始めは慣れなくて手間取った化粧も、回数を重ねればただの機械的作業にすぎない。下地を塗って、ファンデをはたいて、少し眉を整えて、それから、それから。
鏡の中、少しずつ表情を変えていく自分を眺めながら、毎度のことだけれど女というのはよくもこんな面倒くさいことができるものだと。そう思うのももはや数え切れないほど。ドレスの色にあわせてシャドウを選び、そっと色を重ねていく。濃すぎるのは自分でも気持ちが悪いから、薄すぎないよう、けれど程々に。よく瞼を一緒に挟んで痛い思いをしたビューラーだって、慣れてしまえばほんの数秒。睫毛をあげて、マスカラをつける。ぱちり、ぱちり。瞬きを繰り返して、よし、と小さく。―よし、今日も、ばっちり。
「…って嬉しいんだか複雑な気分だな」
ひとりきり、他に誰もいない自室でそうこぼす。横に置いてあるスタンドにかけられた、自分と同じ髪色をしたウィッグを手に取り、そっと被る。鏡を見ながら微調整して。どこからどう見ても、そこにいるのは女の子にしか見えなかった。否、今目の前にいる自分は翔であって、翔ではない。
「翔?」
コンコン、と部屋のドアをノックされる。聞き慣れた声にぱっと振り返り、さほど広くはない部屋を素早く移動し、ドアを開く。上質なスーツに身を包んだレンと、同じくスーツ姿のトキヤ。ボスであり仲間であり、大切なファミリーである彼らが、ドアを開けた翔を笑顔で見下ろしていた。相変わらず嫌味なくらい、スーツ姿が様になっている。
「準備、できた?」
「ん」
わずかに体をずらし、部屋へ2人を招き入れる。机の上に広げたままだったメイク道具を手早く片付ける。それから引き出しを開けて、そこから小さな缶ケースを取り出す。それを何も言わず、そのままレンへ投げると、おっと、と驚いてもいないくせにそんな声をあげて、レンが缶ケースを受け取る。
クローゼットを開けて考え込んでいるトキヤの背中に早くしろよ、と声をかけて。翔はぼすん、と大きな音を立ててベッドに座る。座ったついでに履いていた部屋履きを脱ぎ捨ててしまうと、それを見ていたトキヤが顔をしかめた。言いたいことは大体想像がつく。
「まったく、"唯"の正体がこんなだと知ったら驚く人が多いんじゃないかな」
「…そもそも存在自体が嘘っぱちみたいなもんなんだから驚くもクソもないと思うけどな」
ベッドの上にふわり、広がるドレスの裾を指で弄りながら、ほんの少しだけ自棄っぽく翔はそう呟く。神宮寺ファミリーの、女ボディーガードが実は男、翔であるという事実はここにいる2人しか知らないことだ。ほんの少しだけ、翔の思考を捉える薄暗い感情。それをふるり、頭を振って打ち消すと、一度だけ大きく深呼吸をする。ベッドの端に座ったまま、その傍に立ったレンを見上げる。その瞳に一瞬だけ揺れた心配そうな色に、胸がちくりと痛む。けれどそれを口に出すことはしない。翔も、レンも、そして、この微妙な空気を感じ取ったであろう、トキヤも。
「…レン」
「はいはい」
微妙な空気を無視して名前を呼ぶと、心得たとばかりにレンが深く、笑う。失礼するよ、と声をかけられるのに応えるように、翔は静かに目を閉じる。同時にぱたり、クローゼットが閉じる、音。そっと顎に触れられるのに身を任せる。優しい、触れかた。レンの、男にしては細身の、けれど長くて綺麗な指が、翔の唇の上を滑る。このぬるりとした感触だけは、いつになっても慣れることはないだろうと思う。
そろそろ終わるだろう、という頃合いを見計らって目を開くと、先ほどとは打って変わって優しい色を湛えたブルーの瞳と視線が絡み合う。はい、おしまい。口元に笑みを乗せたまま、小さな缶ケースの蓋を閉じてレンが言う。小さく上唇と下唇を触れ合わせて、グロスをそっとなじませた。
「翔、」
失礼します、と声がかかり、今度はドレスの下、タイツを履いた足が持ち上げられる。足元にかがんだトキヤの紺色の髪が揺れる。壊れものを扱うような手つきで、クローゼットから出してきた靴が右足、左足と、ぴたり。ドレスと色合いを揃えた、女性らしいけれど、動きやすさを損なわない、ワンストラップのパンプス。かちりとストラップの金具を止めて、トキヤが立ち上がる。
「ん、サンキュ」
足をそっと床に下ろして、感触を確かめるように数度、つま先と踵を軽く打ち鳴らす。よし、大丈夫そうだ。
いつの頃からだったかは忘れてしまったけれど、レンに拾われた翔がその身を隠すために女装をするようになって、その仕上げをレンとトキヤがするようになってからもう大分経つ。仕上げと言ってもレンが唇にグロスを塗り、トキヤがドレスに合わせて選んだ靴を履かせる、ただそれだけであったけれど。誰が言い出したのかも、やりだしたのかも覚えてはいないけれど、今はむしろ2人の手が入らなくてはなんとなく、外へ赴く際の心持ちさえ変わる気すらしている。(なんとなく、だけれど)
「今日も可愛いよ、翔」
「当たり前だろ」
ウィッグを一房、わざとらしく摘まんで顔に寄せる仕草を見せるレンに不敵に笑ってみせると、翔はよっとベッドから立ち上がる。仕方なくしている格好だとは言え、中途半端は翔自身が許せない。
「レン、翔。そろそろ時間ですよ」
「もう?」
「よし、行くか」
ドレスにそっと手を添えて、腿のあたり、かすかに触れる固い感触を確かめる。忘れ物はないな、よし。腕時計を眺めていたトキヤの声にレンと同時に頷いて、足を踏み出そうと、して。その手を両側から捉えられる。そしてわずかに触れて、離れる、唇。右手にレン、左手にトキヤ。それぞれ手の甲にキスを落とされる。それからレンの手が顔に触れ、頬にも、ひとつ。唇を離して、笑みを浮かべる2人を見つめて。仕上げと同じくいつの間にか決まってされるようになった動作に、なんだかくすぐったい気持ちはあれど、今さら抵抗は然程ない。絡みあった視線で、声を交わすことなくお互いに確かめ合い、誰からともなく頷いてみせる。部屋をゆっくり出て行くレンにトキヤが続いて、最後に翔。上質な絨毯をヒールで踏みしめながら床を歩いて、そっと自室のドアを閉じる。そして少し先、廊下で待つ2人のところへ、今度こそ翔は足を踏み出した。
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手の甲へのキス:敬愛
頬へのキス:親愛、厚意、満足感
※ついったで仲良くしてもらってる方のマフィアパロから設定お借りしました!