一度だけ、俺はアンナにぶたれたことがある。




『ばかっ!!!!!!』



いきなり平手打ちされた後、
呆気にとられていると罵声を浴びせられ、突然のことだったので怒りより先に恐怖を覚えた。生粋のおぼっちゃま育ちの俺には他人にぶたれるという経験も、怒鳴られることもなかったからだ。




何でぶたれたんだっけ………
ああ、そうだ。




たしか…あれは離れて暮らしてた父親が死んだときだったな。



―――――――






『………ゼロ…』


暗闇の中から誰かがこちらに手を伸ばしてる。

向こうの方にかすかに白い光が見えた。



絡んできた指はあまりにも温かくて、俺ははっとして息をのむ。
俺はこの腕を知っていた。いや、知っていたばかりではない。俺はこの腕がだいすきだった。子供のように純粋に、素直にだいすきだった。いつだって暗闇の中で彷徨う俺を、何度も光まで導いてくれていたその腕を。


そっと握り返すと、声がまた大きくなる。

『ゼロっ……』


微かにしか聞こえなかった声が段々明らかになってきて、一体誰に呼ばれているのかも把握できた。
そうだ。いつもこの人は誰よりも俺の傍にいて、俺の弱さを知っていた人―――






「……あ!…ぜ、ゼロス…?」




白く塗られた世界に俺はとりあえず瞬きをした。
明順応によりぼやけながらも景色が彩られていくが、それまでにはだいぶ時間を要した。
蛍光灯的な何かが視界の端をちらつき、それが眩しくて頭の中で星が舞う。たぶんそのときあからさまに眩しそうな顔をしたんだろう。俺の右手を握っていた人物が、ぶっと吹き出した。



「ふはっ……お前…今、めちゃくちゃ面白い顔してたぞ………」


「…………しょうがねえだろ、眩しいんだから」



肩を揺らしながら俺を覗き込むのは――いつもと変わらないように見えて、笑い方がいつもより力ないロイドだった。




見回すとそこはなんて変哲もない病室で。白く塗られた壁と綺麗に整頓された戸棚、飾られているは桃色の花。贅沢にもここは個人部屋のようで周りに俺とロイド以外の人の気配はない。窓のカーテンは開けてあって、その向こうに暗い夜空が広がっていることから、俺がどれだけ爆睡していたかわかった。


「…………泣いてた?」



「そんなわけねえだろ。母さんがゼロスくんが死んじゃったーなんて泣きながら連絡してくるもんだから、俺授業までサボってかけつけたんだぜ?なのに全然死んでねーじゃん。むしろ打ち所よかったらしいじゃん。何か言い方おかしいけど」

「うそつけ。目、腫れてんぞ…?」

俺が優しく目を細めてロイドの目尻を撫でれば、彼はだんだん顔を赤くしてそっぽを向いた。なるほど、学ランを着ていたのはそういうことだったのか。途端にいつも生意気を言っていた彼がなんとなく愛しく思えて、鷲色の癖っ毛をわしわしと撫でた。


「……………ありがとう」


心から彼に例を言ったのは、何年ぶりたろう。
あまりにも近すぎて、なかなか素直になれなかった彼との関係は
言葉無しでは伝わることもたくさんあったから、いつも憎まれ口を叩いていた気がする。



「…………本当、心配したんだからな。工事現場の人が土下座して謝りにきたけど、本人が気絶してるから明日来いって言っといた」


「あー………まあ、別になんでもいいけどな、俺は。やっぱ壊れてたんだろ、あのクレーン車」

「うん。でもなんかすげえ古かったらしくて。作業中の騒音がやけにうるさいのは異常音のせいだったらしいぜ」

「やっぱりな」


あのとき咄嗟に行動しといてよかったと思った。それほど、高い位置になかったとはいえ、俺が庇ってなかったらきっと最悪の事故が起きていただろう。とかいいつつ、あの時はあまり何も考えずに行動していた。自分はどうなったっていいから、とりあえずアンナだけは目の前で失いたくなかった。
自分には似あわないぐらい純愛だな――と、苦笑するほどだ。


「それで?お母様は怪我してねえんだよな?」

「怪我はしてないけど、もー最悪だよ。命に別状はないって知った後もずっと泣きっぱなしでさ。あんまりうるさいから、ちょっと休憩してこい!って10分前くらいに部屋から放り出してきた。たぶんその辺でぼーっとしてるんじゃ…………」


そのとき、ガラガラッと勢いよく病室のドアが開いた。





「……………あ…帰ってきた……って、」

「え」



入り口を見るとそこにはお母様ではなく、いつものようにスーツをきてお洒落なコートまで装着したクラトスがいた………が、その姿を見た俺はおろか息子でさえも、ぎょっとした。





「………………」


無言でこちらを見ながら、ぜーはー肩で息をする姿がまず、彼らしくない。長めの綺麗な髪を暑そうに掻き上げる仕草や、乱れた襟元から見える鎖骨が妙にエロく見えた。が、本人にそんなものを狙ったつもりはなく、単純に必死で走ってきたのだろう。
第三者にはただのクールなお兄さんにしか見えない彼の整った顔立ちが、彼をよく知る人物しかわからない程度の違いでわずかに、余裕がなさげな顔をしていた。



「お…………、おとうさ、ま?」


「…………………」


相変わらず彼は無言だった。


彼がこちらへ歩むたび、こつこつと白い床が靴音を跳ね返す。静寂に包まれた室内へと響くがすぐに周りの壁が吸収するので、その独特の雰囲気に俺は息を飲んだ。


まじまじと彼を正面から見ながら相変わらず今日もカッコいいな、とか、んでも女顔だから可愛いよな、なんてぼんやり考えていた俺でも、彼が普段と様子が違うことぐらいわかる。
その視線がゆっくり床まで降りていき、そして俺の体を不思議そうに眺めるだけ眺めて、最後に俺の目を見た。

彼が初めて口を開いた瞬間だった。



「……………生きてるか?」



「………一応ね………」



「………そう、……か」



そして彼はいつものように黙る。


何だ、見舞いの言葉もないのか、と半分呆れて俺はクラトスを眺めていた。だが、よく見るといつもと少しだけ様子が違う気がしなくもない。





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