chapter3ー06『紅の存在理由』

終末アリス【改定版】



 
 紅の騎士と呼ばれる以前の彼は、目立たない少年であった。
 埋没した存在で、周囲に流されて生きている。そんな存在であると自負すらしていた。
 それが変化したのは、当時はまだ女王にはなっていない彼女。鮮烈で苛烈な赤の少女が切っ掛けである。
「そこのお前、」
「は。私でありますか」
 数人で固まって次の訓練場への移動の最中、少女の呼び掛けに答えたのは成績もよく、容姿も目立つ同期だった。
 ああ、お前でも構わないが。と少女は微笑み、兵士というのはどんな訓練をしているのだと問い掛けた。
「見たところ、お前達は赤の兵士であろう? 母は騎士にするなら優秀で強い男にしろと言っていたのでな。参考までに聞かせろ」
「――では、訓練をご覧になっては如何です。姫の期待に添えるかは分かりませんが、可能性があるなら私共には光栄の至りですから」
 他人事のようにそれを聞いていた彼は、初めて目にする時期女王を見てもそこまで心酔はしていなかったのだ。


 姫の前であるという言葉で、普段はだらけている兵士ですら良いところを見せようと張り切る訓練場にて。
 口では周囲に合わせていたものの、本音はどうでもいいと考えていた彼は休憩を装ってサボっていた。
 優秀である同期は今日も憧れの的で、相変わらず自分は埋没する存在だ。
本気を出したところで何故か剣は当たらない。才能がないのだ。だけど体力だけはあるらしく、雑用には持ってこいの利用価値でここにいる。
「お前。どうしてサボっておる」
「…………俺ですか」
「お前以外にサボっておる者はおらん。何だ、騎士になりたくはないのか」
「あはは、なりたいって言ったら、してくれるんですか」
 何故か話し掛けてきた彼女に、少年は笑った。軽快に、投げやりに、しかし柔和に。
 彼女はそんな彼を一瞥すると、視線を訓練に励む彼等に向けてからふむ。と考え込むような素振りを見せた。
「この場にいる誰も、本気で騎士になりたい者が居るものか。……いや、
女王の騎士になりたい者は居るだろうが、わらわの騎士になりたい者は誰一人としておらん」
「……それはまた、難しい考えをするんですね。同じじゃないんですか」
「ならば、お前は女王でもないただの娘の騎士になれと言われてなりたいか?」
 ここで、聡明な同期が答えたならばそれが貴女の望みならと膝まづいただろう。
しかし、彼はそうではなかった。誰の意見でもない、自分の意見というものを初めて求められたのだ。
「…………」
 戸惑ったし、不思議だった。どうして時期女王である何の不自由もない姫が、こんな自分にそんな話をしたのだろうか、と。
 そして同時に、初めて自主的に思った。この少女の騎士になりたい。
なってみたい。時期女王にならなくとも、少女が必要とするならなりたい。
「………でも、姫様。俺がなりたいと言ったところであなたが必要としないなら意味はないでしょう」
「そうだな。わらわも無能な役立たずは要らん。本気でお前がわらわの騎士になりたいならばわらわと、周囲に示せばいい」
「……そうしたら、俺はあなたの騎士になれますか」
 どうだろうなと微笑んだ、その真紅に魅了されたその日から。彼は彼女の騎士になるべく奮闘する。
 半年後に、彼女がハートの女王になっても。彼は彼女の騎士になる為に――その為だけに剣を振るい続けた。
 それから五年後に、ようやく彼女の騎士になれた。スペードの王とも兼用だったが、それでも良かった。ただ彼女の為だけに生きると決めたのだから。
 こうして紅の騎士と呼ばれるようになった彼の転機は、騎士になってから一年にも満たない頃だった。


 すっかり女王に心酔していた紅の騎士が女王の側に居られるだけで幸せだった矢先。
「……なあ、お前。わらわと子供を作る気はないか」
「………………はい?」
 女王に切り出されたのはそんな突拍子もない話。紅の騎士は信じられない面持ちで聞き返し、混乱する。
 そりゃあ女王の事は好きだし、年頃の男としてそういう意味でも好きだとは自覚していたが、かといって女王とどうこうという展開は予想すらしていなかった。
「それはまた、一体どうして俺を相手にされようと思いやがったんでやがりますか女王様」
「混乱しておるな。まあ無理もないか。わらわとしても出来れば時兎を相手にしたかった。
何故に時兎は女性でわらわも女性なのか、どちらかが異性であったならば口説き落としてやれたのに残念でならん」
 澄ました余裕のある美人の顔を思い出した紅の騎士は、柔和な笑みのまま時兎への殺意を募らせた。女王は何故か、あの時兎が大好き過ぎる。
「冗談はさておき、わらわと王の間に産まれたのが男児なのは知っておるだろう。跡継ぎは女児でなければならんのだが――王が拒んでおるのでな」
 拒む? 一度しか姿を見ていないが、スペードの王は飾りである。女王との子供を成すのに何を拒む理由があるのか、と紅の騎士は眉をしかめた。
「まあ、……その理由は分からんでもない。とにかく、わらわとてどこの輩とも知れん男と肌を重ねたくもない。どうせなら、お前との子供ならば悪くはないと――思ってな」
「…………、それは俺の気持ちを知った上での同情――ですか」
 紅の騎士は慎重に尋ねる。心酔はしていても、自尊心までは捨てていない。それに女王が誰を一番に好きか等、とっくに気が付いていた。
 それでも健気に側に居続ける俺への情けなら、拒んでいただろう。一度でも彼女の温もりを知れば、二度とは戻れない。何とか押し留めているタガが外れかねない自覚はあった。
 そんな紅の騎士の問いに、女王はあの時と同じ笑みで微笑んだ。
「お前はわらわが欲しいのだろう? だったらわらわを夢中にさせてみよ。男ならば奪ってやるくらいの気概はあっても良かろうに」
 告げられたのは挑発だった。変わらない女王に苦笑いを浮かべた紅の騎士は女王の求めに応じて彼女を愛し、そして、子供を成したのだ。


 紅の騎士が如何に女王を愛そうと、彼女がたった一人しか想っていない事を、言われるまでもなく紅の騎士は知っていた。
 それでも、いつか。彼女がこちらを向いてくれるのではないか。同じく好きだと返してくれるのではないか、と思っていた時期もあった。
 遠征で白い兎耳の少年を拾ったのも、もしかしたらその虚しさを埋めたかったのかもしれない。
基本的には教育に関わっていなかったし、紅の騎士は自分が誰かを育てる事に適していないと分かっていたから好きにさせていた。
 それが何の因果か、時兎と出会っていたとは知らず――白兎が女王の騎士に選ばれたと知った時は嫉妬で狂いそうだった。
女王はそんな気持ちなど気にした様子もなく告げる。
「時兎は何度も顔を見せよと通達しても理由をつけて城に来ないからの。
白兎を見たときは嬉しかったぞ、これでわらわも多少は時兎に会えない寂しさを緩和できるというものだ。
さて、紅。お前はこれで王の騎士に専念できるが、どうだ。王の側で王の身を守ってくれるか?」
「いいえ。俺はあなたの騎士を止めるつもりはありません。引き続き、兼用します」
 俺は女王の騎士になる為にここまで来たのに、なんて酷いことを言うのだろう。
俺の気持ちを分かって、どうしてあなたはそんなに他の誰かに夢中なのか。ああ、女王に好かれている何もかもが気に食わない。
 時兎など、一生来なくて構わない。王など元から守るつもりもないし、必要とすらしてないだろう。
俺にはただ、あなたさえ居ればそれでいい。


 とうとう一向に来ない時兎に対して女王が来ないならこちらが出向くと通達した数日後。
恐れ多いので後日、顔を見せに伺いますからどうか城でお待ちくださいと返事が来た。
 記憶と変わらず澄ました余裕のある美人――時の魔女とされる時兎は女王の会いたかったというアピールにも馴れた様子であしらっている。
 気に食わない。睨んでいる事に気が付いたのか、時兎は冷ややかな視線を此方に向けて、静かに場を弁えろと示した。確かにそれは正論だ。
 他愛ない会話を交わして退室しようとする時兎に泊まっていけと命じた女王に何度目かで応じた時兎を案内すべく、紅の騎士は肩を並べていた。 
 見るからに時兎は面倒そうにこちらをみやって、仕方なく歩き出す。その涼しい顔が少しでも歪めば気が晴れるかと嫌味を吐き捨てたのは半分本音。
「……いっそ犯して俺の虜にしてやろうか、時兎さん」
 苦笑いを浮かべた時兎は紅の騎士を物好きだと言わんばかりに返したが、実のところ彼女は男女問わずモテている。
 あの女王ですら無下にされても許している事からも察するだろうに、時兎は気にした様子もない。
「あんたは自分の魅力を自覚してみた方がいいかと思いますが」
「私の魅力――ねえ。異性よりは同性にモテるようだとは自覚しているよ」
 自覚があったのか。だったらせめて口調だけでも女性らしくしてみたらどうかと告げてみた。
あっさりと彼女は冗談めかしてはいたが、自然と女性らしく――いや、女性らしいのは間違いないのに例外の芋虫という名前で前置きされたので困惑はしたが――返した。
 あの口調は芋虫くんだからこそだと続けた彼女は、もういつも通りだ。口調を変えたところで、らしくもないだろうと時兎は紅の騎士に向けて続ける。
「それともきみは、女らしい私を見てみたいのか」
「……見られるならば、見せて欲しいものです」
 何事にも見透かしたような時兎が女として乱れる姿は、妖艶だろう。例え女王にしか興味のない紅の騎士でも、手を出してみたいと思うくらいには。
 見つめあう、視線。冷ややかな眼差しは探るように見据えていて、数秒。
「やれやれ、私を初めて口説いたのがきみとは私も運がいいのか悪いのか。生憎と残念ながら、私は遊び相手には向かないよ」
 あしらう言葉が時兎から出たかと思いきや、次に予想だにしない告白。
「何せファーストキスもまだだからね」
「………………、はい?」
 思考が追い付かなかった。なんといったのかすら把握出来ないままに時兎は続ける。
「そういえば初恋もまだの、非常に重い処女だけど。それでも見たいかい?」
「嘘、でしょう」
「本当だよ。きみが変な雰囲気にするから私が恥ずかしいカミングアウトをする羽目になったじゃないか」
 まるで嘘みたいな話だ。しかし、目を逸らしている姿から察するに、嘘をついているようには見えなかった。
 何十年とも何百年とも生き続けている時の魔女とされる女が、恋愛沙汰に初だとは、信じられない。
 酸いも甘いも噛み分けて飽きているからこそ達観しているのだと思っていたが、まだ誰にも許していないからこその高潔さだったとは――
「そしてどうしてきみまで照れてるんだよ紅くん、余計に恥ずかしいんだけど」
「え? あ、すいません、……意外でしたものだから、つい」
 拗ねたようにこちらを睨む姿が、可愛い。女王へと抱く気持ちとはまた違った、新鮮な感覚だった。
 自然と頬が緩むのを、彼女はバカにされていると思ったのか拗ねた表情のまま口を開く。
「きみも軽々しく口説いてくれるな。きみが好きな最愛は女王様だろう、好きなら最愛を貫くのが愛だぜ紅くん。
浮気でもして情が移ったなんて事態になったら困るのはきみだ。私はきみが苦手だし、きみは私が気に食わない。以上!」
「……ええ、そうですね。ふふっ、はははっ――ああもう、可愛らしい反応をするあなたは俺だけの秘密として内緒にしておきますよ」
 本当に、他の誰もが知らない魔女の一面を知れたのは秘密だ。勿体ないから誰にも言うつもりはなかった。
 もう少しからかってみようかとも思ったが、時兎はもういつもの表情に戻っていて、見透かしたような言葉を告げる。
 私に嫉妬している暇があるなら女王にアピールしろだって? そんなことは既にやっているし、やり終えているし、やっても効果はない。
 それが出来れば。割り切れれば俺も嫉妬なんてしない。好きだからこそ、あの人が俺の方を向いていないのが分かるのだ。
 誰よりも近くに居るのは俺で、誰よりもあの人を愛しているのは俺なのに――そんな風なことを気がつけば吐き出していた。
 時兎は紅の騎士の言葉に諦めたような、何もかもを見知った態度で、それに答えた。

「まあ、それが役持ちの業だ。きみの気持ちはさっぱり分からないが、好きなら好きな人の幸せを願うのが理想じゃないかい?」
 綺麗事を言ってくれる。それが出来ないからこんなに苦しいのに、この女にはそれが分からないようだ。
 そして、流してしまいそうになったが役持ちの業――と、彼女は確かにそう言った。役持ちの、業とはどういう意味だ?
 尋ねれば無意識だったようで女王や王から何も聞いていないのかと言いかけた時兎は失態に気付くと言葉を止めた。
「――ああ、すまない。今のは私の勘違いだ、紅くん、時兎と役持ちをやっていた名残で混ざってしまったらしい」
 だとすればそれはそれで問題だ。普通ならそれで納得してしまえる自然さだったが、紅の騎士には見逃せない理由があった。
「では、時兎には業があるという意味だと捉えますよ」
 時兎は紅の騎士が譲らないと察したのか、小さく肩をすくめると歩き出した。
「こんな廊下で話す話題じゃないからね、私が泊まる部屋に案内してくれ。そこで話してあげるよ」
 そして彼女の――時兎の話を聞いた紅の騎士は、呪いの存在を知った。
 時兎の死なない理由とはつまり、呪いなのだと。他にも話していた気もするが、言われたところで理解は出来ない話だった。
 ただの物語を根拠に役持ちと騎士の関係を語るにしても意味が分からないだらけだ。そんな紅の騎士の気持ちを知ってか知らずか時兎は続けた。
「まあ、いきなり呪いと言われてもピンと来ないのも無理はない。死なないならむしろ利点で祝福だとも考えるだろう。きみみたいに、前線で戦う者なら尚更に。
だが、不老不死ではないんだよ、死なないだけでちゃんと年は取るし、身体は衰える。次代の兎を引き継ぐ者が居ないなら、生き続けなければならない」
 それを冗談だと笑えなかったのは、語る言葉が重いからだ。魔女として生き続けているという彼女は、一体どれだけの時間を生きてきたのか。
 言っている言葉が事実なら、彼女は今までの生涯で死ねないままなのか。しかも身体の限界が来ても老いたまま生き続けた時もあった、と。
 にわかには信じがたい話だが、確かにそれは呪いだろう。今の彼女が何人目かは分からないが、若々しい理由にも納得がいった。
 つまり、魔女は身体を代えて生き長らえているのだろう。そう解釈した。
「私はたまたま痛みも傷も残らない体質だったが、今までの時兎の中には痛みも傷も残るのに死ねない体質という人も居てね、正直。きみに刺された時は怖かったよ――あれは痛いだろうね」
 だが、その認識は違ったようだ。他人事のように語る彼女が意識だけを延々と他の適正のある身体に受け継ぐ存在ならば、そんな物言いはしない。
「きみや他の周囲は、私が何十年も生き続けているように見えているだろうし、先代の時兎が居た記憶もないだろう。だからこそきみは私にためらいなく剣を向けたのだろうが、」
 ……つまり、どういう事だ?
 紅の騎士は困惑しながら、彼女が今更に初対面で剣を突き刺した事を責めているらしい事に気付いた。
「悪かったですから何度も蒸し返さないでくれますか。若気の至りです。女王しか目に入ってなかったんです、今も女王至上主義なのは変わってねぇですけど」
 話の半分も理解は出来ていないが、とりあえず謝っておいた。まあいいかと時兎は妥協して、これで話は終わりだとばかりに締め括ろうとする。
「信じるかどうかはきみに任せるが、まあ。業と言ったのはそういう意味だよ紅くん。時兎の私がそういうものだから、役持ちにも何らかの業とやらがあるのかも知れないなといった、可能性の話だ」
 可能性の話。紅の騎士は何となくだがここでようやく今の彼女が時兎という呪いを引き継いだ、何代目かの時兎なのだと把握した。
「……あんたは、ダイヤも兼任してやがりましたが、ダイヤの時はどうだったんです」
「ダイヤの時は――――異性に全く興味がなかったかな? ああ、だからといって同性が好きだった訳でもないよ。
好きだという恋愛感情自体がそもそも欠落してしまったようでね、私に浮いた話がないのも、きみに語ったように恋愛経験がないのもそれが影響してるのかもしれないね」
 あっさりと、彼女は語ってくれた。時兎という死ねない呪いを背負い、更には恋という自由まで奪われた事を、何でもない事のように。
 それでどうして澄ました顔が出来るのか。どうして自分がと憤らないのか。どうして――
「どうして、笑ってやがるんですか」
 何故か紅の騎士から出たのはそんな台詞だった。怒っていい筈だ。そんな理不尽は御免だと他の誰かに押し付けたって、誰も彼女を責められない。
 誰かに助けを求めたって良かったのに、なぜそれを背負って笑えるのだ。
「どうしてきみが苦しそうな表情をする必要があるんだ。きみには関係がない話だ、同情なら必要ない」
 同情? 同情しているのか? そうだとして、何が悪いのか。こんな話をされて平常で居られる方が可笑しい。
「私はこれを当分の間、引き継ぐつもりはないし、どうせ私という時兎は忘れられるんだ。だったら呪いが解ける方法を動ける間は探してみるさ」
 彼女はまるで、自分に頓着していない。一人で背負うと、一人で平気だと――誰にも助けてとは、言わないのだ。
「――――っ、ざ、けるな」
 流してくれて構わない。話はこれで終わりだと告げた時兎に、紅の騎士は詰め寄っていた。
「だったら、あんたはどうなるんだよ、時兎」
 これ以上は話さない。そう決めたらしい時兎は小さく苦笑いを浮かべた。紅くん、きみの気持ちは気のせいだ、と否定した。
 ダイヤの役は魅了も兼ね合わせていた。蜥蜴くんも今のきみも、魅了に惑わされているだけで、本気で私を好きになった訳じゃない――と。
 時兎には、紅の騎士がそれに惑わされているようにしか見えないらしい。
 そんな風に、自分がどうなろうが他人には関係なくて、それで誰がどう思うかも気にしていないのだ。
時兎の見透かしたような言葉は、酷く胸に突き刺さった。
 

 時兎とそんな話をしてから、紅の騎士は無性に苛立ち、廊下を歩いていた。目的地は決めていない。決める余裕もない。
 行き止まりなら曲がればいいし、道が無くなればそこでいい。自分でもどうしてこんなに苛立っているのか分かっていない。
 女王以外に一時でも心を動かされたのが気に食わないのか、時兎に自分の気持ちを知った風に語られた事にか。
 或いは――その全部か。


「……あら。珍しいですね、お一人ですか」
「……元ジョーカー、何の用かな。俺は今、余裕がない」
 ふと、たまたま前を歩いていた元ジョーカーの使用人に声をかけられた紅の騎士は短く返す。
 地味で凡庸な、特に目立つところのない彼女が元ジョーカーだと分かったのは彼女が王子と姫の教育係だからだ。
 よく顔を合わせるし、伝達もする。だからこそ今は何を言われても頭に入らないと示したのだが、彼女は眼鏡の奥の瞳を閉じないまま小さく微笑んだ。
「余裕がないのはいつもの事でしょうに。だからあなたは詰まらない男なのですよ」
「きみこそ、よく王の元へと通っているようだね。詰まらないのはあの男だろうに」
 互いに遠慮はなく、互いに相容れない。紅の騎士は女王に心酔しているが、王は憎らしくて仕方がない。反対に、使用人の彼女は王に魅了されており、女王には然程の興味がない。
 それで仲が良い理由がなかった。
「紅さん、私はあなたが嫌いです」
「そうかい。俺もきみが嫌いかな」
「ですが、その実力は認めています」
「それは俺も同じだ。――それで?」
 互いに実力は認めている。そして互いに警戒していた。こんな雑談をしに彼女が呼び止める理由はない。
他に本題があるのだろうと促せば、彼女は静かに目を細めた。
「時兎さんとどんなお話をされたのか、教えて欲しいのです」
「……教える義理はない」
 意外な申し出だった。しかし、紅の騎士は断った。何の理由があるかは知らないし、どうでもいいが、聞きたいなら時兎に聞けばいいだろうに。
「さっきも言ったが、俺は今、余裕がない。話が聞きたいなら時兎に聞きにいけばいい」
「それは困ります。できる限りのリスクは減らすのがベターでしょう、彼女に聞いたところで怪訝とどうしてそんな話を聞きたがるのか警戒されるじゃありませんか」
「俺とどう違うんだ」
 時兎には警戒されたくなくて、紅の騎士なら構わないのか。相変わらずこの地味な使用人の考えは分からない。
とはいえ、何を企んでいるのかは気になるところだ。
「きみが何をしようが興味はないが、俺ときみの仲だろう。答えたら当然、きみが何をするつもりかは教えてくれないと割りに合わないと思うんだけどな」
「あら、あなたが私の意見を聞こうとは珍しい。これは期待できそうですね」
 彼女は表情ひとつ変えないままで、目的を告げる。

「私は王の役持ちを、解きたい。それだけですから」

 それは奇しくも時兎と同じ、或いは紅の騎士が願った、共通の目的だった。


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