本当はね、私最初から気付いてたの。
気付いてて黙ってた。
だからこそ私は貴方が
殺したいほど憎い。
* * *
「…なーんちゃって」
誰に言うわけでもなく私は一人呟く。部屋には誰もいない。相変わらず強い風はカタカタと窓を揺らし、窓の外の草木も流れるようになびいていた。強い風は嫌いだ。母が亡くなった日を思い出すから。
「…あー………」
とりあえず、暇。
ちなみにクラトスは今日はいない。いつ帰ってくるのかも告げず、ユアンと共に出掛けていった。彼らが突然どこかへ行くことは珍しくない。だから今日も特に何も気にせずに見送った。
何もしない時間を過ごすのは、辛い。
ふ、と思い出した。そういえばもうすぐ夕飯の時間だ。食事を作らねばならない。少々腰が重かったけれど、私はソファーから立ち上がり台所へ向かった。
無機質なシンクと、模様のないまな板。簡素な台所をしばらく見つめたあと、私の視界にソレが入った。
――手によく馴染む素材と、きらりと光るその先端。毎日のように手にするソレが何だか今日は異様に目立って見えた。それをじっとみつめ、私はぐるぐるした脳内を感じながら一人ごちる。
「死にたくないなー……」
楽になりたいのなら死ねばいい。そんなの当たり前のこと。以前の私なら平気で自分の腹にこれを刺せたはずだ。あるいは彼を刺して殺すこともできた。もともと私は死ぬのだからどうってことない。そう、どうせ死ぬのだ、どうせ。
でも、今こうやって刃先を自分に向けると背筋が凍る。鳥肌がたつ。冷や汗がでる。体が震える。人間として当たり前の反応をするようになった。
すべては、クラトスのせい。
おかげで私は、死に対して、この上なく、恐怖している。
「アンナ………?」
いきなり彼の声がして、飛ばしかけていた意識を取り戻した。ぱちぱちと瞬きをして、ゆっくり振り返る。そこには予想通り、相変わらずムカつくほどの美人顔が立っていた。
予想通りじゃなかったのは、彼が酷く驚き今まで見たことがないほど焦っていたことだろうか。
「おかえりなさい。…ちょっと考え事してたわ。帰宅してたのね。気付かなかった」
「そんなことはどうでもいい。それより馬鹿な真似はよせ…」
「はい?何が」
「包丁」
ああ、と私は思わず声に出す。その刃はたしかに自分の首へと向いていた。別に自殺しようとか変な気は起こしてない。いや、全くそうではないとは言い切れないが、少なくともここで死のうとは思わない。彼の家に、私を、残したくない。それはもう決めたことだ。
「ねえクラトス」
「何だ」
「私、自殺できなくなっちゃった」
まるで夕飯のメニューを言うようにさらりと告げた言葉は確かに彼に届いたようで。無表情に見えるその顔から微かに動揺の色が見えた。困ってる、困ってる。この顔を見るとさらに困らせたくなるってのを、この人は理解してないのかしら?
「…何故」
「怖くなったのよ。急に。」
少し笑ってみせれば、彼が息を飲んだのがわかった。
死ぬことは怖くない。
他人に憎まれる方がよっぽど怖い。
他人に突き放されるのが怖い。 裏切られるのが怖い。現実に突き放されるのが怖い。
一人になるのが怖い。
「自分から、一人になるのが怖くなったの」
震えてくる体を抱き締めて私はその場にへたりこんだ。足に力が入らない。自分が惨めすぎて逆に笑える。必死に笑いを堪えていたけど、やはり我慢できなくて私は声を出して笑った。そんな私をクラトスはただ、眺めていた。茫然と眺めていた。
「あははは…このままじゃ格好よく死ねないわね。怖がりながら死ぬなんて、格好悪すぎだって思わない?」
「……………」
「だからね、貴方が殺して」
決定打をその一言で打てば彼の瞳が微かに揺れる。いつからか、私の心をいっぱいにしたその望み。ディザイアンに殺されてこのエクスフィアをなんとか王国のために使われるくらいなら。あるいは一人怯えながら死ぬくらいなら。彼のその綺麗な指で首を締めてほしかった。どんな「格好いい死に方」より魅力的で甘美に聞こえた。
だって最期に一人じゃないでしょう?
貴方が見てるもの。
「……何故、私が」
しばらくの沈黙の後、クラトスが呟いた言葉は当たり前の疑問だった。何故、私が。確かにそうだろう。彼はあくまで赤の他人。だけれど私は知っている。彼やユアンの会話ですべての謎がとけた。彼が今どういう立場にいて何をしているのか。
『どうも私は変わり者が好きらしい』
『は!?…人間……だと…?』
『ユアンは人間には凶暴だ。ハーフエルフだからな』
『お前をここで殺すことだってできるんだぞ』
『欠点がないものなど、人間ではない。もはや欠点がない『完璧』を求めれば……それはいつか崩壊する』
『お前は女の好みが変わったのか』
『何故泣いているのかは言わなくていい。ただお前が泣いているのは嫌だ』
『居候!?あいつが、他人を家に上げたのか!?』
『やはりお前は変わっているな』
『お前は、そのままでいい』
「じゃあ逆に聞くけど。どうして貴方は私を殺さないの?」
「すまない、話が見えないのだが」
「敵のくせに」
感情のない声で冷たく言い放てば、彼は目を見開いた。まるで核心に触れられてしまったように。もしかして気付かれてないとでも思っていたのかしら。
「私の欠点は、いつでも他人を「父と重ねて」疑って、信頼し合うのを拒否することよ。誰よりも疑り深い私が、貴方の正体くらい気付かないはずないでしょ」
もともとおかしいと思っていた。エクスフィアの話題になるとクラトスはやけに傷付いた顔をする。そしてハーフエルフの友人がいる。彼らの会話から「ユグドラシル」という単語が飛び交う。たしかその名前は―――
一般人には公表されていない。私だってたまたまディザイアン同士の会話で盗み聞きしたのだ。というか、聞こえたのだ。
クラトスは何かを逡巡し、ゆっくりと歩を進めると彼の足音が部屋に響いた。丁度私の目の前にきたところでゆっくりと膝をつけ、私から包丁を優しく取り上げる。
「…どうして、死ぬことが怖いのだ」
私の顔を覗きこんだ瞳は、その至近距離にある瞳は酷く澄んでいて、逆に私が驚くほどだった。
「……貴方の……せいよ……」
視線を下へとずらし、両手で服の裾をつかむ。瞼をそっと震わせれば、ぽたりと服に水滴がおちて小さな跡をつくった。
「貴方が、この前あんなこと言うから」
『お前が泣いているのは嫌だ』
『…どうして?』
『それは……』
私はお前が、
「………好きだから、何て言うから……っ!」
風で声は聞こえなかったけれど、唇は確かにそう動いていた。あの時は思わず聞こえなかったふりをしたけれど。
「私は貴方が憎い」
「そうか」
「殺したいほど、憎い」
「嫌いにならせてくれなかったから」
ぽつり、と涙声で呟けば彼の親指が私の目尻へと触れる。それだけで心はこんなにも揺れる。いっそ心から嫌いになれたらよかったのに。この人が優しすぎたから嫌いになれない。だから憎い。どうしてこんなに惨めな思いをさせるの?
こんな思い、知らない。知りたくなかった。
「…泣くな」
「無理よ。だって怖いんだもの。貴方のせいよ。全部………ぜんぶっ……」
死にたくない
死にたくない
けど。
「これ以上、惨めな思いをしながら、生きたくないのよ……!!」
最後にそう叫べば、いきなり腕をつかまれて強引に抱き締められた。彼が手にとっていた包丁が床に落ちてカタン、と小さく音をたてる。耳元に彼の息を感じて少し体を震わせれば、ゆっくりとその言葉が囁かれた。
「好きだ」
ああ、何てずるい人。
まるで謝罪をするように彼が言った言葉は脳内で優しく反響した。まわされた腕が熱すぎてくらりと目眩がする。
「…好きなんだ、アンナ」
腕に力がこめられても、
私は抱き締め返すことができなかった。
20110119