それはあたかも瀑布のようで

 口を喉を肺腑を、自らの身体を一個の楽器たらしめ勘右衛門はただ心の思うままに歌った。その心はやがて神の心象と一つになり、個の境界を融けさせる。歌うのは生。神の一方が望み兵助に託した破壊と対称の生成の歌だった。それが、神のもう一方が勘右衛門に望み託したものだった。
 その一音が鳴らされる刹那、兵助は宙を舞った。握り締めた剣に感応を委ね、今まさに立ち上がろうとする子供のような神の現身に叩き込まんとする。同時に動いた三郎が地を這うように低い姿勢で駆け込み、神の動きを封じ込めんとした。更には雷蔵の演算が等号を結び、うねるように左右から炎の刃を走らせた。神はそれら必死の攻撃を、甘んじて受け入れたかに見えた。

「くっ…」

 とっさに剣を引く兵助。手には苦い感触が残った。剣は確かにその身に斬り込んだ。しかし傷を及ぼすことはなかった。代わりに、心の中に混沌としか言いようのない感情が突き刺さった。ぐちぐちゃどろどろとしていて、しかしそんな中にもはっきりと死への渇望と生への執着があった。そんな情塊が兵助を犯し、剣に斬ることを許さなかった。
 兵助が刃を返すのと同じ刹那、三郎が撫でるような仕草で神の足元から剣を跳ね上げる。しかし刃がその身に触れた瞬間、まるで目に見えぬ何かに弾かれたかのように後方へと吹っ飛んだ。素早く体勢を立て直すも膝が砕け地に跪く。また雷蔵の放った演算は神の身に触れる直前で炎の先端が融け消え、やがて眼にも留まらぬ速さで消滅が雷蔵に届き舞う指先に見えぬ縛鎖を施した。

「三郎!!雷蔵!!」

 たった一撃、その一撃でこの様だ。兵助の中に神のものではない己自身の苦い感情が沸き立ち、無意識に歯を噛んで舌打ちをした。
「神の見えざる手だ」

 息荒く三郎が呟く。後を引き取るようにして雷蔵が言った。

「僕らがかつて神ともっと近しかった時代に、神は僕らに直接意思を表した。その名残が、後発種族となった今でも遺伝形質として残っているんだ」
「それが…」
「しかしお前は違う、兵助。太古の時代、神と対等の位置にあった原種族のお前には、神もその強制力を発揮できない。唯一、神に直接対抗できるのはお前だけだ。兵助」

 三郎の言葉には確かな期待と共に悲哀があった。言葉を聞いた兵助の中にも、悲哀と共に一抹の孤独が生まれた。御し難く動きすら止めてしまいそうになるほどの孤独だった。

「俺は、神を斬るためだけに作り出された存在だったのか?」

 その言葉は確かな真実を示していた。同時にそれは、兵助が今まで抱いていた確固たる自分の存在理由を揺るがした。たった数刻前、衝動のままに叫んだ自らの言葉が思い起こされ、悲しみに塗り込められて沈んでいった。

「兵助…」
「俺はただそのためだけに生み出されて、生きてきて、こうして神を斬ろうとしているのか?」
「……」
「そうなんだろう。言え!!三郎!!」

「そうだよ」

 肯定は三郎ではなく雷蔵から発せられた。やはり苦しげに眉をひそめて、それでもしっかりと兵助を見据えて雷蔵は言った。

「君は神を斬るためだけに生み出された、この世界で唯一の存在だ。君はその存在理由から逃れることはできない。けれど――」

 ゆらり。緩慢な動作で立ち上がった神の手が空に差し伸べられる。一番に気付いたのは雷蔵だった。言葉を切って苛烈な意志で持って演算を紡ぎ、ひた走る何かの盾にする。

「っ雷蔵!!」

 傾ぐ身体。息が荒い。三郎が我が身の苦痛を抑え込んで駆け寄りその身体を支えた。額に滲む脂汗が交錯により増大した苦痛の大きさを物語る。

「兵助。頼む」

 三郎の言葉は痛切な何かに満ちていた。しかし腕は束縛を受けたかのように動かなかった。何とかしなければと思うのに、頭では理解しているのに何かがその身を押し留める。ただ茫洋と三郎の目を見返すことしかできなかった。
 悲しかった。寂しかった。孤高であることが何の慰めになるだろう。どんな特別な、崇高な使命を抱ええて生まれてきたからとて、結局それは孤独であることに変わりない。そうした意味では自分は神に近しい存在なのだろうと妙に冷静に考えてしまい、しかし苦笑すら零れ落ちることはなかった。

「兵助――」
「徒に、寂しさに浸ってはいけない」

 目を閉じたまま、低く走る鞭の音のように雷蔵が言った。

「君は確かに独りだけれど、決して僕たちが君を孤独にはしない。君を頼ることはあっても崇めるようなことはしない。だから信じて。お願いだから」

 三郎、僕はもう大丈夫だから。そう言う雷蔵は決して大丈夫そうには見えなかった。けれどもその意図を正しく汲んだ三郎はその場にそっと雷蔵を横たえて、兵助の傍に立った。滞空する兵助に手を伸ばし、剣を握る手をそっと撫ぜた。

「私は、お前がどんな存在であろうとも、お前を愛している。

 愛しているよ。兵助」

 悲しかった。寂しかった。心に突き刺さる何かがあった。迸る感情そのままに兵助は吠えた。獣のように、或いは、人として。これまで飲み干してきた様々なものが爆発したかのようだった。そしてただ、空を駆けた。




 自分は何故この場にいるのだろうか。その疑問が氷解するのを八左ヱ門は感じた。剣士たちの戦いを目前に、歌士の生命を賭した歌を隣にして、やっと自分の存在理由を見出した。言葉にはしがたく、ただ握る手に力を込めてその意志を表した。

「あぁ…」

 一人の民として、個として、人格的存在としてこの行いを見届けるのだ。いつか語るべき時のために。一つの神話が潰え、新しい時代の始まりが如何にしてなされたのか。その証人として。それが自分に課せられた使命だと、運命なのだと確信した。

 兵助が飛ぶ。それは石弓のように速く鋭い。伸ばされる神の手。蔦のように絡め捕ろうとする指。斬り払って突き込まれる刃。うねりを帯びて高まる歌声。


  一瞬ののちに、神の身を剣が断った




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