chapter2ー14『知らない彼女』

終末アリス【改定版】



 
 死なない兎。死ねない兎。それが白兎であり、彼が背負う『役』である。紅の騎士が告げたと時を同じく。
 奇妙な空間から扉を開け、狭間の世界から抜け出した筈のアリスを待ち受けていたのは、裁判所ーー、ではなく。
 ましてや、女王達の居る場所でもなく、最初に落ちてきた森の中ですらもなかった。
暖かな木漏れ日と心地よい静けさに包まれたその場所は時計屋と出会った時計塔の側で、あれ? とアリスは困惑する。
(ここって、時計屋さんの居た時計塔――よね? でも、何で)
 ここからお城への道中も、消える以前に立っていた裁判所までの道も分からない。
 闇雲に動けば迷うのは確実だと悟ってしまえたアリスはどうしたものかと項垂れた。宛もなく歩き回るより時計塔で待つべきだろうか。
 試しに扉を叩いてみたが応答はなく、鍵がかかっているのか開けられない。誰かが居ないものかとぐるりと時計塔の周囲を回ってもみた。
 その途中でアリスは足を止める。
 半ば諦めていたが、窓から誰かが外に居る少年と話をしているのが見えたからだ。
 中に居る人はアリスの立っている位置から見えないが、少年は白かった。頭から足元まで白く、あどけない顔立ちをしている。
 そして、その頭には白い、兎の耳。
「しろ、うさぎ?」
 思わずそう呟いたアリスの知る白兎とは、年齢が違いすぎていたけれど、似ている。
 彼の弟ーーにしても似すぎている。アリスは少年を眺め、仮に血縁でも有り得ないと思った。
 あんな純粋そうな少年が数年後は白兎のように嫌みで可愛げのない男になるとは認めたくはない。よって少年を白兎によく似た他人の空似だろうと片付けた。
 大体、いきなりタイムスリップなんてそれこそ訳が分からないからだ。
楽しそうな会話に水を差すのは悪いと思ったが、アリスは思いきって会話に乱入する。
「あの、すいません!」
 しかし、アリスの声に応答はない。聞こえていなかったかと今度は姿の見える場所まで移動して同じ言葉を投げ掛けた。反応はなかった。
 アリスの存在などいないかの如く、少年も。そして彼と話をしていた人物も、変わらなかったのだ。まさか。
 そう思いながらもそれ以外にはこの状況に説明がつかない。元よりアリスはここには居ない存在だ。
 あの場所での選択が『元の世界』ではなく『ワンダーランド』を選んでしまったが故に、この認識されない結果だとするなら完全にバッドエンドである。
 早速セーブポイントまで戻ってやり直したい。しかし皮肉にも現実にセーブポイントなんてものはない。
 リセットボタンも、イージーモードなんてものも存在しないのだ。つまり、終わった。永遠にこの認識されない結果を生きていくしかない。
「あんまりだ……」
 後悔しないことを祈ると彼女は言っていたが、これがこの結果なんだと知っていればアリスもまた考えただろうに。
 どうにかして突破口が見つからないかと目前で交わされるやり取りにを眺めてみれば、少年が中の人に勉強を教えてもらっているのだと知れた。
 生憎と何を話しているのかまでは声が聞こえないので分からなかったのだけれど。
 暫く見ていると少年はピョコピョコと兎耳を揺らして去っていく。勉強会は終わったらしいが、どうして室内にしないんだろうと素朴な疑問が浮かんだ。

 アリスは室内に居た人がどんな人物かと窓から覗いてみた。その人はゆっくりと椅子に座り、一冊の本を読んでいる。
 髪は黒。うなじよりは長く、肩には届かない高さの位置。前髪は綺麗に揃えられており、両サイドは耳にかけられていた。
切れ長の目にシンプルなシャツとスラックスという格好が似合うスッキリとした美貌の女性だった。
(うわ、頭良さそう。美人だけど凛々しい感じだし、何となく時計屋さんに雰囲気が似てるかも?)
 だとすれば時計塔に居ることから考えて時計屋の血縁関係にあたる人なのだろう。
女性は少年を見送ってから読み掛けだったらしい本の続きを読み始め、暫くまた静かな時間が過ぎていく。
 試しに何度か話し掛けてみたり、アクションを仕掛けてもみたが反応はなかったので、やはりアリスの存在自体が認識されない世界らしい。
 しかし、完全に存在しない訳ではないようで意識はここにあるように、無機物になら触れる事も可能だった。
 ただし、壊す、破る等の破壊や治す、しまう等の行為は出来ないので本当に触るだけだが。
 いっその事なら建物を通り抜ける、浮上して幽霊のようにふわふわと移動などまで出来ればこの状態でも吹っ切れるのだけれど、
逆に言えば喉の渇きや気温の暑さ寒さ等は感じないので中途半端な不幸中の幸いと考える事にする。
 とはいえ、だ。手掛かりがない八方塞がりな状況に違いはないので、アリスが出来る事は限られていた。
(とりあえず、この女の人の近くに居ようかな)
 ここに居たのも何かしら理由があるならと思い、暫くアリスは彼女と彼女に関わる人物についてを観察していく。
 最初に会っていた兎耳の少年は週に二回くらいしか会わない事。彼女が時計塔から出ない事。アリスには彼等が何を話しているのかを認識出来ない事。
 既に何日間か経過しているようだが、それもいつの間にかという認識で、時間の感覚がない。
(………また、いつの間にか次の日になってる。何だろう――私が意識してるんじゃなくて、まるで誰かの記憶が切れ切れになってるような)
 継ぎ接ぎした映画のように、積み重なっていく光景を3D映像で体感しているような奇妙な心地。
 今日もまた彼女は時計塔に居る。アリスもどうしてかここから離れようとは思わない。ありふれた穏やかな日常。

 そんな光景に変化が訪れたのは、些細な事だった。いつも来るはずの兎耳の少年が来ない代わりに、薄茶色の髪をした優男が彼女の元へやってくる。
 アリスはその優男を知っていた。地下で出会した紅の騎士。記憶が間違っていなければ彼の筈だ。
 しかし何故? 時計塔に居た彼女も不可思議だと彼を見返し、何の用件だと尋ねているようだった。
 彼から何を聞いたかは知らない。彼女は端麗な表情を僅かにしかめ、いくつかの問いを紅の騎士に投げ掛けた。
 紅の騎士も真剣な面差しでそれに答えを返し、そして去っていく。残った彼女は苦しそうに額を押さえ、どうして、と呟いたように見えた。
 そして。暗転する。夜になる。ここに来て初めての闇は、気味の悪いものだった。アリスはその変化を喜べず、むしろ不安から表情を曇らせる。
(……なんだろう、この嫌な感じ……)
 戸惑っていると、時計塔から出なかった彼女が外へと出てきたのが見えた。
 凛々しいその姿はいつもの穏やかなものではなく、殺伐として、その手には剣のような、銃のような奇妙な武器が握られている。
 しっかりとした足取りで駆け出した彼女を、反射的にアリスは追う。理由は分からないが、彼女の後に着いていかなければならないと思った。
 だが、それを阻むように何かが遮る。
――――兵士、だろうか。暗闇に爛々と目だけを輝かせて時計塔をぐるりと囲む、幾人かの兵士。
 正気はなさそうだ。掻い潜ろうにもアリスには行動できる制限がある。
「……っ、こんな時に、」
 回り道をしようかと迷っている間にも彼女は先を進んでいるだろう。
見失ってしまうよりは、と意を決して間をすり抜けようとした刹那――囲んでいた兵士達は唐突に首を失って絶命した。
 衝撃的な光景だが、更に衝撃的だったのは彼等の背後に返り血を浴びて笑っている少年の姿だ。アリスはその少年を知っている。
否ーーその少年に似ている彼を知っていた。笑いながら剣を振るい、笑いながら人を殺せる、見知った青年ーージャックにとてもよく似ていた。
だが、アリスはそれを飲み込んで。言いたいことや恐怖を押さえ込んで彼女を追う。
 人を殺して笑えるような少年に果たしてどんな事情があったかは知らないが、考えるよりやるべき事があるのだ。
 駆けて、森の中を進む。どうにか彼女に追い付いた時、その傍らには無惨に切りつけられた青年が横たわっていた。
 彼女が応急処置を施し、一命はとりとめたようだが、時間の問題だとアリスにも分かる程に青年は惨たらしい倒され方をしていた。
 切られた――というか、抉られたようなその惨たらしい様を直視できず、アリスは咄嗟に顔を背けてしまう。何も出来ない。だから目を逸らしてしまう。
 数分後、他の兵士達と合流した彼女は青年を彼らに任せて再び先へ向かう。慌ててアリスもそれに続いた。

 木々の生い茂る森を抜けて、見覚えのある場所へ。色鮮やかな赤が咲き誇る薔薇の庭――メアーリンが管理しているお城の薔薇園だ。
「………ここに繋がってたんだ……」
 恐らく、彼女と限られた人間しか知らない抜け道なのだろう。で、なければ三月ウサギやチェシャ猫が知らない筈がない。
 彼女はどこに行ったのかと周囲を見れば、月明かりに照らされる中心に立っていた。アリスに気がついたかのように彼女が振り返る。
 しかしそれは錯覚で、彼女が見ていたのはアリスではない。アリスの後ろに居た誰かを――
紅という名に相応しく真っ赤に染まった紅の騎士を鋭く見据え、武器を向けたのだ。
 目の前で銃弾が弾ける。紅の騎士は難なくそれを払いのけて、困ったように微笑んだ。微笑んだまま、ゆっくりと彼女に剣を降り下ろす。
 避ける軌道すら知っているようにその切っ先は彼女の肌を裂き、裂き、裂き、鮮血が伝う。
腹を突き刺さるかと思った剣は横腹を掠め、紙一重で彼女が攻撃をかわしているのか。それとも彼がわざと致命傷を避けているのかすら分からない。
 アリスは彼女を助けようと彼の剣の前に出るが、その剣はアリスに触れず、着実に彼女の命を削る。介入出来ない存在に、この戦いは止められない。
――――不条理だ。
 やがて。ボロボロになった彼女を見下ろした紅の騎士はその足で城へと向かい、アリスは泣きじゃくりながら彼女へと駆け寄った。

 触れられないが、介入出来ないが、だけどせめて、このまま死なせる事だけは出来なかったから。手を握る。
 虚ろだった彼女の表情が、少しだけ柔らかなものになる。死なないで、そう叫んでも声は届かない。彼女の唇が小さく囁くけれど、その言葉もアリスには届かない。
 眩しそうに、彼女は目を細め、苦々しく笑った。すぐに咳き込んで吐血した彼女の手に、アリスではない誰かの手が重なる。
 真っ白な兎耳のあの少年だった。
 彼女が少年へと語るのは、まるでいつものようで、しかしもう二度とは聞けない最後の授業である。
 死ぬんだろうな、と彼女が諦めたように瞼を閉じた。事切れた彼女は力を失い、もう二度とは動かなかった。
 少年はすがるように彼女の手を握ったまま、唇を噛み締め、間もなく不思議そうに彼女と泣いている自分が分からないと困惑した表情をした。


「…………誰だ、コイツ」
 そこで、終わる。名前を知らない女性の物語は幕を閉じた。

――――――――

 アリスが意識を取り戻したのは、かつて裁判が行われていた場所の、観客席(傍聴席と言うべきだろうか)だった。
 降り頻る雨の冷たさと、久しく感じていなかった気温の変化。未だ夢の中に居るような微睡みを覚まさせたのは隣に座っていたチェシャ猫の声。
「おかえり、アリス。ナイトメアの話は楽しかったかい」
 変わらない無感情な言葉とニヤニヤとした笑みでチェシャ猫はアリスを覗きこむ。
 この雨の中で一体いつから居たのか。チェシャ猫はぐっしょりと濡れていた。
ぼんやりと見返せば、チェシャ猫はそのまま言葉を続け、面白くはなかっただろうけれど、聞き応えはあっただろう。と続けた。
「アリスの居ない間にも、事態は進んでいるよ。最も、きみが居ようが居まいが結局は同じようなものだっただろうけれど。さて、どうしたい?
「あの下らない茶番にまた巻き込まれるか。それとも俺とこのまま元の世界に戻るための手掛かりを探しに行くか。
「或いは――――」「チェシャ猫」
 言葉を遮ったアリスは身体を起こしながら、チェシャ猫が言うところの下らない茶番。
 つまりは目下、見下ろす位置の中心で行われている彼等のやり取りに視線を向けた。何があったかは、知らない。
 アリスの知っている事など、限られているし、行ったところで何が出来るかも分からない。
 何だい、アリス。そう言いながら尻尾を揺らしたチェシャ猫は律儀にアリスの答えを待っている。どんな答えを告げたとしても、チェシャ猫は頷くだろう。
そうだね、それも面白そうだ。そんな理由で。
「………行こう、茶番であれ何であれ、あの人の思い通りにだけはさせたくないから」
 彼女が一体、誰だったのか。それすらも分からないが、もしあれが本当にあった事なのだとすれば、許してはならないと思うから。
 無策にも関わらず足を向けるアリスの後を、チェシャ猫は着いていく。
「そうかい。好きにすればいい、きみの物語はまだ終わってないんだからね」
 雨は止んだ。物語は、再び続く。
この下らない茶番劇に、例え観客は居なくともーー彼女は足を踏み入れる。
 最早、厄介者ではないとも知らずに。


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