白兎とチェシャ猫
『出会いと始まり』
落ちるおちるオチル。
白くて深い、穴の中へと真っ逆さまに。
(…有り得ない)
どうして自分がこんな目にあっているのか。ここに至るまでの記憶を巡りながら、むしろ少女は冷静に思った。
いつもの通り学校へ行き、決まった時間に授業を受け、ただ家に帰宅するだけの日常。
異変なんて起こり得る筈のない変わらない毎日。
それが、たまたま見付けた時計一つで非日常へと変貌した現状は、ただ不可解としか思えない。
いつもの帰り道。何気無く道に落ちていた銀色の懐中時計。
それを拾って手に取った訳でもなければ踏みつけてしまった訳でもない。ただ、路上に落ちていたのがたまたま視界に入っただけで、一体誰がこんな目にあうと予想できると言うのか。
いや、まさか!と。
もう一度少女は自問自答する。
これはもう運が悪かったと思うべきなのだろうが、しかし腑に落ちない。
落ちていた懐中時計を拾い上げた人物は思い返しても変人としか思えない程に白かった。
白い髪に白い服。上から下まで全てにおいて白く、その頭からは同じく白い兎の耳。
異様な光景から目が離せなくなったのは事実。そして、その白い人物は少女など視界にない様子で歩き出した。
しきりに時計を気にしていたから、急いでいたのだと理解は出来る。
ここまでなら何て事はない話だし、少女とてあぁ、不思議な白昼夢だなで感想を終えられたのに。
一体何がどうなったのか、そんな兎耳コスプレ男にぶつかった上、背後にあった水溜まりにしか見えない穴(昨日は雨が降っていないのにと不自然な気もしていたけれど、どう見ても水溜まりだ)に落ちてしまうとは、現実的に考えて有り得ない。
回想は以上で終わり、少女はやはり現状を理解する事が叶わなかった。
ぶつかった人物も白。
そして、現在進行形で少女がまっ逆さまに落下中である目の前の光景も同じく白。
(……白が憎らしく思えたのは今日が初めてだわ…)
嫌いになりそうな色を見ながら少女――
乙戯(おとぎ)アリスは思った。
夢なら早く覚めればいいのに、と。
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気が付くとふわふわした浮遊感はなく、いつの間にか深い森の中に居た。
ぼんやりと上を見上げれば爽やかな青空。
やはりあれは夢だったのかと辺りを見回してみる。
森。木々。草。岩。白。
(………ん?)
何やら違和感を感じ、もう一度と、辺りを見直してアリスは確認を取った。
動物の姿は今のところない森。取り囲む様に無数にある木々。生い茂る草。所々にある岩。
そして、目の前にぴょこんと生えている白いウサ耳。
「………うさ耳…?」
思わず条件反射で引っ張ってみる。
「…痛ェんですけど。つか、いつまで乗っかってんですかアンタは」
引っ張った耳から声が聞こえ、自然と下を見れば立派なウサギ耳を生やした真っ白い眼鏡の男がだるそうにアリスを見つめていた。
「…変態ウサ耳男…っ」
「何ですかソレ…つか、退かねぇなら勝手に動きます――」
「ねぇ。元の場所に帰して欲しいんだけど」
知らない間に上に乗っかっていたらしい事はさておき、兎耳男の言葉を最後まで聞かずに問いかける。
この際、元の場所に戻れるならこうなった経緯すらどうでもよかった。
「……元の場所?……あァ…もしかして あの時」
ようやくぶつかった事を思いだしたのか、男は面倒臭そうに目を細めた。
「知らねェですよ。勝手に巻き込まれたのはアンタですから自分で探しやがれって事で。俺は急いでるんです――よっと」
理不尽な言葉を吐いた男はアリスを引き剥がすと埃を払いながら立ち上がり、さっさと歩き出してしまう。
「えっ…ちょ」
一瞬の判断が遅れたアリスは慌てて男を追いかけようとしたのだが、もう既にあの真っ白い姿は何処にも見えない。
唯一の手掛かりを見失ったショックでガックリとアリスは項垂(うなだ)れた。
(有り得ない有り得ないわ本気であの変態ウサ耳眼鏡男っ……)
ふるふると頭を左右に振って、溜め息を一つ。1日でこんなに理不尽な扱いを受けたのも深い溜め息ついたのも生まれて初めてだ。
「…白い兎なんか滅亡すればいいのに」
毒を吐きながらアリスが膝を抱えて座り込んだ時、
「…兎が嫌いなの?」
誰も居ないと思っていたこの場所に無感情な声が聞こえた。
驚いて顔を上げれば、そこには至近距離にまで顔を近付けた赤い髪の少年の姿。
いつの間に居たんだろうとか顔近いなとか、いろいろ思う所はあったけれど、笑顔の為か少年に嫌悪感は感じない。
「それとも白兎が嫌い?」
「…白い兎耳を生やした男が嫌いなの」
再び問われた質問に、隠しても仕方ないと考えたアリスは正直に言う。
少年は笑みを浮かべたままふぅんと呟いてアリスから離れると「でも」と言葉を続けた。
「…それは叶わないよ。白兎は死なない」
死なない?それは一体どういう意味なのか。
疑問に思って問いかけようとし、そういえばまだ互いに名乗ってない事に気付く。
一先ずは自己紹介が先だろう。
「まだ名前、言ってなかったね…私はアリス。乙戯アリス。あなたは?」
少年はきょとんとした表情をして、あぁと納得した様に先程の笑みを浮かべた。
「俺はチェシャ猫。一応、宜しくなのかな。アリス」
チェシャ猫―変わった名前だと思う。
猫…ねこ?アリスは改めてチェシャ猫をまじまじと見直した。
赤い髪に赤い瞳。左目は見えないのか黒い眼帯。
少し派手な赤と黒の服装が違和感なく似合っているけれど、問題はそこではない。
鮮やかな赤い髪からは本来なら人にあるはずのない灰色の猫耳、ズボンからはゆらりと同じく灰色の尻尾が生えているではないか。
(………もしかして、こんな人達ばかりなの!?)
軽く目眩をおこしかけたアリスはチェシャ猫を見たまま沈黙した。
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白兎は死なない。
その答えを何となく聞きそびれたまま「ついておいで」と言われたアリスは、何故か抵抗なく自然とチェシャ猫の後を追って歩いていた。
「…ねぇ…一体何処に向かってるの?」
深い森を抜け、ようやく道と呼べる場所に出たところで聞いてみれば前を歩くチェシャ猫が振り向かないまま、無感情な声で返事を返す。
「キチガイ帽子屋のお茶会だよ」
と、告げられてもさっぱり解らないのだけれど。
そんなアリスの気持ちは言わずとも伝わったのか、チェシャ猫は尻尾をゆらゆらと揺らし「悪いようにはしないさ」と続けた。
「行けば分かるよ。アリスは泊まる場所が必要だと思って」
会ったばかりだというのに何て親切なのだろうか。何だか申し訳ない。
それもこれもあの変態白兎の所為だ。
(…今度会ったらあの目障りなウサギ耳を引っこ抜いてやるんだから)
アリスがそう決意を固めた時、不意にチェシャ猫が立ち止まる。
「着いたよ」と言われるがまま目を向ければ少し離れた場所に建っている家が見えて、アリスは思わず絶句した。
ピンク色の少女趣味全開な建物は、まるで童話の中のお菓子の家と形容するのに相応しく。
そして庭には、テーブルを広げてお茶会をしている三人組が自然に居る。
僅かにこの空間に足を踏み入れる事が躊躇(ためら)われたが、他に宛はない。
意を決したアリスはお邪魔しますと告げて、門を開けた。