ひゅうっと冷たい北風が吹く。いったい春はいつくるのか。頼むから早く来てくれ。でないと朝はキツいんだ。
そうひとりごちながら、まだまだ寒い2月の風を体で感じゼロスはマフラーを口許まであげた。なるべく顔を外気にさらしたくない。そうすれば今度は首下に隙間ができたので、億劫そうに両手で上下に引っ張った。
マンションの手摺に手をついて、靴の踵に人差し指を差し込みきちんと履き直す。とんとん、とコンクリートを軽く爪先で叩けば靴の隙間が埋まり歩きやすい状態になった。
「………………」
眠い。だるい。
そして寒い。
くあ、と大きな欠伸をしたからといって眠気が抜けるわけでもなく、彼は瞼を半分閉じながら唸った。ちらりと視界にうつった空はどんよりと灰色に染まっている。寒い上に天気も悪いのか。ますますうんざりし、重い足取りでマンションの階段へとむかった。じゃらじゃらと家の鍵か携帯についたキーホルダーが鳴る。肩からずりおちたショルダーバックを、先程より大きな欠伸をしながらかけなおした。
が、しかし上の階から聞こえてきた派手な足音に思わず口を閉じる。
「………あ」
パタパタとスリッパで一生懸命廊下を走っているその音に、ゼロスはある人物を思いうかべ声を漏らした。その声に若干嬉しさが備わっているのは気のせいではない。
もしやもしかしてもしかすると………
「あ、ゼロス君おはよ!!」
階段から軽やかに降りてきたのは、上の階の若奥方のアンナだった。へらりと笑いかける姿こそ少女のように幼くこちらも顔がふにゃけてしまう。(ゼロスの贔屓目もあるが。)彼女は赤色のエプロンを装着したままゴミ袋を両手で持ち、前髪をピンであげていた。
「おはよ〜お母様!!今朝も可愛いね!」
「んもー毎日それ言わないでよ、恥ずかしいから」
「でひゃひゃひゃ!」
階段を下りきった彼女はゼロスの正面に立ち拗ねたように彼を睨むが、ゼロスには痛くも痒くもない。先程のだるそうな気分は何処へ行ったのか。この女性はいつも、自分をこんなにも舞い上がらせてしまうのだ。そりゃあもう漫画の描写のように、うきうきと。
「あ、」
突然アンナが素頓狂な声をあげたのでゼロスが笑うのをやめると、彼女はゴミ袋を一旦地面におきエプロンのポケットを人差し指だけで器用に開いた。しかし、開くだけ。はて何がしたいのかゼロスが首を傾げているとアンナは「この中に、手入れてみて?」とだけ言ってにっこり微笑んだ。
「……………」
「大丈夫よ、虫何か入ってないから」
「………何、人の心よんじゃってるのよお母様」
「顔に書いてあるもの。ほら早く。ゴミ袋持ってた手で、貴方に渡したくないものだから」
くすくす笑う彼女に、ゼロスも苦笑して右手をエプロンのポケットに突っ込んだ。恐る恐る指を動かし中を探る。
「……………?」
指先に何かつるりとした感触。もう一度それを人差し指と親指で挟むとソレが何かの袋の端であるとわかる。ゼロスが至近距離のアンナを見ると、彼女は笑みをうかべながら頷いた。要するに「出してみろ」ということだ。
「………」
挟んだ袋の端を引き揚げると、徐々に見えてきたその全体。瞬間ゼロスは目をまるくした。
「…………これ」
「ロイドがお世話になってるお礼。一応手作りなのよ?」
ゼロスの手の中にすっぽりとおさまるそれは、小さな中身の見える透明の小袋だった。口を閉じている青色のリボンには、可愛らしい白い造花がついている。そして袋の中には茶色で模様のあるチョコレートのクッキーが数枚入っていた。
ゼロスは今日の日付を今更思い出す。そうだ今日は、
「バレンタイン…」
「そう。バレンタイン。まあゼロス君は女の子にいっぱいもらってるから、いらないかもしれないけど………」
「っそ、そんなこと、ない!!!ないない!!ぜってーえない!!!まじで嬉しいっ!!!!」
あたふたと首を振るたびにゼロスの紅い髪がふわふわと揺れた。アンナは「そう?」と可愛らしく微笑むだけ。それだけなのにゼロスは、激しく高鳴る動悸を押さえる術をしらなかった。
大好きな人が。
一年間追いかけていた人が。
義理とはいえどチョコをくれたのだから。
「あ、ありがとう!!」
「いいえ〜。……何か恥ずかしいわ。結婚してから身内以外にチョコレートあげるなんてしてなかったから」
今までクラトスとロイドのぶんしか作ってなかったのよ、とアンナは悪戯っぽく笑う。おそらくアウリオン家は、バレンタインになるとチョコを贈るのではなく、贈られることに集中するのだろう。
「お父様は……ホワイトデーが大変なことになりそうだな…」
「それは貴方もでしょ?くれた子には返さなきゃ駄目よ〜あ、それと」
大きな瞳にじいっと見つめられ、ゼロスが一瞬身を引くとアンナはさらに近寄ってくる。何だ。何事だ。じりじりと近寄ってきた彼女に困ったように目線を揺らしていれば、彼女はゼロスの胸を軽く小突き、笑いながら囁いた。
「…お返しは、5倍って知ってる?」
「!」
「ふふ、冗談よ。でも楽しみにしてるからね」
くすくす笑いながら、ゼロスを見上げる彼女に苦笑まじりの溜息をつき「頑張るよ」と答えた。予算の面でも気持ちの面でも。
「あ、早くゴミ出さなきゃ!それじゃ、大学いってらっしゃい!」
「はいはあい、行ってきま〜す」
マンションの手すりに乗り出し、収集車が来たのを確認したアンナは大急ぎで階段を下って行った。
思わずゼロスの手が伸びる。伸ばした指先が翻る彼女のエプロンにかすむが、結局何も掴めず空しく宙に舞った。当たり前だが彼女は振り向かず、鷹色の髪を揺らしながら駆けて行く。それを何処かで寂しいと思っている自分がいる。
「………………」
割り切っているはずだ。最初から。彼女は触れてはいけない存在であると。だけれど、そんな程度じゃ押さえ切れないほどこの想いは強く、少し気を抜いたら溢れてしまいそうで。少しだけ息がかかっただけなのに、指先が彼女に触れただけなのに、体が熱くなって目眩がするのだ。
「まいったな………」
苦笑しながらゼロスはその場にへたりこみ、くしゃりと頭を掻く。唸る彼は周りから見ると相当滑稽だが、幸いなことに他の住人は廊下にいなかった。耳まで真っ赤に染めてしまった彼を見ればきっと皆、絶句してしまうだろう。
「はあー………」
吐き出された溜息は決して落ち込んでいる意味ではない。体の熱をさましているだけだ。そうでもしないと恥ずかしくて死にそうだから。
ガシガシと乱暴に掻かれた彼の紅い髪は、相変わらず風にゆられてふわふわと揺れている。北風は変わらず吹いているのに、彼はもう寒いとは一切感じなかった。もちろん単純に外気に慣れたのも原因だが―――
「ああもう、大好きだ………っ…」
言えないくせに。
それでもいつかは届けばいい何て思っている臆病者。答えてくれなくていい。だけど一度だけでいいから振り向いてくれないか―――
そんな女々しい自分にこっそり笑って曇り空を見上げれば、また強めの風が吹く。
いろんな意味で春はまだまだ遠そうだ。
苦い恋の味
クッキーは甘くておいしかったけどね