしてその辺りを柔らかく撫でる。

「何だ」
「いや、三郎は怒るかも知れないが」
「何だよ」
「俺たちは似た者同士だな」
「…全くだ」

 そっぽを向いているので表情は全く分からないが、三郎の声は掠れていて泣いているように聞こえた。兵助には、そう聞こえた。

「兵助」
「ん?」
「不毛だろうか?こんな風に、同情から始まるなんて」
「さぁな」

 何が、とは言わなかった。




 彼らは確かに惹かれ合っていたよ。うん、その結果恋仲になった。何となく予想はしていたんだろうね。誰も驚かなかった。ただ静かに、ちょっともどかしいな、なんて思いつつ見守るだけで。頭いいわりには二人そろって案外不器用でさ、微笑ましかった。
 けれども、長くは続かなかった。領主様が亡くなって一年、とうとう叔父上が兵助を連れ戻しにかかった。冬休みまでに自分から帰らなければ、強制的に連れ帰るって。





「本当にいいのか?」

 ゆらり、行灯の火が揺れて不安げな八左ヱ門の顔を照らす。

「決めたんだ」

 三郎は決意を顕に言った。兵助はその隣でこくりと深く頷く。

「兵助、三郎」

 雷蔵の声には深い悲しみがあったが、それでも笑って見せた。

「君たちの将来に幸多からんことを」
「…ありがとう。雷蔵」
「兵助っ」

 勘右衛門は小さく叫ぶ。堪えきれないと叫ぶ。

「今までありがとう。勘ちゃん。それと」

 ごめんね。
 穏やかな声音にとうとう勘右衛門は泣き出した。




 分岐点。実戦演習中の事故としてそれは片付けられた。三郎の組んだ策が破れ、本人を含む数人の生徒が火薬の暴発に巻き込まれ、怪我を負った。そして、爆心地に最も近いところにいた三郎と兵助はとうとう見付からなかった。引きちぎれたような一房の髪だけ。
 けれどもこれが三郎の、二人の本当の狙いだったと知る者は俺たちだけだった。二人は逃げた。手を取り合って誰も知らないどこか遠くへ。それが二人の出した、二人で幸せになれる最適解だった。家名もしがらみも何もかも、俺たちとの縁すら捨てて二人は行ってしまった。
 それからのことは知らない。一度だけ、巧妙に偽装された文が届いた。元気にやっていますとだけ書かれた文が。そのときの喜びは、もう何ていっていいのか分からないよ。ああ、よかったと染み入るように思った。その文は、出来れば取っておきたかったんだけど万が一のことを思って燃やしてしまった。
 俺は事件後、雷蔵たちと無事に卒業を迎えて、実家に帰った。兵助を守りきれなかった役立たずの傅役と散々嫌味を言われたけど、子供だしってへらへら流していたらそのうちに止んだ。そして新領主様には兵助の兄上が収まった。





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