記憶の断片

『終わる為の真実』



居ない。
アリスには両親と兄しか居ない。お姉ちゃんが居たなんて記憶はない。
彼女は何か勘違いをしているんじゃないだろうか。或いは、同じようにアリスと呼ばれていたナナシと間違っているのかも知れない。

「…あの、人違いじゃないかな? 私にお姉ちゃんは居ないから、多分ナナシさんと間違ってるんだよ」

しかし、彼女は云う。ハッキリとアリスを見据えて「勘違いでも間違いでも御座いませんわ」と言い切った。

「どうしてこのワタクシが貴女様と彼の方を間違えましょう。勘違いだと仰いますが、ならばワタクシは貴女に対して嘘をついていた事になりますわ。
嘘は時に必要だとはいえ、この時点で言えばただの痛くて電波な勘違い女という不名誉かつみっともないレッテルが貼られてしまうじゃありませんか。
望むところではないので否定します。さておき、話を戻すと致しましょう。
先程も言いましたけれど、貴女には記憶が抜けているだけで、御姉様が居たのですよ。乙戯アリス様」

念を押すように。
そして彼女は初めてアリスの名を呼び穏やかな笑顔を消した。

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 記憶は巡る。時間は巻き戻る。
気付けばアリスは一人、どことも知れぬ闇の中で浮遊していた。

ー思い返してみてごらんよ。アリス。
きみがこの世界に迷い込んだ理由が白兎だと思っていた考えから、少し前を。
(……白兎にぶつかる前?…確か、懐中時計が落ちてたのを見つけて、)

チェシャ猫の無感情な声が聞こえる。言われるがままにアリスは瞼を閉じて、回想した。
そこでズキ、と鈍い頭痛が妨げるのにそれでも無感情な声は言葉を続ける。

ーねぇ、アリス。もう一度ちゃんと思いだそう。
(ちゃんと? 私はちゃんと覚えているし、思い出してるよ?)

ーまだ見ない振りをするのかい? まぁ、俺はアリスがそれで構わないなら良いけれど。
でも、何事にも限界はあるし彼女の言う通り、きみが元の世界に戻りたいと願うなら避けられないんだよ。

(だから、何が言いたいのか分からないよチェシャ猫! ハッキリ言ってくれたら良いじゃない。
曖昧に遠回しな言い方をされたって察せられる程、私は頭が良くないもの)

ーうん。そうだね。

肯定された。そこは嘘でもちょっと頷いて欲しくなかった。しかし、思いださなければいけないと云うのならそれをするしかないのだ。
ズキズキと痛む頭の痛みを堪えながら、アリスは記憶を辿る。

そう、確かその日は学校に通っていた。いつもと似たり寄ったりな授業を受けて、友達と他愛ない会話を交わす。
帰りは、一人で。

(………あれ)

そこで僅かな違和感を感じた。しかし、やはり私は一人だった筈だ。続けて記憶を辿る。
その帰り道で私は落ちていた懐中時計を見つけた。
そして、白兎によって水溜まりにしか見えない穴に落ちていった。

その少し前とチェシャ猫は言ったけれど、どう考えても違いがあるとは思えない。

『ー貴女には大切で大好きな“お姉ちゃん”が居られた筈でしょう?』

彼女はそう言ったけれど、
こうして思い出そうとしてもやはりお姉ちゃんとやらの姿は浮かばない。まずはそう、家族との会話を思い出してみよう。

「おはようアリス、今日は随分と早いじゃない」
「うん、目が覚めちゃったんだ」
ザザッー
「おはよう、お父さん」
「あぁ、そうだアリス、ーザッーザザッー…あいつはまだ寝てるのか?」
「ピッーガガーッーお兄ちゃん?多分まだかな」
「……はよ、……何お前、遠足にでも行くのか?」
「遠足はもっと早いよ。それよりお兄ちゃん、顔洗ってきたら」
ーザーッガザー
「うるせぇな…お前ーザザザッーガッー…ちったぁ兄貴を敬え」

……何だろうか、雑音が入る。これは私の頭が可笑しくなったのか、あるいは彼女の言っていた私の抜けている部分なのか。

ーねぇ、アリス。
別に忘れたいと願うのは悪い事じゃないんだよ。生きている以上、人間は忘れるし、衝撃な出来事ほど忘れたいと思うものだから。

(…うん、)

だから私は、思ってしまったんだろう。忘れたいと。
大切な人を、記憶から消してしまいたいと。

ザザザッー
(…マリアとあいつはまだ寝てるのか?)
(お姉ちゃんとお兄ちゃん?多分まだ…)
(…それより顔洗ってきたら?)
(そうだよ、アギ兄はいつもだらしないんだから、もっとしゃんとして!)
(うるせぇな…お前ら妹は揃って突っ込み入れやがってー)

あぁ、そうだった。確かに私にはお姉ちゃんが居た。
どうして忘れてしまっていたのだろう。こんなにも大好きだったというのに。

大好きだった? いや、どうだっただろう。まだぼんやりとしか浮かばない姉にアリスは眉を寄せた。
確かに存在していた家族を記憶から消してしまっていたのに、まだ実感が湧かないのだ。
こんな風に言われてしまうまで私はお姉ちゃんの事をどうして頭から消していたのか。
ズキズキとする頭痛が治まらないまま、アリスはゆっくりと頭を振る。

「……どうやら御姉様の事を思い出されたようで御座いますね。
宜しい、上々ですわ。さてそれでは続けて参りましょう。どうして貴女が大切な御姉様を記憶から、思い出から無くしてしまうに至ったのか」

気がつけば再び白と黒で別れた場所で彼女が語る。ふわふわと現実味のない狭間の世界。
確かにここは何が起きてもどこにも影響されず、影響を受けない場所なのだろう。
ふと、アリスはあの無機質な蜥蜴を思い出す。裏切り者にして無機質な、あのトカゲのビルを。

「……ねぇ、トカゲのビルは、一体何がしたかったのかな」

彼は何がしたかったのだろう。
こんな何の力もないただの小娘を連れてきて、訳の分からない空間に落としてまで。
何気ないアリスの問いに、彼女はふむ。とアリスを見返して口を開く。

「ーそれは、言葉の通りなのではないでしょうか。
真実、偽りなく、あの方は『呪い』を壊したかったのですわ。ワタクシには解りかねる思考ですけれど、否定は致しません。
彼には彼の理由があり、また貴女には貴女の権利がある」
「私が、呪いを解く為には消えなきゃいけないって」

曖昧な記憶だけれど、それが妙に耳に残っている。
アリスはその為にあのワンダーランドへ迷い混み、そしてこんな場所でまた迷っているのだ。真実から必死に目を背けるように、逃げたいんだと。
彼女はそんなアリスの迷いににっこりと微笑んで「では、貴女はこのまま消えたいと」と冷ややかに告げた。

「ワタクシは別にどうでも構いませんのですけれど、これは単に頼まれたからのお節介ですので。
貴女がそれで良いと仰有いますならワタクシには貴女の記憶を取り戻すお手伝いをする理由も、こうして問いに答える理由もなくなります。
まぁ、貴女は確かに役を持たない方で、よって少なからず影響を及ぼしたのは事実上の肯定となるのですが」

独り言のように彼女は淡々と言葉を連ね、つまらないですわね。と呟く。

「別に、貴女でなければ呪いを解けない道理はないのですよ。
たまたま貴女は波長が合ってしまわれた。突然の不幸に遭い、災難に遇い、そして彼の目に会ってしまった、それらが積み重なって迷っただけの存在。
死ねない兎も、味覚狂いも、笑い猫も、
外れた三月も、無害なネズミも、色欲狂いも、
見合わない女王も、干渉出来ない王も、役から外れた裏切り者も、
遊び好きな双子も、発狂した女王も、
穏やかな紅も。全ては夢だったと忘れてしまって構わない些末な出来事なのですから」

それだけの、偶然でしかないのだと。

「貴女は何も悪くない。ですから、忘れてしまっても誰も貴女を責めませんわ」
「夢なんかじゃ、ないよ……」

それでは駄目なのだ。彼女の言葉にアリスは小さく呟いた。
彼等が『夢だ』等と、どうしてアリスが決めてしまえると言うのか。
たった、一週間程度の関わりでしかなかったけれど。それでも、ちゃんと彼等は生きていたのだ。

「戻らなきゃ、戻って、ちゃんと」

お別れを言わなければ、終われない。記憶は曖昧だが、アリスはそう強く願う。
彼女は変わらない表情でアリスを見つめて「そうですか」と短く息を吐き出す。

「戻りたいのは、元の世界ではなくワンダーランドなのですね」
「…うん。
勿論、元の世界には戻らなきゃいけないけど、今は」

「えぇ、えぇ。ワタクシは貴女の決断を止めはしませんわ。戻りたければどうぞご自由に。
その選択に、後悔をなさらないよう願っておりますわ」

そう恭しく頭をたれた彼女はアリスにそう告げると先程まではなかった扉を指し示して「お気をつけて」と言う。
躊躇うように扉を見つめたアリスは一つ頷いて扉の向こうへと足を踏み入れて行った。

暗闇に一人残った彼女は「またいずれ」と薄笑いで呟いて姿を消した。


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