chapter2ー15『一時休戦だ』

終末アリス【改定版】



 
 白兎と帽子屋は幼馴染みである。が、実は帽子屋は白兎の過去を知らない。
一体どこで生まれ育ち、どんな両親から彼が生まれたのかすら知らない。
それもその筈で、白兎自身もある時からの記憶しかなく、これまでどうやって生きてきたのかすら覚えていないのだから当然ではある。
 では、白兎が思い出せる記憶とはと問われれば育ての親である紅の騎士との出会いだった。
何もない世界で、不意に現れた綺麗な金色――実際には薄い茶色の髪をした青年なのだが、太陽に照らされてきらきらと光る様は金色だった。
 柔和な微笑みと優しい声音でどうしたんだい、こんなところで。と声を掛けられたのが始まりである。
 何も答えられない白兎に、紅の騎士は数秒考え込むように目を細め、行くところも戻るところも、住む場所すらもないのならどうだい。と続けた。
『俺と一緒に来るかい? きみは白くて綺麗だから、きっとあの人も気に入ると思うな』
 そして、紅の騎士に拾われた白兎は白兎として過ごし、帽子屋の幼馴染みとして育った。
 しかし、幼馴染みの彼を含めた周囲の白兎と紅の騎士の関係が師弟だという認識だけだったのは、紅の騎士が拾っただけだから、という点に尽きる。
 生活面でのあらゆる世話はメイドに命じていたし、必要とされる教育も、したいならば好きにさせるくらいの最低限は務めていたので全く関与していなかった訳ではないが。
 逆に言えば、紅の騎士は育てた覚えも意識もなく、白兎はそんな紅の騎士に感謝を抱き信用していたという、食い違いによる悲劇がこの惨状を招いたようにも見える。
 滑稽だと、笑うだろうか。剣で貫かれて暴言を吐かれても尚、白兎はまだ紅の騎士を敵だとは思えない。
 恩義も信頼もある。だから、どうしてと嘆く。

「紅の、」
「だから、そんな目で俺を見るなよ白兎」
 嘲笑する声はひたすらに冷徹で、この人はこんな風に誰かを傷付ける事すら悲しむ人なのに、と白兎は何故か無性に焦っていく。
 違和感はあるのに、けれどひたすらに愚直に信じたいとすがる。最早答えは明白だろうが。
「アンタがこんな真似をする理由は、自分だけの為じゃ、ない筈でしょう!」
「……知った口を聞くなよ。全く、  も余計なモノを残してくれた」
 紅の騎士が告げた言葉は確かに紡がれたにも関わらず、まるでそこだけ虫に食われたように聞き取れない。
 そう感じたのは白兎だけでなく、他の面々も紅の騎士が何と告げたのか分からないようだ。
「ちょっと、話が見えないんだけれど、貴方。今、何て言ったの?」
 ナナシの止血と傷の手当てを止めないまま芋虫が問えば、ああ。と紅の騎士は納得したように笑う。
「そうか、そういえば彼女は既に存在すら消えてしまったんだったっけ。あれ? だけどビルくん、きみは覚えていたよね」
 椅子に縛られたままのビルに紅の騎士が尋ね、ビルは表情を変えないままでええ、と頷いた。
続けて、私だけではないでしょうが、とも。
「勿論、覚えていますよ。何故なら始まりの物語は私が彼女に教えてもらったものであり、
彼女はーー時兎(ときうさぎ)は私の師匠であり先代ダイヤだった人ですから」
 時兎。紅の騎士が告げても聞き取れなかった名前を、ビルはあっさりと告げた。
 その名前に反応を示したのは、紅の騎士が現れる前にその名を聞いていた三月ウサギと、対峙していた時計屋。
 困惑しながら芋虫は自身の先代、ダイヤという重要な人物を忘却しているのかと記憶を探り、帽子屋は話についていけないと前髪を乱雑に乱す。
 ジャックはそんな彼等を眺めつつ、紅の騎士の隙を見据え、王は苛む呪いに耐えながら紅の騎士を睨み続けた。
「先代ダイヤ――か。どうやら全員、記憶に偏りがあるようだが、それと貴様に何の関係があるというんだ、紅。」
 問い掛けた言葉は真っ直ぐに紅の騎士に向けられていた。
 狭間の世界からアリスが戻ってきたのはまさにその瞬間であり、同時に女王と共にメアーリン達がこの場に辿り着いた瞬間でもあった。
 紅の騎士を中心に、役持ちとその騎士。役に介されない厄介者ーー乙戯アリスと死に損ないで死にかけの堂羽ナナシという異端者が揃う。
 忘れ去られた『時兎』という名前の開示と共に、待ち望んでいたかのように。

「……やれやれ、やっぱり俺は運が悪い」
 それぞれの反応と状況を一人、冷静に眺めた紅の騎士は嘆息する。その表情は憂いているようで、自嘲しているようで、けれどひたすらに薄っぺらい。
 降り頻っていた雨は止んだ。そして役者があらかた出揃ったこの場で、紅の騎士はゆっくりと目蓋を閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。
「場所を変えようか。このまま話を続けたところで、どうせまともに頭に入らないだろう」
 追い詰められてもいないだろう彼がそう提案したのは、一体何の意図があっての事なのか。警戒する面々にも構わず彼は続けた。
 視線は他の誰でもない、唯一この場では一番紅の騎士の事情を把握しているスペードの王に向けて。
「逃げないかという心配なら大丈夫だ。姫の――幼き女王陛下の前で誰かを殺すような真似を、するつもりはない。
そして、彼女が戻ってきた以上――役はまだ続いている」
 彼女――と、紅の騎士が視線を向けたのは戻ってきたばかりのアリス。
 消えてしまったアリスの姿に帽子屋を含めた面々が安堵したのも束の間で、スペードの王は先程の返答をする。
「他の連中や異端の女がどうなろうが知った事ではないが、怪我人の治癒を優先しているダイヤも、頭に血が上っている連中も、状況を把握していない妹も――俺も、限界が近い」
 言われて確かに、それはその通りである。芋虫は苦々しくナナシを抱き抱え、合流したメアーリンと共に医務室へと向かう。
「だが、忘れるなよ紅。貴様が逃げれば、俺は容赦をしない」
「そうだろうね。だから、俺の監視は――三月ウサギとジャックくんとチェシャ猫くんの三人体制にしていい」
 名指しされたのは、この場で戦力的な意味でも判断的な意味でも的確かつ冷静な三人。交代すれば休めるし、逆に紅の騎士は迂闊な真似を出来ない。
「…………分かりました。一時休戦。その言葉を信じます」
 決定権はハートの女王にある。そして彼女はそれを受け入れ、各自身体を休めるように告げた。
 重要参考人である紅の騎士は大人しく従い、ビルもまた抵抗はしなかった。
 白兎だけは一人にしてくれとその場に残り、それを気にしながら帽子屋は声を掛けなかった。代わりに帽子を目深に被り、唇を噛み締める。
 そんな帽子屋を眺め、スペードの王を支えたジャックはいいのかよと三月ウサギに目配せをした。
 三月ウサギは帽子屋より時計屋に意識を向けていて、ジャックの目配せに気付くなり、いいんだよと薄く笑い返す。
「むしろ、慰めるなら俺よりお前が適任だと思うけど」
「は? 何で帽子屋を慰め適任がオレなの。フツーにお前だろ」
「俺の最愛は時計屋、帽子屋の最愛は白兎。つまり最優先じゃない」
「…………お前って、本当にオレの神経を逆撫でするよなあ」
 ギシ、と互いに嫌悪を撒き散らす二人に支えられていたスペードの王が後でやれと吐き捨てた。
 時計屋はそんな雑談を気に止めず、思案しながら後ろに、結局ボク逹って無駄足だったんじゃね? とトゥイードル兄弟。無言の門番が続く。
 既に彼等より先に進んだメアーリンと芋虫、ナナシは元よりハートの女王もこの場から離れている。
 残ったのは、アリスと白兎。そしてアリスの側に居るチェシャ猫のみとなった。

――――――

 アリスの記憶は紅の騎士との邂逅の後に会ったビルによって狭間の世界に落ちた為、そこから先の話を何も知らない。
 彼女のお陰で自らの家族を思い出したが、それだけで、彼女が語っていた姉についての記憶はまだ完全に戻ってもいない。
 対する白兎は育ての恩義を感じていた紅の騎士によって裏切られた感傷をもて余し、平静ではない。
 状況は明白だというのに、どうしてか信じたいと思う。だが、本能は認めろと囁いていて、記憶と感情がごちゃ混ぜになる。
 全てを傍観していたチェシャ猫は相変わらず笑みを張り付けたまま、何も語らない。
 干渉出来ないように蝕まれているスペードの王のように、何らかの制限があるのか。
それとも面白そうか否かで黙っているのかすらも分からない。
 沈黙を破ったのはアリス。
「ねえ、白兎」と口を開き、何が起きているのかは後回しに、アリスは尋ねる。狭間の世界で見た、名も知らぬ彼女について。
「時計塔で出会った、黒髪の女性を、あなたは知っている?」
「時計、塔?」
 聞く耳を持つ気はなかった白兎だが、引っ掛かるものを感じて聞き返す。
記憶が正しければ、時計塔には顔見知りの時計屋と彼の妹であるメアーリンしか居ない筈である。
 ワンダーランドに来て間もないアリスが過去に誰が居たか等、知っている訳もないし、これまでの経緯を知る由もない。
「小さい頃に、あなたはそこでその人に、多分だけど勉強を教えてもらっていた、よね? 定期的に。二人きりで、」
「…………そんな記憶は一切合切ねぇんですがね。白昼夢でも見やがりましたか」
「……その人は紅の騎士とも顔見知り、だった。でも、どうしてか、その人を紅の騎士は――あの人は、殺した。
あなたは、殺されたその人の死ぬ間際に駆け付けてた、はずだけど」
 しかしアリスは続ける。白兎の記憶にない、そんな話を。居たかどうかすら分からない人物の末路を。
 よりにもよって、紅の騎士に関わる形で。
「――そんな記憶は、ねぇと言った筈だ」
 仮に居たとしよう。だが、ならばどうして誰もが忘却している?
 時計塔に居たならばそこに住んでいた時計屋が忘れる筈がないし、そんな関わりがあったら白兎もとっくに思い出している。
 先程の語られた先代ダイヤでもあるまいし、と。
そこまで考えた白兎は強烈な頭痛に眉をしかめた。まるで考えるなと警報を鳴らしているようだ。

「私も、家族のことを指摘されるまで――忘れてたの。だから、もしかして紅の騎士は、人の記憶を消してしまえるんじゃないかしら、って」
 大切な人の記憶を消す。消す事で彼はアリスをワンダーランドへ招く事が出来たとするなら、辻褄は合うのだ。
白兎も記憶を消されているのだとすれば、紅の騎士に逆らえない理由も、彼女を忘却している理由も、説明が付く。
 だから、誰もが忘れてしまっている。紅の騎士が邪魔になる彼女に関する記憶を消したから。アリスはそう推測した。
「どうやって私をこの世界に呼んだのかは分からないけど、記憶を消した人物をある程度自由に操れる
――そんな特殊能力があるのだとすれば、あの人が余裕だったのも頷けるよね」
「…………」
 成る程、仮説としては面白い。有り得ない話ではない。
白兎はアリスの話と今までの情報を照らし合わせて思った。そう、その可能性とて有り得るのだ。
 話し合う二人を、少しだけ離れた位置で眺めていたチェシャ猫は張り付いた笑みのまま、ゆらりと尻尾を揺らす。
「生憎と、そんな真似が出来るなら紅の騎士はとっくに逃亡してるだろうし、アリスを呼び出す手間暇かけてビルと協力もしないだろうね」
 口を挟んだチェシャ猫の言葉にえ? とアリスは見返し、白兎はだったら説明しやがれと視線を向けた。
「テメェはいつも見透かしたように言いやがりますが、だったら傍観なんざ止めてさっさと率直に知ってる全部を吐きやがれ」
「相変わらず口が悪いなあ。とりあえず、俺にもアリスの言う人の記憶はないけれど。
今のところ、先代ダイヤと同一人物だというのは間違いないだろうね」
「……チェシャ猫――お願いだから知ってるなら話して欲しい」
「うん? どの話を知りたいんだいアリス。きみが消えてからの話かな、
それとも先代ダイヤの話かな、それとも、最初に聞いた白兎の死なない理由かな?」
 ニヤニヤと尋ねるチェシャ猫に悪意はない。
ただの純粋な疑問であり、知りたいなら答えてあげるという善意でしかない。
アリスにとっては頼りになるチェシャ猫だが、実際はどうなのだろう。
 面白ければいい。面白くなければ助言する。ジョーカーは公平であるべき役持ちだというのに、彼は自由に振る舞っている。
スペードの王のように制限が課せられているようにも見えない。
「…………っ、チェシャ猫――あなたは誰の味方なの」
 疑心が募り、暗鬼が巣くう。得体のしれない恐怖を振り払いたくてアリスは聞いた。
チェシャ猫は一体何がしたいのか。誰の味方なのか。
 対するチェシャ猫の答えは、「どうなんだろうね」という曖昧なものだった。
「アリスの味方だというのは、簡単だよ。多分だけど、俺は今のところきみに一番興味がある。
ぶっちゃけてしまえば、俺の継いだジョーカーは既にビルが言ってたように役として機能していないようなものなんだ」
「それって、どういう意味なの?」
「つまり、本来なら俺はこうして語る事は出来ない。公平であるべき役は、確かに王のように干渉出来ないほどの制限はないけれど、誰かに肩入れ出来る自由はないって意味だよ」
「……説得力に欠けやがりますが、それはナナシやそこの女が例外なだけの話じゃなくて、ですか」
 白兎の問いに、それもあるんだろうけど。とチェシャ猫は笑う。いつもと変わらない無感情さは損なわないままで。
「俺も最初はそう思った。ビルは役から外れたんじゃなくて、異世界から来たもう一人のアリス
――ナナシだけが例外なだけで実はまだ厄に縛られたままなんじゃないか。
でもそれだけなら、ビルは裏切れないし、俺はナイトメアに関われない」
「――っ! 笑い猫、だったら尚更! どうして今までジョーカーの役持ちを装ってやがったんですか! 
テメェがもっと早くそれを知らせていやがれば、こんな風になる事は、っ」
 胸ぐらを掴んだ白兎は憤る。ジャックもチェシャ猫も、知っていながら何も言わなかった結果がこの有り様だ。
アリスが来なければ知る事もなく、また語られなかっただろう話だけれど。
 そんな今更の追及をしても仕方がないと頭では分かっていながら八つ当たりをする白兎に特に言い返すでもなく、チェシャ猫は静かに上空を見上げた。
「俺が形だけでもジョーカーを継いだのは、ビルにとってのナナシのように、
俺にとってのアリスがいつか現れるかも知れないと思ったからなんだけど」
「私?」
「そう、きみだ。きみなら俺は、この退屈から抜け出せると思った。ビルの世界が塗り替えられたように、俺の世界も変えてくれるんじゃないかと期待した」
 それはまるで愛の告白のように。
「何にせよ、今は身体を休めた方がいい。白兎もアリスも、俺も。
紅の騎士が全てを語るかは分からないけど、徹夜して寝不足の頭で話を聞いても詰まらないだろう」

 まぁ、好きにすればいいと最後に言い残してチェシャ猫は姿を闇に消した。
何となく顔を見合わせたアリスと白兎も城へとようやく足を向ける。
 インターバルは必要だ。
 それはあの紅の騎士とて例外ではなく、それぞれの一夜を明かした翌日にまた続きを再開するなら、確かに少しは休まなければ体も精神も保たないだろうから。


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