桜の樹の下にその男はいた。黒い髪を風に遊ばせ、ただ立っていた。その姿はまさに幽玄。惹かれるままに近付くと、伏せられていた顔がこちらを向いた。
「お前じゃない」
告げられたのは否定。しかし嫌な気はしなかった。代わりに興味が湧いた。この奇麗な男は、一体誰を待っているのだろうと。樹の幹に手をつき閉じ込める。男は意外と抵抗することなくこちらをじっと睨み付けた。
「誰を待っているんだ」
「友人を死に向かわせた男を」
「何のために」
「食らうために」
声は至って真面目だった。食らう、という言葉は糖蜜か何かのように甘やかに聞こえた。
「お前は何なんだ」
「俺は鬼だ」
鬼ならば人を食らうのも頷ける。その美しさにも納得がいく。全くの無表情を貫く顔に手を添えて、ゆっくりと口付けた。やはり抵抗はない。触れた唇は、火がついているかのように熱かった。成る程確かに、
「鬼だな」
「俺にしないか?」
「何をだ」
「食らう相手さ」
提案は全くの本気だったのだが、鼻で笑われる。意味がない。と鬼は言う。
「俺がここに現れた意味がない」
「意味ならあるさ。俺を食うことだ」
「何故俺に食われたがる?」
「お前ほど奇麗なものは初めて見た」
俺が本気であるとやっと理解したのか一つ嘆息して、鬼は俺の首に腕を回した。
「ならば食ってやろう。お前をこの胎に納めてやる。俺の血肉の一片となってしまえ」
折しも強い風が吹いたところであった。桜の花弁が舞い散り、視界が埋まる。その刹那灰色の髪をした男が見えたようだが分からない。
何故なら俺は、鬼の腕の中に墜ちていったのだから。
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