夢なら夢だと、

『出会いと始まり』




初めて向けられた悪意。

本気で殺されると思った。
今更ながらにその恐怖に腰が抜けて、アリスは寒気に身を震わせる。

「大丈夫かい?アリス」

いつもと変わらないチェシャ猫の声が、まるで何事もなかったかの様で。

そんな自分より、女王やメアーリンの方が辛いに決まっている。とアリスは首を振って大丈夫だと返した。

「…ごめんなさい、アリス……兄が…お兄様が…」

女王は本当にごめんなさいと頭を下げる。
彼女は少しも悪くないというのに。
寧ろ、謝らなければならないのは自分なのではないかと良心が痛む。

「女王様の所為じゃない。…それに、私は怪我もないし、平気ですから」

努めて笑顔で言ったつもりだけど、上手く笑えていただろうか。
平気、だとは言えないが 少しでも女王に心配をかけたくはなかった。

「…チッ…あの野郎…相変わらずムカつく…ッ」

ふと敬語もどきの口調が崩れた白兎の声が聞こえて、何気なく目が合う。すぐに逸らされたけど。

「まァ、ある程度は最初から分かってたコトだろ。王はあの時からアリスが嫌い過ぎて、ジャックに執着してたし」

三月ウサギが首を鳴らして、やれやれとばかりに銃をしまいながら告げる。その様はやはり淡々としていた。

「…確かに《役持ち》としてはジャックみたいに強い騎士を手放したくはないんだろうが…」

三月ウサギに同意しながら、どこか納得しかねるように時計屋が息を吐いて、メアーリンに視線を向ける。
目が合った時計屋にゆるりと首を振ったメアーリンは女王の安全を優先するように促した。

「…女王様…お部屋に戻りましょう…」

「…えぇ」

力なく頷いた女王の手を取り、そして、気にしないで下さいとアリスに微笑むと部屋から出ていってしまう。

胸が締め付けられる様に、軋む。しかし、だからといって アリスに何が出来たと言うのだろう。

「アリスちゃん☆元気出して!王はあぁだけど、僕達はアリスちゃんの味方だからねっ!!」

そんなアリスを励ます為か、ぎゅう、と抱きつきながら言った帽子屋を三月ウサギが引き剥がす。

「バカやってないで行くぞ――アンタも いちいち気にすんな。目的は『元の世界に戻る事』なんだろ?さっさと帰って忘れりゃいい。全部、な」

淡々と告げる三月ウサギはいつもの事。だけど、

「全部、忘れる…?…それってどういう…」

アリスの問いに、三月ウサギは意外そうな表情で薄く笑みを浮かべた。

「知らないのか?こういうのは大抵『夢』だった。ってオチで終わるんだよ。結末なんてそんなモン―」
「三月。あんまりお喋りが過ぎると俺が一から調教してやる羽目になりやがりますよ」

最後まで聞けず、途中で遮った白兎の言葉にハイハイと適当に返事を返した三月ウサギは帽子屋と共にじゃあな。とその場を後にする。
白兎は何も言わずにその後に続き、時計屋もチェシャ猫に後は頼むと告げて、行った。

部屋にはアリスとチェシャ猫の二人だけ。

「…聞きたいコトはあるかい?アリス」

初めて会った時と変わらぬ笑み。アリスは首を振ってチェシャ猫を真っ直ぐ見つめた。

「…良いわ…多分、今は頭に入らない。それより、一つだけ答えて」

チェシャ猫は尻尾を揺らしながらアリスの言葉を待っている。
深呼吸をニ、三度してから、アリスは聞いた。

「これは、『夢』なの?」

だとしたら、随分と悪趣味な夢だと思ったけれど。
チェシャ猫は数秒だけ黙ったままアリスを見返して、口を開く。

「…アリスがこれを夢だと思えば夢だし、現実だと思えば現実かもしれないし…アリス次第だよ」
「私次第…って、言われても…」

曖昧な答えにアリスは戸惑った。つまりはチェシャ猫にも分からないという意味なんだろうか。
じっとチェシャ猫を見れば表情を変えないまま「でも」と言葉を続けた。

「引き返すなら、『今』だよ。アリス」
「…何、言ってるの?引き返すも何も…元の世界に戻る手掛かりもないのに――」

そう。まだ何も分かってないのだ。
自分とは違うアリスという名の少女の事も、この世界に来た理由も、何も!
けれどチェシャ猫は続ける。

「うん。だから、それだけ考えれば良い。俺や ジャックや 女王の事なんて気にしないで元の世界に戻る事だけを考えると良い」

言われた言葉を理解するのに、数秒かかる。

それはつまり、これ以上この世界の人物に関わるなという忠告なのだろうか。それとも検索するなという意味だろうか。

確かに、たった数日だ。
会ってから間もないアリスを快く受け入れる理由もなく、ましてやアリスも帰るのが目的なのだから。
これ以上、深く関わるな。その心境は分からないでもない。分からない訳じゃないけど、言わずには居られなかった。

「…だったら…どうして…」

手を差し伸べてくれたのは、他でもない。チェシャ猫だ。
今更だと分かっていても、どうしてだという疑念が回る。

「何で、放っておかなかったの…」

聞いたのは、アリス。差し伸べられた手を取ったのも、アリス自身で、関わっていったのも。
そして――多分、崩したのも自分なのだろう。

ボロボロと頬を伝う涙は止めどなく溢れて、握りしめた拳を濡らした。


頭では、ただの八つ当たりだと分かっているのに、所在なく混乱する気持ちだけはどうにもならない。
関わってしまって、ごめんなさい。崩してしまって、ごめんなさい。

何の力にもなれなくて、誰の気持ちも分かってあげられなくて、ただ後悔と罪悪感に押し潰される。
それでも。元の世界に戻りたいと思う自分が滑稽にも勝手だと感じた。

「…どうしてチェシャ猫は、私の側に居てくれるの…」

次いで出たのは、チェシャ猫が何も言わないまま動かない事に対しての問いかけ。

「…面白そうだと思ったからだよ、アリス」

そんなアリスの問いかけに答えたチェシャ猫はいつも通りの笑みを浮かべ、アリスを見つめていた。
その後の事は、よく覚えていない。

ただ、気付けばチェシャ猫の姿がなく一人ぼっちになっていた事実だけが重かった。


→第二章『もう一人のアリス』に続く。




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