「な、」


帰宅した彼を呆然と眺め、瞬きを忘れるほどに両目をひらいたままだった。腕からするりとコップが滑りおちる感覚がする。鈍い音を木製の床が発し、ごろごろとコップが転るのが視界の端に映った。

すんすんと泣きじゃくる息子を右手に抱え、リビングへ入ってきた長身の男は邪魔そうに前髪をかきあげ、「すまん」と呟く。じ、と私を見つめる鋭い瞳はいつもと同じ。猫のように、見方によっては可愛く見えるその真顔も見慣れたものだ。
その時もぱっと見無表情だっから、彼はたぶん本当に何も考えていなかったのだろう。今思えば。
なににせよその時の私は、考えてる余裕がなかった。そこまで彼の感情を瞬時に読み取ってすばやく動ける「良い妻」でもない。


息子は深い茶髪を揺らしながら相変わらずぐずっている。母親としての本能が警告音を鳴らしているが、残念ながら私は冷静な立ち振る舞いができる人間ではなかった。


「少し、無茶をした。許せ」



命令形かよ…なんて場違いなツッコミを心の中ですることぐらい自由だろう。


いつもと変わらない声色で当たり前のように振る舞う彼は


尋常じゃないほど頭から血を流していた。










「………そりゃあ、素手で戦ったらそうなるわね」


私は溜息を付きながらベッドの枕元へと腰掛けた。全く剣豪な彼だからこそ呆れる話だ。ロイドとおつかいの最中に、まさか通り魔にやられるとは………(ていうか素手って…)


「子供の前で、人間を切りつけるのは教育上よくないと思ったのだが」
「顔面血だらけな父親の図もいい勝負だと思うけどね」
「む………そうか…?」


ベッドに半身を起こしている彼は不思議そうに首を傾けてくる。


そんな彼をじとりと横目で見つめて、私はもう一度深く溜息をついた。まあ、気持ちもわからなくもない。あんな純粋な子供の前で、剣で敵を切り付けて血がぶしゃあーってなるのは3歳児には恐怖しか与えないだろう。
相手がモンスターならまだよかったのだが、通り魔だけにやっつけてしまえば殺人になる。それに抵抗を感じる気持ちは理解できた。


「貴方でもやっぱ怪我はするのね」
「目の上だったから血が多めに出ただけだ。傷の深さ自体はたいしたことはない。お前が包丁で指を切った時の方がよっぽど痛そうだがな」
「………嫌みを言う元気あるなら本当にたいしたことないのね」
「ふむ。嫌みを言ったつもりはないぞ」



うそつけ。


真顔で私を見つめる彼を、頭に巻いた包帯の上から軽く小突こうとして軽く避けられる。 この野郎。童顔のくせに。



「酷いな………昔は少し私が怪我をしただけでお前は泣いてくれたのに…」
「な、」
「無茶するなだの、死んじゃいやだの………」
「い、以外に覚えてるんだ………」


こくりと頷いたクラトスを私はまじまじとみつめた。
今はこんなに落ち着いて、優しげな雰囲気があるが戦いになると彼は豹変する。正直、その姿はロイドにはまだ見せたくない。彼はまだ、優しい父親の背中を見て健康に育っていけばいい。


私は昔、大量の血が鮮やかに舞う中、無駄な動きが一切ない彼が人間やハーフエルフを容赦なく切りつける姿を見ていた。彼は私のためならどんなものを殺すことをいとわなかった。そんな彼を初めて見たときはとてつもなく恐ろしく、そして


怖いくらいに美しかった。




『 お前を泣かせる奴は、すべて私が殺してやる 』


そう妖艶な瞳で微笑んだあのときの彼は、しかしながら狂っていたのだろう。だから私は泣きながら言った。私は貴方がいてくれたらそれで十分だ、と。



誰が悪いとか、

そういう問題ではもうないのだ。



「アンナ」
「ん?」
「…………ロイドがそこにいる」



彼がゆっくりと部屋の入口を指差した。私に見えたのは白いドアだけだけど、彼には気配で向こう側に誰がいるのかわかっているのだろう。小さくておどおどとした息子が、私にも見えた気がした。


「ロイドーお父さんが悪者にやっつけられてヘコんでるから慰めてあげて」
「おいアンナ…」
「事実でしょ」


らしくなく恥ずかしがる彼をにやにや見つめて、私はロイドを呼んだ。白いドアが遠慮がちにあいて隙間から茶髪の毛がちょいん、と揺れる。小さな天使の(私に似た※重要)可愛らしい瞳がこちらをじ、っと心配そうに見ていた。


「おとーさん……死んでないよね?」
「勝手に殺すな」
「大丈夫よ!おとーさんは私が生き返らせたから!」


クラトスの独り言を完全に無視して私がにこりと笑いかければ、ロイドは一瞬ぽかんと口を開けた。



「だから勝手に殺すなと言っているだろう」
「おとーさん……生き返ったの……?」
「え?」



「ふえ、ふぇ……えぅえぇえ…よかったああぁああああ………」


突然、大粒の涙が瞳からあふれて、くしゃくしゃの顔をしたままロイドが泣き付いてきた。








人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -