chapter2ー17『それぞれの夜』

終末アリス【改定版】



 
 城内は静けさに包まれていた。未だ意識を失ったまま目覚めないナナシと隣のベッドで安静にしていなければならないスペードの王が居る医務室は互いの吐息が聞こえそうな程に静寂だ。
 干渉出来ない役持ちの呪いは、着実に体と精神を蝕んでいる。世界がどうなろうがどうでもいいと、本音を隠さず晒すならスペードの王はそう思っている。
 父親も同じだったのだろう。先代スペードの王は強く、逞しく、精悍な理想であったのに、この下らない役のせいで干渉出来ない立場を強いられていた。
 あの父親ですら、抗えなかったのだ。だからスペードを継いだ王子は全てを諦めて見下してスペードの王になった。干渉出来ない立場を甘んじて受け入れながら、機会を待っていたのだ。
 母親の償いは勿論のこと、誰にも知られず、暗殺された父親の仇がようやく姿を見せたのだ。これを逃せば次はない。
 世話係にして教育係の女は、顔色ひとつ変えずに真実を語った。スペードの王は、あなたの父親は暗殺されました。今からあなたがスペードの王です。と。
 誰に殺された、と聞けば、女は答える。
『あなたなら語らずとも分かっているでしょう? まあですが、報告も義務の内になりますか、では簡潔に。スペードの王を暗殺したのは、恐らく紅の騎士ではないかと』
 柔和にして穏やかな、ハートとスペード兼用の騎士。常に母親の傍らに控えていたあの男が、父親の仇。それを知りながら女は平然と告げた。
『仇討ち――など無駄な考えはなさらぬように。あなたではあの方に敵わないのは明白でしょう、あなたはスペードを継ぐべき唯一の王子なのですから、それ以外の選択肢などありません』
 あぁ、そうだろう。それ以外の価値を、それ以上の価値を、求められたことなど一度もない。ただの呪いを引き継ぐべく、生かされているだけだ。
『とはいえ、あなたの意思など関係なく既にあなたはスペードの王。妹君もハートの女王となりますが、まだ幼い妹君では中途半端で未熟ゆえ、その足りない部分も兄であるあなたに引き継がれるのでしょうか』
 そのようだ。それが原因かはさておき、唯一の話し相手だったチェシャ猫との縁は切れた。代わりに騎士を見つけられたのは、だから不幸中の幸いといったところだろう。
『ふふ、あぁ――失礼。やはり私の見込んだ通り、あなたは王に相応しい。屈辱にも尚、その真紅の瞳には憤怒が宿っているのですから、嬉しくて』
 では、私は妹君にハートの女王としての引き継ぎを説明しなければなりませんので。そう言い残して立ち去ったその女を、それきり王は見なかった。
 干渉出来ない役だから、誰とも関わらずに部屋に引きこもった。知ってか知らずか、騎士になったジャックはヘラヘラとしながらも会いに来た。
 二年間、ほとんど部屋に引きこもったままではあったが人知れず、スペードの王は調べていたのだ。
調べる範囲に限度はあったが、紅の騎士と蜥蜴の目的を考える時間はたっぷりとあった。
判断材料に欠けるので断定するには至らなかったが、実際に対峙し、話した事でおおよその推測は出来た。
 アリスが迷いこんだからこそ、干渉出来ない呪いは歪み、ああして最悪な形ではあったがスペードの王は動けた。もう一人のアリスことナナシが姿を現した事も、要因だろう。
 厄介者であると同時に、役持ちの厄ですら彼女たちの存在で揺らぐ。悔しいが、あのアリスが居なければ王は今でも部屋に引きこもったままで居ざるを得なかった。
「……意識はあるか、女」
「……生きてるのね、私」
 返事は期待していなかったが、ナナシからは一人言のような呟きが聞こえた。いつ意識を取り戻したのかは知らないが、あのアリスと同じく悪運も強いらしい。
 王はナナシを静かに見返すと、彼女の頬に手を伸ばした。何のつもりかと、ナナシは無言で王を見つめる。
「ナナシ、と言ったか。どうだ、俺と手を組むつもりはないか」
「……互いに怪我人が手を組んで何が出来るというの」
「お前は俺の側に居るだけで構わん。代わりに、お前とあの蜥蜴を見逃してやる」
 見逃す? 初対面で殺そうとしてきた男の言葉にナナシは意図を探る。蜥蜴のビルと何よりナナシを嫌い、排除しようとした彼が何故そんな事を言い出したのか。
 基本的に無関心ではあるナナシだが、この件に関してはチェシャ猫に付き合わされて傍観していたので嫌でも事情は知ってしまっている。
「そう、あなたは、あの優男をそうまでして殺したいのね」
 思い返せば王は、ビルよりも紅の騎士を警戒していた。最初から――あの男が敵だと見なしていた。と、なると納得は出来る。
 そして、ナナシの見てみぬ振りをしてきた感情を知った上での取り引きだ。干渉出来ない役持ちの彼は、役に介されないナナシを側に置くことで何とか制約を緩めたい。
 ナナシは晴れてビルと共に二人きりで一緒に。逃亡などせずとも堂々と暮らしていける――そういう意味なのだろう。
「…………いいわよ、手を組むわ」
 承諾した理由は、見逃す条件に惹かれたからではない。
 これでビルと一緒に居られるのねといった脳内花畑の恋愛感情は、無意識に含まれていたとしても――それだけが理由ではない。
「私もあの優男は、気に食わないから」
「――気が合うな。お前が蜥蜴の女でなければ、求婚していたかもな」
「あら、私は構わないわよ。別にビルと付き合ってもいないもの」
 互いに軽口を交わしながら、協定関係は成立した。


 王とナナシが居る室内の扉の前で、芋虫は疲れた様子で佇んでいた。明かりのない廊下は暗く、静けさに包まれている。
 怪我人という点で何かあればすぐに対応できるように待機している名目ではあるが――芋虫は紅の騎士を信用していない。
 万が一、約束を破った場合に狙われる可能性が高いのは何らかの事情を知る王と、鍵になるナナシだと思ったからこそ、ここに居るのだ。
 眠りネズミは門番に預けている。アリスは帽子屋や時計屋が気にかけてくれているだろう。
 それに考え事もしたかった。紅の騎士が言っていた先代ダイヤの事だ。蜥蜴のビルと同期で役持ちを継いだのは間違いない。にも関わらず、どうしてダイヤを継いだ芋虫が知らない先代をビルが知っているのか。
 忘れているのか、と紅の騎士が言っていたように忘れているだけなら思い出せる筈なのに、記憶にない。そんな重要そうな人物なら顔は見ていなくとも噂くらいは耳にしていそうなものだけれど、そんな覚えもない。
 確かに、ビルの指摘したように。この二年間のみならず、アリスが現れなければ――きっと誰も知らないままで過ごしていただろう。
 ビルが裏切った理由も。紅の騎士との共謀も。何もかもが謎のまま次の役持ちに引き継がれていたに違いない。
しかし、逆に考えればアリスが現れてくれたからこそ、知れるチャンスだと思えば感謝しかない。
 本当に今更だけどね――自嘲を浮かべてゆっくりと目蓋を閉じた。


 王とナナシ、そして芋虫がそんな風に交渉を――或いは物思いに耽っている頃。
 寝室に戻るなり緊張の糸が切れた女王はそのまま寝入ってしまったようで、彼女の騎士であるメアーリンと上司の白兎は無言で互いをみやった。
 先に口を開いたのは白兎で、どうやら彼は彼なりに思うところはあったらしい。
「悪かったですね。俺も一応は女王の騎士でありながら、アンタに任せきりで」
「構いません。白兎さんは先代女王様の騎士から引き続き、女王様の補佐をされている忙しい身ですから――女王様を私がお守りするのは当然です」
 立場がどうであれ、実質的に女王がすべき仕事の大半は白兎が担っている。
そして芋虫も役持ちのダイヤでありながら白兎と共に幼い女王が一人前になるまで助力してくれているのだ。
 名目では女王の騎士でもある白兎だが、同時にメアーリンも騎士である理由は単純に女王のサポートをする為だ。
 先代女王は性格にこそ難があったが、非常に優秀な事実は否めない。そもそも女王が支配するこの世界に、反乱など前代未聞。いざという時の王座代理など居るわけもない。
「……紅の騎士さんに、蜥蜴のビルさんが真実を語ったとして――今更何がどうなるわけでもないんでしょうけど」
「同感ですがね、それでも――このまま中途半端で終わりもねぇでしょう」
 メアーリンには、この先に語られる話がどうであれ、女王を守る意思は変わらない。むしろ迷惑だとしか思えないし、思っている。
 対して白兎も理屈ではそうだと認識していて、だが同時に知らなければならないとも思っている。アリスが元の世界に戻る云々は最初からどうでもよかったのでそれは変わらなかったが。
「ところで、帽子屋さんの様子は見に行かなくて良かったんですか」
「アイツなら平気でやがるでしょうよ。アンタこそ、大好きなお兄ちゃんとやらの側に居たかったんじゃねぇですか」
 白兎の問いにメアーリンは苦笑い、私が側に居たところでどうにもならないですから。と返した。
「時計屋さん――、兄さんは多分、私の知らない事実を知ってるんだと思います。あの時計塔で幼い頃からずっと一緒でしたけど、二年前のちょうど裁判での事件があったその日から――」
 違和感があった。兄であるのは間違いないのに、違う人のようにも思えた。
城内に移り住むようになってからは立場も含めてメアーリンは兄の時計屋を他人のようにさん付けで呼んでいたのは、そんな違和感からだったのかも知れない。
「兄さんは、どうしてか私やジャックさんまで遠ざけるように時計塔に引きこもったんです」
「? 時計塔に引きこもってやがるのは昔からでしょうが」
「いえ、二年前までは兄さんと私もお城には頻繁ではありませんけど何度か足を運んでましたよ?」
「……俺が知らなかっただけ、ですか」
 そう言われてみれば白兎は時計屋とあまり交流がなかった。ジャックとは頻繁に会っていただけに尚更、時計屋の印象は薄い。
 勝手に引きこもりだと思っていた。ともあれ、雑談はこのくらいで切り上げた方が良さそうだ。
「そろそろ休みますか。メアーリン」
「そうですね、仮眠は必要でしょう」
 女王の眠るベッドの近くでメアーリンが腰を下ろし、白兎はドアを背凭れにそれぞれ休む体制を取った。


 さて、そんな風に白兎と妹のメアーリンに思われていた当の時計屋はと言えば、ぐっすり眠っていた。
 隣では、帽子屋に一人だと危ないから僕らと一緒に寝ようよと部屋に引きずり込まれたアリスと、引きずり込んだ帽子屋が並んでいる。
「……トッキーさあ、よく寝れるよね」
「そうね、休まなきゃならないのは分かってもなかなか寝つけないのが普通だと私も思うわ」
 帽子屋の呟きにアリスが同意する。因みに同じベッドだが、間違いなど起こる筈がないと確信した上だ。無頓着な時計屋がアリスに邪な感情を抱く訳もないし、白兎ラブな帽子屋も論外だ。
 アリスもアリスでこの二人を意識するだけ無駄だと既に悟っているし、第一、そんな余裕はない。これがジャックと三月ウサギなら丁重にお断りしたけれど。
「……うん、きみもやっぱり何て言うか、僕らを異性だと思ってないよね」
「だってあなたは言うまでもなく白兎と三月さんにしか興味ないじゃない。時計屋さんに関してはもう諦めてるわ、意識したところでどうとも思ってないのは明白だもの」
「…………」
「それとも、私、邪魔だったかしら」
「いや、むしろ僕は別にアリスちゃんに全く興味ない訳じゃないよ? 可愛いとは思ってるし、何なら付き合っても楽しいだろうなとも思ってる」
 帽子屋の意外な評価にアリスは驚いたが、社交辞令だろうなとすぐに分かって苦笑う。気を使ってくれるのは嬉しいけれど、その可能性は限りなく低い。
「ありがとう。でも、どうせならメアーリンちゃんやネムちゃんに言われたい台詞かな」
 性癖は普通だと自負しているアリスだが、このワンダーランドの住人に限るなら相手は異性じゃなくていい。むしろ同性だろうが一緒に居て安心出来る人がいい。
 より正確に言うなら、言われたいではなく、アリスが恋愛対象として選ぶならといった意味も含んでいたので言いたいとした方がニュアンスとして正解だろう。
「………そっか」
 僕らも人のことは言えないけど、きみもかなり変態だよねと帽子屋は沈黙の間にそう突っ込みながら、指摘しない優しさで流してあげた。


 一方、門番とトゥイードル兄弟の方は預けられた眠りネズミを一人ベッドに寝かせた上で誰が見張りをするかと睨み合っていた。
 じゃんけんで一人抜けした門番は早々に眠っていて、残されたトゥイードル兄弟は何故か終わらない十回目の勝負に突入している。
 普段は双子だけど性格とか正反対だからというくらいに噛み合わない癖に、どうしてか今回に限っては同じ血を分けた遺伝子の驚異的なシンクロが意図せず発生した。
 グー、チョキ、パー。何れを出してもあいこでしょ! とは。眠りネズミを起こさないように無言で続けてみても決着は着きそうにない。
 こうなれば両手で勝負だとやってみたが、こちらもあいこ――勝ったと思えば両方同時だったりするので双子のいがみあいは続く。
 もう後は互いに武器を構えて外で決闘だと出ようとしたところで気配を察した門番が殴り倒した。ええ加減に寝とけボケ、と結局は門番が見張りに行くことになったのは余談だけれど。


 そして――元凶の二人。蜥蜴のビルと紅の騎士は城内の部屋の一室で特に気負わず他愛ない会話を交わしていた。
 二人の見張りを任された三人――チェシャ猫とジャックと三月ウサギは会話すらしていない。
 むしろチェシャ猫は部屋に入るなり構わず後は宜しく。交代の時間になったら起こしてと告げて眠ったので、顔を見合わせたジャックと三月ウサギは仕方なく二人で見張る事にしたのだが、
「おや、きみたちは休まないのか? 見張りならどちらか一人でいいだろう」
「紅の君。二人はあなたと話したくはないようですよ。勿論、私とも話すつもりはないでしょうけれど。いや、それにしてもきみ達はそんなに険悪でしたか? 普通に話をするくらいには仲良しだと思っていましたが」
「あれだよビルくん。同族嫌悪だよ。俺も覚えがあるからねー、ジャックくんの気持ちはよく分かる」
「それは意外ですね。紅の君が苦手とする相手はどなたです」
「ビルくんのー、そういうデリカシーのないところが嫌いだなー」
 三月ウサギは薄笑いでそれを冷ややかに見つめ、ジャックは聞き流している。
二人が何を言おうが基本的には興味がない三月は元より、自分にとっての大切な人物に危険がないなら軽く流せるジャックは確かに二人の見張りに適任だった。
 そして気儘に寝ているチェシャ猫にしてもそれは同じだろう。
「俺が指定しといてなんだけど、からかいがいのない面子だよね。帽子屋くんなら挑発にのってくれるだろうし、時計屋くんなら何だかんだで応答はしてくれるだろうに。芋虫くんは……うん、すっげー睨まれそうだなー」
「それを見越した面子を選ばれたのは貴方でしょう。多少は自身の忍耐の無さを自覚しておられるようで私としては成長されたと思っていますが」
 因みに、年齢は紅の騎士が上だ。少なくとも紅の騎士は三十代――蜥蜴のビルは二十代後半である。
「…………なあ、ビルくん。きみなら知っているんだろう」
「何をでしょう」
「俺が彼女を思い出した理由だ。あの瞬間まで忘れてたのに、どうして急に浮かんだのやら」
 彼女。紅の騎士の告げた人物についての話は、後に語られる。ビルはさあ、と変わらない無機質な声で呟いて一度瞼を閉じた。
 綻びは生じた。アリスが何かの切っ掛けになったのは間違いないのだ。誰もに忘れられた彼女を、紅の騎士が僅かでも思い出したのが確証だ。
 まだ完全に役持ちの呪いは解けていない。しかし、着実に進んでいる。紅の騎士まで出てきてしまったのは本当に誤算だったが、物語は順調といって差し支えはなかった。
「役者は、裏方を知らなくていいと私は思うのですがね」
 役から外れた裏切り者は誰にともなく呟いた。


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