とある平日の正午。
部屋でのんびりお昼番組(サングラスの司会者のアレ)を見ていたアンナはコーヒーを机に置き、ゆっくりとソファーに腰掛けた。遠くで工事の音がする以外、何の騒音もない。家事も一段落して実に静かで有意義なお昼だった。


しかしそんな至福の一時も、次の瞬間無惨に終わりを告げる。


「きゃあああぁああああ!!!!!」



* * *



「アンナお母様大丈夫ー?」


アンナの悲鳴に気付いたゼロスは、慌てて様子を見にきた。大学生の彼は平日でも自宅でのんびりしている日がある。今日は授業も休みでバイトも夜からだったので、たまたま部屋にいたのだ。


ゼロスがインターホンを何度か押し、アンナを呼び続ければ中から涙目になったが彼女が飛び出てきた。そのあまりにも幼い表情にゼロスは少しだけどきりとする。もともと童顔であるから泣いたりなんかしたら、さらに若く見えた。彼女はゼロスを見た途端、ふるふると震えてゼロスの腕に抱き付く。

「ぜ………ゼロス君……よかったあ…きてくれて……」
「ど……どったの、お母様」


こんな人妻と密着している様子をクラトスに見られたら絶対、半殺しにされてたな……と内心ひやひやしながらゼロスはアンナに問う。

「つ…ついに出てしまったのよ……」
「で、たって何が」
「Gちゃんよ!!」
「…はい?」
「わからないの?Gから始まる、黒くて、カサカサ動くやつよ!」


一生懸命説明するアンナの「Gちゃん」とやらを、頭に浮かべる。思い浮かぶのはたったひとつだけだった。


「もしかしてゴキ…「言わないで!あああ、名前だけでも鳥肌がたつ!」


体を擦るように、 腕を組んだアンナは横目でリビングをちらちらと盗みみる。おそらくまだ退治できてないのだろう。ゼロスはゆっくりと溜息をつき、その赤い前髪をかきあげた。


「…どうしましょっかねえ……」
「ねえお願い、退治してくれない?お菓子あげるから〜」
「ゴキ…じゃなくてGちゃんも退治してあげたいし、お母様のお菓子も食べたいけど。俺サマ、虫駄目なんだよなあ………」
「ええぇええ!?」


再び絶望の表情を浮かべたアンナを見て、ゼロスはなんとも申し訳ない気分になる。嘘はついてない。虫は大嫌いだ。ただ、その困り果てた表情に少しそそられたのは内緒だ。


「泣かないで、俺の可愛いお母様あ〜〜!!今すぐ力強い助っ人呼んでやるから!ちょっと待っててな!」
「す、すぐ帰ってきてね?」
「了解!」

にかりと笑ったゼロスは一旦アウリオン宅の部屋を出て、階段を下る。そして自室のリビングの机に置いてあった携帯を掴み、アドレス帳のア行を検索して目当ての人物の電話番号を呼びだした。すぐに決定ボタンを押して画面を耳にあてる。

目的の人物は3コール目に応答した。


「…仕事中に電話をかけるなと、いつも言っているだろう」

開口一番それか。

聞き慣れた低い声がゼロスの耳へと流れてきたとたん、思わず吹き出す。電話越しに聞いたその声は不機嫌そうに(というか拗ねているように)聞こえた。


「そんな怒らないでよお父様」
「用がないなら切るぞ。さっきから同僚がうるさいのだ」
「つーか、それよりもだな!お父様の愛する奥様が大ピンチなんだって!」
「…………何?」


ゼロスがアンナの名前を出したとたん、クラトスの声が変わった。相変わらず呆れるくらい愛妻家だと思う。


「Gちゃん…じゃなかった、ゴキブリがアウリオン宅に出たんだって!!」
「ゴキブリ?」
「そうなんだよ〜助けてやりてーけど、虫って俺の宿敵なんだわ。助けてお父様〜〜!!お母様、完全に泣いちゃってるからあ〜!」
「わかった。すぐに行く」


決断速ぇ………



瞬間、切れた電話を見つめながらゼロスは呆れたように笑った。画面には「通話時間 1分12秒」と表示され、少し待てば待受画面へ自動で戻る。画面の向こう側で写真のロイドとゼロスが、こちらに向かってピースしていた。たしか、二人で東京に遊びに行った時のやつだ。ゼロスはそれをパチン、と折り畳みポケットに突っ込んで再びアウリオン宅へと戻るため、リビングを出た。



* * *


「おいクラトス!早退とは一体どういうことだ!」

オフィスにユアンの怒号が響く。クラトスはそんな彼を一瞥し、荷物をまとめて席をたった。うんざりとした表情でユアンへと言葉を放り投げる。

「早退ではない。一時帰宅だ」
「はあ?何だそれは!企画も近いのだぞ!!仕事をしろ仕事を!」
「まあまあユアン、いいじゃないの。クラトスはいつも頑張って働いてるんだし」
「ま、マーテル…だからお前はいつも甘いのだ。クラトスには厳しくしないといかん!たるむぞ!」

ユアンは隣りの席にいる美女の意見に一瞬ひるむが、やはりクラトスに食い下がっているようだ。若干彼の頬が赤くなっているのは怒っているからか、それとも。

そんなユアンの気は知らず、マーテルはクラトスにのんびりと問い掛けた。

「ちなみに何時くらいに帰ってこれそう?」
「一時間もあれば会社に戻れる。少し野暮用で帰宅するだけだからな」
「あらそうなの。でも慌てて帰ってこなくていいのよ。不注意で交通事故に遭ったら大変だもの」
「気遣いありがとう」


クラトスの言葉ににっこり笑ったマーテルは再びデスクへ向かい仕事を再開する。ユアンは未だに納得がいかない様子でクラトスをじっと睨み付けていた。

「………そんな目で見るな」
「どうせ原因はアンナかロイドだろう」
「…………」

クラトスはバツの悪そうな顔をして目線をずらす。口が裂けても真実は言えない。しかしたかがゴキブリ、されどゴキブリだ。普段は口にしないがやはり家庭のこととなると気になって仕様がない。アンナやロイドは鈍感ゆえに全く気付いてないが、クラトスは相当な自宅大好き人間だった…



* * *

一方アウリオン宅では大の大人が壮絶な戦いをくりひろげていた。


「きゃー!!ゼロス君行かないで!せめて家の中にはいてえぇええ」
「いやいやいやいや無理!いくらお母様の頼みでも虫だけは無理!!」
「つ、捕まえろとはいはないから!そばにいてくれるだけでいいのよ!クラトスが帰るまでGちゃんと二人きりはいやあぁあああ!」


もはや二人にプライドという文字はない。家から出ようとするゼロスをアンナはこれでもか、と言わんばかりに服を引っ張って阻止する。


「ちょ、お母様、 そんな引っ張るなって!うおわっ」

ついに足払いまでかけはじめたアンナであった。

ゼロスはそれに仰天し対処をしようとするがなんせ相手はアンナだ。あの体育系男子のロイドの母だ。ドジなくせに運動神経はいい、というのは何かと考えものだった。


「うわあ、お母様痴漢〜!」
「う、うるさいわね!こうするしかなかったのよ!」

しかしそれで負けるゼロスでもない。足払いでバランスをくずすも、彼女の両腕を掴んでそのまま壁へと押し付けた。ごち、とアンナの頭が壁にあたる。


「……………」

疲れた。

今互いの気持ちはある意味ひとつであり、ぜーぜーと息の音しか聞こえない。ゼロスは大きく溜息をついてそのあと吹き出すように笑った。

「お母様って本当おもろいな〜!!まじで可愛い!」
「そうやって他の女の子に言ってるんでしょ?罪な男ね〜」
「でひゃひゃひゃ!」


内面的な意味でも可愛いと思ったのはアンタだけだけど、な。


もちろん後半はゼロスの心である。彼は瞳を細めて目の前の女性を見つめた。



理想の母親であるアンナに、母親に飢えているゼロスが惹かるのは必然的だった。彼女が結婚していなかったらきっと口説いてだろう。もちろんそこらの女全員と手を切って真剣に。

…いや。

普通の男と結婚していたとしたら、たぶん自分は愛人にでもなろうとしていた。

ただ彼女の夫が『あのひと』だから自分は――――


「あ」

アンナが素頓狂な声をあげる。ガチャリと鍵をさした音がしたからだ。おそらく彼が職場から帰宅してきたのだろう。ゼロスはそっとアンナから腕を離した。


「ただいま」


低い、電話と同じ声でクラトスは言ってリビングに入ってきた。そのままソファーへと上着を置いてネクタイをはずしながら振り返る。


「それで?ことの元凶はどこにいる」
「て、テレビの下よ!もう本当気持ちわるかったんだから!!」


彼がはずしたネクタイを受け取りながら、アンナはクラトスの腕に両腕をからませた。別にベタベタしているとかイチャイチャしている印象を受けないのがこの夫婦の変なところだ。お互いに若く見えるからだろうが、どれだけ密着していても息苦しさを感じない。それどころか自然に見える。


「………相変わらず無駄に色っぺえなアンタら……」
「何の話だ。それよりアンナ、ゴキブリなんていないぞ」
「ええ!?そんなわけないわよ!」


ぎゃあぎゃあとテレビの前で言い争っている夫婦の背中をゼロスは見つめた。そして視線をクラトスの方へと向ける。


(敵わねえよなあ…)


どれだけ自分が頑張っても、この男にだけは敵わない。何をやっても敵わない。




あまりにもその横顔を見すぎたためクラトスと目があってしまった。そして彼は背中ごしに怪訝そうな顔をゼロスに向ける。


「………何だ」
「いやあ……お父様、やっぱ愛妻家だなって」
「な、」


クラトスが一瞬目を見張り、照れたように目線をずらした。こんな表情は、アンナかロイド関連の話でしか見せない。


「別に………そんなわけではないだろう」
「そうよ〜ゼロス君、この人はとんだ親馬鹿なんだから!私なんかより息子ラブなのよ!!」


…こっちは鈍感だし。


「お父様。ちなみにあんたの足元にいるそれさ、もしかして…」
「ぎゃあああ!クラトス!!下、下!」
「…………っ!?」


まさかのタイミングで現われたのはアンナとゼロスの敵。Gから始まる、黒くて、カサカサするやつだ。


真剣に新聞紙を振り回しているクラトスを見て、ゼロスは急にロイドが羨ましくなった。こんな純粋で可愛い父親、世界のどこを探しても彼しかいないだろうから。






宿敵


尊敬しているからこそ
敵わない。





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