狭間の世界で

『終わる為の真実』



何処とも知れない場所で、常世でも現世でもない曖昧な空間で、気がつけばアリスの意識はそこでさ迷っていた。
何もない一面の黒。
空も地面もない前後左右の感覚すら分からなくなるような、寒さも暖かさもない。まさに『無』がそこにあった。

(あれ…?……私は確か、トカゲのビルと話をしていた筈なのに)

記憶は自然とそこに行きつき、それからどうなったのかがすっぽりと抜け落ちている。
そんなアリスの視界にふと先程まで姿の欠片すら見えなかった白い少女がふわりと現れて「あら、これはこれは」と笑う。
一気に空間は鏡のような世界に塗り替えられていき、彼女は恭しくアリスに頭を下げてお辞儀をした。

「初めまして。いえ、始めましてと言った方が正しいのでしょうか?まぁどちらでも似たようなものですけれど、そんな戯れ言はさておき、お客様をお出迎えするのがワタクシの役。
貴女がどのような経緯でこんなところまでお出でになったのか。それをご説明致しましょうか?それとも」

「ちょ、…ちょっと待って!そんなに一気に話されても分からないから…っ」

すらすらと噛まずに連ねる彼女の言葉を遮ったアリスは改めて黙ってこちらを見つめる少女の姿を見返す。
ワンダーランドの住人やナナシも大概、普通とは逸脱したファッションセンスをしていたけれど、彼女はまた違った意味で逸脱していた。
一見すると少年にも少女にも見える彼女をアリスは少女だと認識したのだが、もしかすると少年なのかも知れない。

「とりあえず、ここは…?」
「はい、ここは何処でもない何処か、ですわ。明確には存在しない、いわば間。狭間の世界とでも言いましょうか」

ううん、とアリスは首をひねってやはりよく分からないと思い、次にじゃあアナタは?と尋ねた。

「ワタクシもまた、誰でも御座いません。ここにこうして居るのですからワタクシという個性は存在するのでしょうけれど、
さて、では誰なのかと問われたらそれに返答はしかねる。そんな曖昧な輩ですので名乗るべき名前はないのです。
そもそも、こんなところまでに落ちてくる方など滅多におられませんから端的にぶっちゃけてしまえば名前など面倒なだけなので、お好きなように。と」

適当だった。その適当さ加減と淡々とした口調語りはナナシのようで、チェシャ猫のようで、けれど誰とも違う雰囲気だ。
回りくどいのに何故か耳に残る澄んだ声。無感情でもない、妙に芝居がかったような馬鹿丁寧な話し方も違和感はなかった。
まぁ回りくどい気もしたが、それも彼女の個性だろう。

「…うん、」
「こんな世界の狭間の状況など知ったところで得にもなりませんわ。そろそろ本題に入らせて頂きたいのですけれど、
貴女はどうやら元の世界に戻りたいと願っておられたように記憶しておりますが。その気持ちは今も?」

どうして初対面の彼女がそれを知っているのかとアリスは面食らったが、
一度トカゲのビルに酷く折られた為に疑うよりまず本当に知っているのかと何度も確認した。
彼女は知っておりますとも。と頷いて「ですが」と前置きをする。

「貴女が元の世界に戻る為には、貴女自身がまず、貴女自身の気持ちをご自覚なされなければいつまで経っても永久にこのままですわ」

気持ちを自覚?どういう意味なのだろうか。アリスは彼女をじっと見つめて様子を探る。
静かな微笑みを浮かべたまま、彼女はとん、と軽やかに着いてきて下さいませとアリスをある場所へと誘導した。

「え?…って、どうやって!?」

イメージですわと短くアドバイスをした彼女は戸惑いながら飛んだアリスを案内していく。
そして何度目かの着地で到着した場所は一見すると何ら変わりのない白と黒で上下に別れた妙な空間だった。

「さて。ここで貴女の見ない素振りをしてきた気持ちをお教え致しましょうか。それとも知りたくないでしょうか」

目の前の彼女はとても穏やかに向き直り、問い掛ける。

「どうして此処に至るまで貴女が元の世界に戻れないのか、どうして此所に至っても元の世界に戻れないのか。それとも質問を改めてしましょうか。

『貴女は本当に元の世界に戻りたいと思っていますか?』」

アリスは困惑する。どうして彼女といいナナシといい、同じ問い掛けをするのだろうか。
答えなんて『戻りたい』に決まっているのに。

「戻りたいに決まってる…どうして、そんな当たり前の事を尋ねるの」

さて、さて、さて、と彼女は三度口にして「どうしてでしょう」と告げた。
ふざけた口調でありながらその表情は変わらない。

「ふざけないで…」
「ワタクシはふざけて等おりませんわ。ふざけて何の得がありましょう。
貴女を不快にしたところでワタクシの人生、何一つとして変わりませんもの」

穏やかに。そして問い詰めるように。彼女はアリスを見据える。
その光のない瞳に思わず寒気に襲われた。

「だったら、ちゃんと説明して欲しい…」

下がりそうになる足を留めて、アリスは彼女を見返す。
彼女は「それは勿論でございますわ」と微笑みながら、地面のない暗闇に波紋を広げてアリスの目線に合わせた。

「けれどそれには貴女が自覚なさらなければ意味を持ちませんもの。ですから故に、質問なのでございます」
「………そう、なの?」
「えぇ。ワタクシ、無意味で不毛な時間は大嫌いなので。冗談はまた別ですけれど!」

いまいち納得しかねるアリスにきっぱりと彼女は告げる。
その台詞は無意味で不毛ではないのかとも思ったが、もう何も言うまい。

「分かったわ…アナタがそう言うなら、信じる」

それで念願の元の世界に戻れる一歩になるなら迷いはなかった。
彼女は「光栄に御座います」と呟いて、それではと言葉を続ける。

「ワタクシはその信義に応えなくてはなりませんわね。それもまた貴女次第なのですけれども。
そして思い返して見て下さいませ。貴女は確かに元の世界に戻りたいと仰いました。
その気持ち及び言葉に嘘はないのでしょう。ワタクシはそれを偽りだとも謀りだとも思いませんし疑いませんわ。

けれど。けれどどうでしょう?
元の世界には戻りたいと仰いました貴女の本音が違っていたら。

戻りたいと思いながら、戻りたくないと思っておられたとすれば。
ご自身でも無意識の内にそうお思いであったなら、

貴女はそれを知らない限り。見て見ぬ振り、聞かぬ知らぬ振りをしてきた本音に向き合わなくては始まらないのです。
焦らなくても宜しいのですわ。ゆっくり、思い返して欲しいのです。

何度となく戻りたいと思う半面、貴女は一度としてご自分の御家族を、想われましたか?」

彼女はそこで言葉を区切り、アリスはそれに、答えられなかった。
何故なら、一度たりとも思い出さなかったから。

「…ッ」

だが、確かに言われて見なければ思い出さなかった事に気付いたとて、それが戻りたくないという気持ちにはなり得ない。

「不仲であろうとなかろうと、一番身近である家族の事を貴女は一度として思い出しませんでした。
そしてワタクシが尋ねた今現在でさえ、その家族を思い浮かべていらっしゃらない。
さて。それは『どうして』なのでしょうか。考えてみて下さい、貴女が本当に元の世界に戻りたいのならば」

彼女の言葉に、アリスは頭を押さえて左右に振った。

家族。
そう、自分の家族は平凡でありふれたどこにでも居る家族だ。仕事で忙しく、遅くまで頑張ってくれている父親。
成績には厳しいけれど健康に気遣ってくれる母親。何だかんだで口は悪いけれど優しい兄。

……今まで、どうして思い出さなかったんだろう。可笑しな話だ。
けれど、彼女はまだだと言うかのように「それだけでしょうか?」と穏やかに問い掛ける。

「…、まだ、何かあるの?家族の事は思い出したし…
どうして忘れてたのかは分からないけど…」

家庭内に問題があった訳でもない。
それぞれが多少の不満を持ちながらも家族としての不足はなかった。
家に帰ればお母さんがおかえりと共にあれやこれやと言ってくる。
それをうんうんと半分聞き流しながら部屋に向かえば、お兄ちゃんがぐしゃぐしゃと頭を乱してイヤミを言う。
それに対して私は拗ねたように言い返すんだけどお兄ちゃんは笑うだけ。
お父さんはたまの休みにしか一緒に過ごせないけれど、それでもお父さんだ。

「……どうやら貴女の記憶は一部抜けておられるようです。嘆かわしいですわ、何と可哀想なので御座いましょうか!」

なのに彼女はその充分な筈のアリスの記憶が抜けていると言う。
何も抜けていないのに。足りない誰かも何かも居ないのに、一体何が。

アリスの戸惑いにやはり彼女は穏やかで無慈悲にも告げる。

「貴女には大切で大好きな“お姉ちゃん”が居られた筈でしょう?」
「お姉…ちゃん?」

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