大人の恋愛事情〜墜落〜1/2
保管庫
真っ赤になって、走って逃げられて。
この間も、黒の着流しを追い掛けて走った気がする。
前方の人物は少し歩みを緩めて、何やらブツブツ呟きながら歩いていた。
「…参ったなぁ…なんだってあんな親父を意識してんだか………ん?意識?意識なんかしてない!してないぞー!」
「よぅ」
「わーっ!!」
大声で喚き出した背中をポンっと叩いた瞬間、体を大仰に跳ねさせて振り返った。
すっごく驚かせたみたいだけど、俺の方がよっぽど驚いたっつの。
「そんな驚くこたぁねぇだろ。どうしたんだよ」
「ど、どうしたって……あんたこそどうしたんだ…」
じりじりと距離を空けて聞き返してくる。
「お前が逃げたから追い掛けてきた」
「な、なんで…」
「んー気になったから?」
「……何をだよ」
「その真っ赤になった顔の理由」
サァッと顔が赤くなる様は、とてもキレイ。
俺の一言にここまで反応を返してくれるこいつは、なんて可愛いヤツなんだろう。
「ーっ!こっこれは別に…あ!あれだ、風邪引いてたっぽいから熱!熱が出たんだよ!」
思い付きにしてはバレバレ過ぎる言い訳を、必死に押し通そうとする。
俺はもちろん、揚げ足を取って楽しい楽しい会話を続ける。
「へー、熱ねぇ。悩みすぎて知恵熱でも出したんじゃねぇか?」
「は!?悩みって何のことでぇ!」
「…言っていいのか?」
「いやいやいやいや!いいっいらない!言わなくていいからよ!」
ニヤニヤと口端が緩むのを止められない。
そんな俺の心境を読んでか、第六感で自分の危機を察知したのか、のけ反ってまで逃げようとしている。
逃げる獲物を追うのは雄のサガだと思う。
タチが悪いことに、こいつは無意識のうちに俺相手に尻尾を振って逃げているようなもんだ。
意地悪な心はどんどん膨らみ、空けられた距離を埋めるべく大股で近付く。
途端に体をビクつかせ、警戒心を露にさせた。
そんな明らさまな態度ですら、今の俺には嗜虐心を煽るものにしかならない。
「ふぅん……認めたくないんだろ」
「違っ……っ何の真似だ」
引いた体を突嗟に腕を掴んで一瞬で距離を詰める。
見開かれた瞳は驚きに染まりながら、抵抗の意思は消したりしない。
その屈服しない瞳に見られているというだけで背筋が震える。
「あんたから誘ってきたんだぜぇ…?」
「っ誘ってなんかねぇ!離しやがれ!」
挑発するように囁けば、掴んでいる手を振り払われてしまった。
しかし、間発入れずに今度は両手を掴み上げ、バランスを崩したのをいいことに背中にあった木へと押し付けた。
―――『猫じゃらしとか?あれって飛び付きたくてウズウズすんだよな』―――
「おっと。駄目だなぁ…そんなことしても…煽ってるとしか思えねぇから」
「くそっ…離しやがれ…っ…」
尚も暴れる体を押さえ付け、やはり心戦組の鬼副長と呼ばれるだけあって力は強いな、と別のところで考えながら、それならばと素早く顔を近付けて囁いた。
「いいじゃねぇか…。素直になっちまえよ」
「っ」
思いの外、効果があったらしい。うつ向いた耳は、触れたら火傷してしまいそうなほど、真っ赤になっている。
至近距離で見つめるも、必死に俺の視線から逃れようと下を向いたまま動こうとしない。
脂汗が滲んでいるのが分かる。掴んでいる腕の拳が、強く握られて微かに震えている。
「なぁ…どうして俺のこと避けてんだ…?」
「べ、別に…避けてなんか」
動揺なのか、裏返った声で否定されたのを直ぐ様遮った。
「嘘つけ。避けてないっつーならどうして目を見ない?」
ユラユラとさまよう瞳を見据え、熱い吐息を落とす。
「そ、それは…」
「こっち見てくれよ」
「っ嫌だ」
目を絞って叫んだ声には怯えの色が含まれていて、俺はますます体が熱くなるのを感じた。
「…どうして?」
問掛けても目をつぶって堪えるように顔を背けたまま。
目の前で小さく震える男が、俺を煽って仕方がない。
これ以上近付いては、どうにかなってしまうんじゃないかとさえ思ってしまう。
しかし、そのどうにかなってしまう様を、見てみたい。
この男の全てを暴いてしまいたいんだ。
赤く熱を持った耳へ、止めとばかりに唇を押し付けた。
「なぁ…」
「あっやめ…!」
ビクン、と大きく体を揺らし、下半身を直撃させる声を上げた瞬間、握っていた手から力が抜けて倒れこんできた。
「…おい?」
「………」
突嗟に抱きかかえて肩を揺さぶる。
「おい!しっかりしろ!」
顔を仰のかせてみると、ただ静かに寝息を立てていた。
あまりの緊張か羞恥かは知らないが、耐えきれず気を失ってしまったようだ。
「……はは。…まさか気ぃ失うとはな」
横抱きにして、もし途中で目が覚めたらまた騒ぐだろう。それも厄介だと思い、背中に背負って運ぶことにした。
肩口に頭を預けさせ立ち上がると、スースーと静かな寝息が首元をくすぐった。
長く艶やかな髪が流れて肩の辺りに触れている。
ぴったりと先程よりも確かに体を密着させて、薄いシャツ一枚隔てただけの肩にこいつの頬が当たっている。
こんなにも心拍数が上がっているのに対して、こいつは一切気付かずに、安らかな眠りに落ちているなんて。
湧いてきた理不尽さを胸に隠し、背中に感じる温もりに溜め息を吐いた。
「………先が思いやられそうだ…」
―――『やべ、大事なところが膨らんできちまった。俺もまだまだ若いな…』―――
「……ん…あれ、俺…」
目が覚めると、見慣れた天井を見上げていたのだが、同じ見慣れたでも心戦組ハウスの天井ではないことに疑問を持った。
「起きました?」
「っ!?リキッド…」
俺の呟きに顔を覗かせてきたのはリキッドだった。
上半身を起こして辺りを見回す。
「大丈夫ですか?」
「俺は…どうしてここにいるんだ?」
思考を巡らせてみても未だはっきりとせずにいた。
額に手を当てて、うーん、と唸っていると、心配そうな声でリキッドが言った。
「森の中で倒れたらしいですよ。隊長が見付けてここまで担いできたんです」
「た、倒れて?……そうだ確か……っっ!」
「?どうしました?」
「いやっなんでもねぇ!」
森の中、とあの親父の名前が出てきた瞬間に記憶が蘇った。
さーっと血の気が下がって、かーっと頭に血が上っていく。
そうだ。
何故だか俺は死にそうなほど心臓が痛くなって、耳にあいつの唇が触れたのを最後に、何かが破裂して気絶してしまったのだ。
甘く濡れた声は、俺の心臓を止めるのに十分な威力を持っていて、握り締めた手も、そこから溶けてしまうと錯覚させるほど、熱く俺の手を縛っていた。
羞恥と緊張と高鳴る胸に限界を迎えて気絶した俺を、ご丁寧にも運んでくれたらしい。
何故パプワハウスだったのか。
ただの気絶にしろ、世話をしてくれる人間がここにいるからだろう。
そんな気配りに胸の中で灯る感情。
(夢かと思っていたが…揺れる感じはあのオッサンだったのか……)
ふわふわと浮いてる感覚は夢だと思っていたとはいえ、確かに覚えていた。
外国産のきっつい煙草の匂いが残ってる。
抱き上げられた感触も温かさも、力強く広い背中も。
「…トシさん。今、何考えてました?」
「へっ?な、何も考えちゃいねぇよ!すまねぇがもう少し寝かせてくれ!」
「はいはい」
見透かされたのかと思って思わず布団の中に隠れた。
ドキドキと高鳴り始めた心臓を抑える俺に、リキッドはそれ以上突っ込むこともなく、取り込んだ洗濯物の山を畳み始めた。
何故俺はここまであいつのことを意識しているんだろう。
そもそも俺がリキッド以外の人間、しかも男にトキメクなんて有り得ない話だ。
頭から被っていた布団を下げて目だけ覗かせる。
(…そういやリキッドの瞳も、あいつの瞳も青だったな…)
鼻唄混じりに洗濯物を畳んでいるリキッドを下から盗み見ていると、視線に気付いたリキッドと目が合ってしまった。
「?トシさん?」
「あっ!すっすまねぇ!」
(リキッドとあいつが被るなんてもっとありえねぇよ!…………でも)
あぁ。俺は重症かもしれない。
好きだったはずの男と、目障りだったはずの男が被るなんて。
―――『耳が熱い』―――
「…やっぱ帰るな」
起き上がって草履を履き、寝ていた布団を片付ける。
どちらかは知らないが、俺のために敷いてくれた布団。
今、どちらにトキメいたのか、それすら考えたくなかった。
「大丈夫ですか?」
「…あぁ。世話かけたな」
きっと情けない顔になってしているのを見られたくなくて、背を向けて早々に立ち去ろうと玄関に向かった。
「トシさん、本当に大丈夫ですか?」
心底心配している声で、念を押すように問掛けられた。
ぐちゃぐちゃの思考の中、あれだけ好きだったリキッドの声は、青い渦に飲まれて届きはしなかった。
それでも、これ以上リキッドを心配させてはならないと、なけなしの理性をもって振り返った。
「…また来るよ」
ちゃんと笑えてたかな。好きな奴なんだから、心配かけちゃいけない。
リキッドはとても心優しくて、みんなに親切で、眩しいほどの笑顔で、棘々しかった俺を溶かしてくれた。
同性とか、元敵同士とか、永遠に年を取らないとか…永遠にこの島から離れられないとか。
俺がここにいる間しか一緒にいられない。
つまり離れるのは俺の方なんだ、と気付いた時、悲しかったのは事実だった。
しかしその時分かったのは、リキッドに対する“好き”とは、男女間で生まれる愛ではなく、友情が昇華していく親愛の情ではないかということ。
最早そんなもの問題でなかったのに。
あの男がちらついて、「なら俺のことはどう言い訳するんだ?」と囁き始める。
蘇るはあの男の触れた温もり。
感触。
温度。
耳に響き続ける声。
リキッドの笑顔が、あの男によって塗り変えられていく。
俺の心とは裏腹に、空はよく晴れていた。
―――『墜落→フォーリンラブってことっすね。お互い素直じゃないよなー』―――