大人の恋愛事情〜意識〜
保管庫
「ぷはーっ。やぁっとスッキリしたぜ」
「て…てんめぇ…」
心戦組ハウスに戻るため森の中を歩いていたら、突然後ろから激しい足音がした。
振り向いた時には既に遅く、俺は盛大な飛び蹴りをくらって盛大なスライディングをしていた。
慌てて身を起こすも、訳も分からぬまま袖口に手を突っ込まれて小さな箱を奪われるのを、目を回しながら見ていた。
やっと理解した時には、乗しかかった男が大きく紫煙を吐き出したころ。
満足そうに閉じられた瞳から、青い光が溢れて俺を見下ろす。
その眼差しに我に返り、渾身の力を込めて押し退けた。
どうやら死にそうと言っていたのはあながち嘘ではないようだ。
あんな形相で襲われては一堪りもない。
しかし、殺気を伴って走ってくれば流石に気付くのだが、今の一撃にそれはなかった。
ただ純粋に煙草が吸いたかったのだろう。
呆れる次いでに、蹴られた背中がジンジン痛んで、深呼吸をするように深く煙草を吹かすこいつを睨みあげた。
「この野郎…俺がいつ吸っていいつった?痛て…」
「あぁん?取ったもん勝ちに決まってんだろ。しっかし狼国はこんな味が流行ってんのか?いかにもいぶし銀な味だな」
煙草の銘柄が書かれたパッケージを物珍しそうに眺め、それでもスパスパ吸っているのを睨みながら立ち上がる。
擦りむいた掌や打った膝がヒリヒリと痛む。
「文句言うくれぇなら返しやがれ」
「吸いかけでいいんなら返すぜオラ」
「ぐぁ!てんめぇっ危うく眼球が灰皿になるとこだったろうが!」
「あれ、違ったんか?」
距離を詰め容赦なく眼前に吸い殻を近付ける仕草に、本気で顔を仰のかせた。
悪びれた様子も見せずニヤニヤと笑って、その煙草を再び吸う姿にブチン、と何かが切れた。
「きっさまー!斬る!今日こそは斬る!」
「そんなボロボロの体で出来んのかぁ?無理すんなよ」
「さっきは不意打ち喰らったせいだよ!むしろ後ろから襲いかかる卑怯な野郎が悪いんだろ!今度はしっかり殺らせてもらうからな!」
「殺れるもんならな〜。あ〜しっかし渋い味だな〜。口直しが欲しいな〜」
こんだけ俺が怒鳴ってるというのに、いつにも増して豹々としている態度が余計に神経を逆撫でしていく。
「手前の血でも飲みやがれ!」
思わず抜刀して斬りかかったが、やはり何でもないという風にひらりと交わされた。
「っと。それもいいな」
煙草を持っていない方の手で、刀を握る手首をぐいと引っ張られ、こいつの顔が急速に近付いてきた。
「へ…ぅわ!っっ!?」
頭突きを食らう!と思って衝撃に目を瞑った瞬間。
痛みの代わりに、唇を柔らかな感触が覆った。
『漫画みてぇにすっとんだ』
目を開ければ、視界は青に染まり、ポカンと開いた口内に柔らかな何かが差し込まれるまで、自分に何が起きたのか理解出来なかった。
手首を強く掴まれ、ぬめった舌が俺のそれに絡まろうとした瞬間、ようやく体が動き、反射的に口を閉じて相手の胸板を突き飛ばしていた。
「っー痛…」
「はぁ…はぁ……な…なんのつもりだ…」
「口直し、て言ったろ。お前の言うとおり自分の血を飲むことになったがな。おーいてー。口内炎決定だぜこれ」
「…………」
俺が噛みついた舌からは小さく血が滲んでいる。
顔をしかめてその傷口を指先で触り、付いた血をまた舐めとる。
たったそれだけのことに何故だか背筋がぞくりと震えた。
「この借りは返してやるからよ」
こいつの考えていることが分からず、動けぬままじっと睨んでいると背を向けて家路とは違う方へ歩き出した。
噛みついたことへの報復を言っているのだろうか。
どちらにせよ、拭えぬ敗北感は返さなきゃ気が済まない。
「…………上等だ。返り討ちにしてやらぁ」
微かに濡れた唇を手の甲で乱暴に拭い、まだ煙を立てる煙草を掲げながら歩いていく背中に吐き捨てた。
「口直しにしちゃ過激すぎたか」
ぽつりと呟やかれた言葉は、俺の耳にはっきりとは届かず、静かな風に消されていった。
しばらく背中が見えなくなるまで睨み続けていたが、冷静になって思えば、俺はあいつに接吻をされたことに額から汗が垂れた。
男に。
よりによってあの男に。
その時脳裏によぎったのは、憎しみでも怒りでもなく、視界いっぱいに広がった澄んだ青だった。
不思議と、嫌悪感が湧かなかったのは何故だろう。
「……ありえねぇ」
手の甲へ目を落とし、掴まれた感触の残る手首を摩る。
あの男の温もりを求めているような無意識の行動に瞬時に熱くなり、それすら認めたくなくて、消え入りたい思いにその場で蹲ってしまった。
『ありえねぇって』
あれからちょっとして、柄にもなく照れていた俺は、このままシシマイハウスに向かってはアイツと鉢合わせてしまうと考え、適当な別れ道を家とは違う方へ進んでしまった。
何となく迂回して、アイツが家に着いたかなと、思う頃ハウスに帰った。
「たでーま」
「おかえんなさい。あれ?」
珍しくロッドがキッチンに立っていて、通りすがり様きょとんと首を傾げる。
「隊長から知らない匂いがする」
「あ?匂い?」
鼻をスンスン言わせ近付いてくるのを見ながら、先程の出来事を思い出した。
「タバコの匂いだけど…隊長の吸ってるヤツじゃないしぃ。……あれあれ、隊長の顔が赤い」
ロッドに見上げられて言われた瞬間、反射的に何故か口を掌で隠していた。
まるでヤマシイことがあった言わんばかりに。
「ロッド、鍋が焦げるぞ」
「うわっやべ!」
慌てて火を消して鍋を覗き込んでるロッドを後目に、今度はマーカーが不気味な笑みを浮かべて近付いてきた。
「…なんだよ」
「いえ……火遊びは程々に、とだけ言っておきます」
「…………」
紅色の唇を歪ませてその一言だけ言うと、キッチンで慌ててるロッドの様子を見に行ってしまった。
「…恐ぇヤツ。何でもお見通しってか」
漂う焦げ臭さに鼻を摘みながら風呂に向かった。
シャワーのコックを捻り、勢いよく流れ落ちるお湯に打たれて匂いが消えていく毎に思い出すのは、アイツにキスした光景。
別に、キスをするつもりはなかった。
頭に血が昇っていたようだから、ちょっと嫌がらせして冷ましてみようと思っただけだったんだ。
掴んだ手首は思ったより太く、触れた唇は想像以上に薄かった。
リキッドのように触れて気持いいものでもなく、マーカーのように色気を伴うものでもない。
なのに、胸の奥の何かを弾いて仕方ない。
アイツに触れたところからドクドクと妙に高ぶり、耳障りなほど騒いでる。
「ありえねぇ…」
コツ、と壁に頭を付け、流れるお湯に目を閉じた。
皮肉にも、瞼の裏に浮かぶのはその“ありえない”男との情景。
一度頭を振るとシャワーを止めて風呂場から出た。
『ありえねぇ。何でもお見通しなマーカーもありえねぇ』
卵料理パーティをすることが決まって、オレは早々に準備に取り掛かった。
オムレツにキッシュにエッグタルト、デザートは卵たっぷりのカスタードプリン。
人もいっぱい集まるし、ここは腕の見せどころ。
はりきって下拵えをしていると、開け放していた扉から隊長が陽気な声で入ってきた。
「いよぉりっちゃん。飯出来たか〜?」
「どうしたんすか?早いですね」
「ん?待てなくてきちまったんだよ。腹へった」
「さすがにまだ出来てませんよー。そこのお菓子でも食べて待っててください」
「へぇへぇ」
大人しくちゃぶだいについた隊長は、子供たち用にに出してあるお菓子皿に手を伸ばしている。
お茶を煎れて差し出すと、ソワソワと落ち着かない素振りで辺りを窺っていた。
「なぁ。あいつは?」
「え?コタローたちならまだ帰ってきませんよ」
「ん、あぁ」
納得いったようないかないような。頬杖ついてハウスの外を眺め、貧乏揺すりまでしている。
飯の催促なのか、別の何かを待っているのか。
手元を動かしたまま目だけで隊長を盗み見て、しばらくした頃珍しく小さな声で呟いた。
「タバコ」
「はい?」
「タバコ、ねぇか?」
「またですか。うちにはないって言ってるじゃないっすか」
「……持ってる奴、どうした」
少し間があってぶっきらぼうに吐かれた言葉に一瞬頭を巡らせる。
タバコを持ってるヤツ、なんてこの島で数えるほど、というか人間しかいないのだから隊長が指すヤツはすぐに思い当たった。
「トシさんですか?」
「おぅ」
つい先程そのタバコの事でトシさんと口喧嘩していたことを思い出す次いでに、もう一つトシさんの言葉を思い出した。
「そういえば、トシさんでしたらまだ家にいますよ」
「へ?」
今まで外を見ていた隊長が、やっとこちらを見て驚いたように目を開いた。
その顔に、ちょっとびっくり。
「なんか…どうしても家を空けられないから作って夕飯時に持ってくるって」
「……ふぅん」
人付き合いの荒い隊長が、仲の悪いと思っていたトシさんのことを聞いてくるとは、一体どういう心境の変化なのだろう。
タバコが吸いたいだけ、とは思えない。
これはオレの勘だ。
隊長のことは短い間だったとしても、一番側でよく見ていたのだからほんの少しの変化でもすぐに気付く。
ほら、横顔には今誰を思っているのか、書いてある。
複雑な気持のまま、わざと気付かない振りをして、再び料理に取り掛かった。
その日の夜は、一見いつも通りの光景が広がってはいたが、二人の態度がわずかにぎこちなかった。
多分、気付いたのはオレだけ。
みんなが集まった輪の中で、二人がお互いを意識しているのがチクチクと伝わる。
隊長の目が、トシさんの目が、さりげなくお互いを探っているんだ。
そして二人とも、オレを盾にして言い合ってるのが何だかおかしい。
隊長なんて新しいオモチャを見付けたとばかりに楽しそうで。
方やトシさんは一歩引いて様子を窺っているよう。
まるで猫のように、毛を立てて威嚇しているみたい。
(ありゃりゃ。こうきたか)
ちみっこたちにデザートを急かされながら、新たな展開にしばらく様子を見ようと冷蔵庫を開けた。
『猫とライオン。まぁ悪くないんじゃない?』