***




思えば私は彼らのように過去と向き合ってなかったのかもしれない。昔のことを思うなんて、今までほとんどなかった。
幼いころ受けた父の行き過ぎた愛情。それでも私は優しかった父を覚えている。もう今では手の届かないところにある、あの腕もあの声も、いろんな言葉や表情も。
全部、鮮明に覚えていた。
嫌いなのか、と問われたらそれは否定する。むしろ愛していた。どうしようもないくらいに。

だけど私は絶望してしまった。愛されたことに、ではない。
父が私を母の代わりにしたことだ。
私は娘として愛されたかったのに、なのにあの人の瞳は、「あの夜」私を見ていなかった。
今まで私にくれていた親としての愛情がすべて、なかったことになった。

それがどういうことだったのか、私は今でも忘れない。



***


―――――アンナ


まどろむ意識の中、聞こえてきた甘い声に私は瞼を開けた。
額に降ってきた唇の感触に私はぼんやりと自分を見下ろす影を見つめる。
すると優しい指が私の髪を梳くように絡んできた。その仕草があまりにも気持ちよくて、私の意識はまたどこかへ飛んでいきそうになる。
酷く、懐かしかった。
子供のころの微かな記憶の中に、その感覚はまだ残っていた。
その人の顔はよく見えない。
だがゆるく微笑んでいた。心底愛しそうに私を見ていた。
優しく唇が私に触れていく。
額の次に感触を感じたのは目蓋だった。目蓋の次は頬へ。口付けられた場所の皮膚に甘く痺れるような刺激がはしった。それに反応して私はわずかに体を震わせる。あまりにも甘美なそれに、私は眠りから覚める気を失った。もう、このままこの人の腕の中で一生眠っていてもいい、とも思った。
少しリップ音を鳴らすくらいの口付けは、私を惚けた気持ちにさせる。思考が上手く働かない。

そうだ、この愛しい存在は――――



「おとうさん……………」


瞳から涙がこぼれた。

瞬間、頭を撫でる手が止まったので私はまたぼんやりと、その存在を見た。だんだん意識が覚醒してきて、見えたその表情。
ぼうっとしていた私は、その影が誰だかわかって思わず声をあげた。

クラトスがびっくりした顔で、私を見ていた。



「あっ…………………」
「………………」
「ご、ごめんなさい。私、何か夢見てたみたい…………あの……」
「いや、私もすまない。その………………寝顔があまりにも……………」


可愛かったのだ、とすごい小さな声で言われて私は一瞬きょとんとした。


可愛かった?
可愛かったから………


「……………え」



まさか今のは夢ではなくて。
さっきの優しい微笑みも、髪を梳くように撫でてくれた長い指も、あの私の名前を呼んだ甘い声も。まるで可愛がるようなキスの嵐も。全部クラトスだったのか。
途端に私は恥ずかしすぎて逃げたくなった。
だが今の状況ではそのように出来るはずもなく。
ソファに横になっている私の上に覆い被るように、クラトスは私を見下ろしている。組み敷かれているわけではない。クラトスの膝は床につき、上半身だけを私の体に重ねているのだ。
だからといって平気なワケがない。思った以上の至近距離に私は顔から火が出るくらい真っ赤になり、クラトスは戸惑いながら口元を手の甲で押さえて目を逸らした。僅かに頬が染まっている。おそらく、本気で照れているのだろう。逸らした瞳の目蓋が、震えていた。
私もしばらくきょろきょろとしていたが、クラトスをじっと見上げて口を開く。


「……あ、あの………」
「…………」
「…………えっと…」
「…………アンナ…」
「は、はい……」
「すまない………最初は、起こそうと思ったのだ。ソファで寝ると風邪をひくから……」
「い、いいのよ!…うたた寝した私が悪いんだし………それに…」
「………?」
「……なんでもない………」
「そうか」
「…………そうです…」
「……………」
「……………」


どうしようこの空気。


ぴんとはった雰囲気と静寂の中、部屋に聞こえるのは時計の秒針の音。それと、彼の静かな息遣い。ふ、と彼の視線がこちらに向いた。その瞳は何か言いたそうにしていたから、私は首を傾げて視線を返した。瞬きを何回か繰り返していると、彼の指がおずおずと目尻に触れる。思わず小さく肩が揺れた。真っ直ぐこちらを見つめてくる彼の表情には僅かな躊躇と困惑が見えた。それでも、逸らさずに私と向き合ってくれた。



「父上の、夢を見たのか」
「…………あ、うん。夢っていうか、貴方がおとうさんに見えた………」
「似ているのか?」
「……んー…顔は全然だけど……雰囲気は、それとなく」
「そうか」


無意識のうちに流れていた涙について心配しているのだろう。彼は私の目尻から涙をすくい上げた後も、私の瞳を覗きこんでいた。やはり、彼は優しいのだ。表情は仏頂面に見えてもその瞳にはいつも、相手を愛しむ心があった。

――地上に堕ちた天使。
ユアンは自分をそう呼んだ。
おそらくそれはクラトスにも向けられた言葉だろう。
だけど私はクラトスが天使だとは思わなかった。
まあたしかに彼は綺麗だ。たまに恐ろしいくらいに美しい表情も見せたりする。
だがあまり神聖なイメージは最初からなかった。
どちらかといえば非常に人間臭い人間だった気がする。
優しさとお人好しだらけな、そんな人間だ。


「父とはあまり、いい思い出がなくって。………ほら、少し前に私の夢見が悪かったことがあったでしょ」
「そんなこともあったな」
「あの時も、父の夢を見ていたの。はぐらかしたあの話…覚えてる?」
「ああ」
「あの時泣いた理由…ちゃんと伝えておくわね」


貴方も自分のことを教えてくれたし、と付け足せばクラトスは「ああ」と呟いた。一体彼は今何に対して肯定したのかはわからない。だが、きっとそのあと黙ったから話を聞く気はあるのだろう。
少なくとも私は初めて、誰かに私が隠していた核心、すなわち汚点を見せようと思えた。
この人に私の内側に触れて欲しいと思えたのだ。
だがそれは説明するにはあまりにも複雑な「事情」だった。彼はもしかしたら私を軽蔑するかもしれない。そんな恐怖を、その時一番強く感じていたように思う。


あの暗い夜空の向こうへ行ってしまった両親の存在を、そっと指先でなぞりながら、私は静かに口を開いた。



「私は、穢れてるの」




***



私にとって父とは。

その優しい手で私の頭を撫で、その優しい声で私を呼び、泣いている私を抱きしめてくれた人。


―――『アンナ、大丈夫だよ、父さんがついてるからな』


この言葉に私は何度救われたのだろう。
きっとそれは数えきれない思い出なのだ。忘れてはいけない命だったのだ。
なのに私はずっとそれから目を逸らしていた。
本当は覚えてるくせに。忘れたフリをしてヘラヘラ笑って。



とある夜は一緒に夜空を見上げにいった。
漆黒の空に散らばる星は、私にとってどんな思いを与えたのだろう。
もう今では微かにしか記憶に残っていない、その情景。
とても綺麗だった。
涙が出るくらいに、感動した。
まるで私のすべてを包み込むように輝いているのは、神様がくれた恩恵。
自分を許せなくなっても、夜空は自分を許してくれる。
星は無条件に生命を慰めてくれる。
だから、美しいのだと思う。


それを父は知っていたから、あの時あんなことを言ったのかもしれない。
小さな星たちを見てはしゃぐ小さな私に、父は肩車しながら笑ってくれた。


――――父さんも母さんも、いつかはあの星になるんだ。
そしたらアンナを照らしてあげるからな。
泣いているアンナが泣き止むように、ずっと輝いてやる。

お前の一番星になってやる。


***





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