いつだって触れてほしい 1 | ナノ

金曜日の放課後。
一度寮の自室へと戻った翔は、何故か再び学園の廊下をひとり、歩いていた。
週明けに提出しなければならない課題を机の中に置き忘れてきてしまったためである。自主練等をする生徒のために休日も校舎は開放されているものの、せっかくの休日に(同敷地内とは言っても)わざわざ足を運ぶのは億劫であると考える翔にとって、今日の内に取りに行ってしまおう、という結論を出したのは至極当たり前のことであった。
それからもうひとつ、今度の休日はレンとトキヤの3人で買い物に行こうという約束をしていたのもあって、尚更早く課題を終わらせたいと思っていたのだった。
授業も終わり、いるとすれば残って自主練している生徒くらいであろう、この時間。
廊下を歩き、普段使用しているSクラスの教室の扉を開けようと手をかけたところで―、

「―あぁ、おチビちゃんのこと?」

わずかに隙間が空いていた扉の向こうからそんな声が聞こえてきて、びくりと翔は思わず手を止めた。
あとから思えばこのときためらわずに扉を開け放ってしまっていればよかったのかもしれないが、そのときの翔はそこまで考え付くこともなく。
…レンの、声。
扉の向こうから聞こえてきたのは確かにクラスメイトであり、同じ夢を目指すライバルであり、つい最近、"恋人"という関係にもなった神宮寺レンの、声だった。
そのレンの口から出る、"おチビちゃん"の言葉。それが自分のことを差していることは明らかで。
一度止めてしまった手をどうにも動かすことができず、翔はその場に立ち尽くしてしまう。いけないとはわかっていても、扉の向こう、交わされる会話に聞き耳を自然、立ててしまう。

「イッチーもまた、痛いとこ突くね」

イッチー、と聞き慣れた呼び名からして、会話の相手はどうやらトキヤのようだった。トキヤの声はよく聞き取れないが会話の内容からして、何事かをレンに尋ねているようだった。それが課題等についてではないことは明白だ。

「おチビちゃんのことはねえ、…まあ」

やはり話題は自分のことだと推測して、次に聞こえてきた言葉に今度こそ翔の体は凍りつく。

「後悔してないって言ったら、嘘になるよね」

…今、レンは、何と言ったか。

『おチビちゃんのことは』
『後悔してないと言ったら嘘になる』

それは、つまり。…つまり?
中途半端に持ち上げられたままの手が震えているのが自分でもわかる。体中から血の気が引くのを嫌でも感じた。ひゅう、と口が息を吸って声にならない声が漏れる。
ぐらり、と目の前が揺れたような気がして、次の瞬間翔は扉から視線を無理やりに剥がし、なるべく音を立てないように、―2人に気付かれないようにと数歩後ずさるようにその場を離れ、走り出していた。
そもそも何をしに此処へ来たのだったか、当初の目的等すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

「は、…っ」

廊下を走り抜け、一瞬寮へと向けかけた足が止まる。
寮の部屋には…那月がいる。きっと今の自分はひどい顔をしている自覚はあったので、こんな状態で戻れば、間違いなく那月に何があったのか問い詰められるだろうし、それに答えないでいられる自信は今、どこにもなかった。
足を逆に向け、人気のないところを探して走る。
どれだけ走ったか、学園の外れの木陰へ辿り着くと、適当な木を背中に、ずるずると座り込んでしまう。全身が心臓になってしまったかのようにどくりどくり、脈打っているのを感じる。力が抜けてしまった体はしばらく言うことを聞いてくれそうにはない。

「…ふ、ぅ、…っ」

ぼたり。一度零れたのを皮切りに、後から後から、とめどなく涙が溢れてくる。
頭の中に先ほど聞いたレンの声ばかりが響いて止まない。
後悔って、なんで、どうして。なぁ、レン。
帽子がずるりと落ちるのも構わずに、うずくまって膝を抱え、声を殺して、翔はひとり、泣き続けた。

「レ、ン…ッ」

嗚咽混じりに恋人の名前を呼んでも応える声はなく。
いつも優しく触れる、大きくあたたかい手がこんなときでさえ欲しくて、愛しくてたまらなかった。その手で触れて、抱き寄せて、撫でてほしくてたまらなかった。

「…、」

泣き続けてどれくらい経ったのか、ようやく涙が止まった、と思い顔をあげれば辺りは既に日が落ちて薄闇に包まれていた。プリントを取って、すぐに部屋へ戻るつもりだったから携帯も持ってきていなかった翔は、泣きすぎてぼんやり熱を持ったような頭で、さすがにそろそろ帰らなければ那月が騒ぎ出すと思い、立ち上がる。
ぶるり、体が寒さを感じて震える。
秋の初め、さすがに夕方にもなれば冷えるな、とどこか他人事のように考えながら翔は重い体を動かし、寮へ向かって歩き出した。







「ただいま…」

部屋のドアを開け、てっきり那月に遅かったですねえ、と言われると思っていたが、返ってきたのは静寂でそれにやや拍子抜けしたのを感じながら部屋へと足を踏み入れる。中は薄暗いを通り越して夜かのような暗さを秘めていて。

「…何だ、いないのか」

そう呟く。おおかた聖川か、音也のところにでも行ったのだろう、そう結論づけ翔は明かりを点けることもせず、自分のベッドへと倒れ込む。ベッドに置いたままの携帯で時間を確認し、夕食を摂っていないことを思い出したが、それよりも今は誰にも会いたくないし声も聞きたくない気持ちの方が強かった。食事に行けばきっといつものメンバーがいる。
ということはつまり、―レンもいる。
今一番、会うのが苦しい顔と、何を話せばいいかわからない(まさか立ち聞きしてしまったことを言うのは憚られる)、教室での言葉が甦ってきて、もう出し切ったと思っていた涙が再び、頬を伝うのを感じた。
泣き疲れた体にシーツの柔らかさが心地良くて、涙を拭うこともせずに翔の意識はゆっくり、沈んでいった。
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