chapter2ー13『騎士ならば』

終末アリス【改定版】



 
 白い床が、ナナシの血で染まる。降りだした雨はそれを薄め、そして誰もが信じられない面持ちで紅の騎士を見つめていた。
 かろうじて動けたのは真っ先に事態を認識した芋虫で、雨に濡れて体温が失われていくナナシに自身の上着を被せた。
 止血をし、息がある事を確認する芋虫と意識のないナナシを紅の騎士は柔和に見据えたまま「おや?」と声を発する。
 困ったように、たった今、人を切り捨てたとは思えないほどに朗らかな態度で彼は言う。参ったなあと。
「まだ息がありますか。相変わらず一撃で仕留めるのが苦手だなあ、俺は。あんまり痛い思いはさせたくないのにいつもこうだ」
 そう告げて、再び剣を降り下ろす紅の騎士の斬撃を受け止めたのは近くにいた帽子屋。
 帽子屋の武器である細長い針はギシと軋み、とても対抗は出来そうになかった。
 しかし、割って入らなければ間違いなく紅の騎士は無防備な芋虫とナナシに止めを刺すつもりであったと分かる力の強さが、帽子屋の背筋を凍らせる。
「っ、く」
「んん? 今度はきみかい。あんまり顔見知りを斬りたくはないんだって言った筈なんだけど――まぁ、邪魔をするならとりあえず。二度とその針を扱えないように腕をズタズタにしようか」
 突然の帽子屋の乱入は予想外だが、別にそれすらも紅の騎士にとってはどうでもいい。
 今にも折れそうな針を片腕で押し退けて弾き飛ばし、柔和に微笑んだままくるりと剣を持ち直す。
 その一瞬。三月ウサギの放った銃弾が紅の騎士に迫った。完全に狙い澄ました弾丸は紅の騎士を傷付ける事はなく、彼の剣で防がれた。
 間髪入れず、背後に迫っていたジャックの剣も蹴りで相殺された挙げ句、続く死角からの時計屋の刀も小手で受け止められた。
 刹那の攻防は見惚れるほどに鮮やかで、勢いのまま紅の騎士は足をジャックの剣ごと床に叩き付け、踏み締める。
 体制を整える合間もなくジャックは紅の騎士に胸ぐらを引き寄せられ、額と額が触れそうなほどに密着された。
「っ、」
 面食らうジャックとそれを見て何をと躊躇った時計屋の隙を逃さず、時計屋もぐいと腕の中に引き寄せた意図が、
引き金を引こうとした三月ウサギの指を止め、同時に全ての攻撃を封じる為だと知った時には既に手遅れ。
 芋虫はナナシの傷を塞ぐのに手が離せない。帽子屋の針は弾き飛ばされ取りに行こうにも動けない。
 誰かが妙な真似をしようものなら紅の騎士は躊躇いなくジャックと時計屋を盾にするし、未だ手放さない剣で斬り伏せるだろう。
 顔見知りであろうと躊躇はなく、また容易く殺せるだろう紅の騎士にその場に居合わせた面々は言葉をなくしていた。ただ唯一、王を除いては。
「流石は先代ハートの騎士にして、先代スペードの騎士なだけはあるな」
 しんと静まり返った場所に、吐き捨てる声。腹の開いた傷口の傷みと、蝕んでいく役持ちの呪いに顔をしかめながらも王は紅の騎士を睨み付ける。
 そんな王に紅の騎士はお褒めに与り光栄かなと穏やかに返した。そこには油断も焦りも隙もない。
「まぁ。俺の取り柄は野性的な勘と、腕力でね。そういう点では速さと技術が素晴らしいきみと似て異なるんだよジャックくん」
「…、そーですか、と。つか、野郎に密着されんの気持ち悪いんですけど」
「ん? 仕方ないな。どうしても嫌なら死ねばいいんじゃないかな」
 世間話のような気軽さで紅の騎士は笑う。それもこれも、彼の行動原理の全てが先代ハートの女王に注がれているが故に。
 それ以外は全てが等しく、どうでもいいのだ。だから躊躇いはなく、だから笑える。
 適当に生きているジャックと似ているようで異なる点は、純度の度合い。
 冷静で躊躇いのない三月ウサギでさえここまで無情にはなれない、故に外道。
 狂った世界で狂っているのが当たり前の役持ちの中ですら逸脱している男に、尚も言葉を連ねたのは王だった。
「紅。お前が何をするつもりか知らないが、俺の騎士に手を出すつもりなら俺にも考えがあるぞ」
「……何かな、王子」
「俺が何も知らないとでも思っているなら、それは願ったりだがな。生憎とそれを知っているという前提で言う。お前の二番目に大切なものに手を出されたくなければその手を離せ」
 柔和に微笑んでいた紅の騎士は王の言葉に静かに目を細め、ここでようやく冷ややかに王を睨み付けた。
「どうやらハッタリでもなさそうだね。本当に、忌々しいなぁ、」
 何に対しても揺らがなかった紅の騎士の、本質を剥き出しにしたような吐き捨てる声が柔和な笑顔から放たれる。
 傍で聞いていたジャックと時計屋はそのおぞましさにゾワリと身体を強張らせ、反射的に離れようとした。
 しかし紅の騎士はびくともせず、逆に二人を引き摺るように足を王の方へと向けて歩き出す。
「忌々しいとは此方の台詞だ。俺とてスペードの厄さえなければ今すぐにでも仇を討てるというのに」
 王はそんな紅の騎士の迫力に圧されず、同じく足を紅の騎士に向けて歩く。
 そこで待ったをかけたのは意外にも白兎。
「っ、ちょっと待ちやがれ! 紅の、あんたがビルと共犯者だなんざ、嘘なんでやがりましょう?」
 険悪な空気と目前で繰り広げられていた事実に白兎は惑いながら、それでも紅の騎士を信じたいらしい。
 それには紅の騎士も困ったように白兎を向いて、苦笑いを浮かべた。
「まだ俺を信じたいとは愚直過ぎるんじゃないか、白兎。それとも、恩を感じてるのならそれは忘れろと言ったろう」
「恩?」
 白兎と紅の騎士の関係は、役の引き継ぎを交わした師弟関係だった。それだけでこうも信じるのは割りに合わない。
 誰もがそう思い、白兎の幼馴染みである帽子屋ですら知らない過去を、紅の騎士は何も語らず乱雑にジャックと時計屋を突き放した。
 そして知らしめるように白兎に剣を向ける。
 煩わしそうに眉をしかめ、力任せに降り下ろした紅の騎士の剣は防ぐ暇も止める隙もなく白兎を貫いた。
 致命傷だと見て分かる。胸から背中に突き抜けた剣が貫いたのが心臓であるならまず白兎が助かる見込みはない。
 信じられない光景に帽子屋の視界が暗くなる。絶望が覆っていく。そんな、うそだ、しろたんが死ぬ訳がない。
繰り返される試行錯誤はぐるぐると帽子屋の心中を埋めつくし、じわ、と涙が溢れていく。
 しかし、帽子屋の絶望も関係なく事態は進む。

「俺がお前を放っておいたのは、単にお前が死なないからだという理由でしかなくて、本音を言ってしまえば一時でも女王の騎士になったお前を。
女王の騎士に選ばれたお前が、疎ましくてしょうがなかったよ、白兎」
 紅の騎士が告げるより何より雄弁に、貫かれた白兎の身体から失われていく血液はなく。
 どころか貫かれた傷すらなかったように剣の抜かれた胸元から残る痕跡はなかった。
「紅の、………、」
「そんな信じられない顔をするなよ白兎。まるで俺が悪いみたいじゃないか」
 死なない兎。死ねない兎。
 それが白兎の役であり、呪いなのだと知らしめるように、紅の騎士の声は告げたのだった。

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 一方。女王を連れ出したメアーリンは途中で再会した眠りネズミと双子。そして門番に事情を説明していた。
 恐らく全ての元凶が紅の騎士だという事を。そして、女王には耐えきれない現実を見せない為に席を外した事を。
 探していた芋虫が無事であるという事も含め、あらかたの経緯を聞いた門番と双子は納得しかねるような微妙な反応を示し、どうするんだよと尋ねた。
 メアーリンの返答は淀みなく、女王の安全の確保だ。勿論、それだけではないけれど。
「私は一先ず女王様を安全な場所まで連れていき、医療班を揃えてまた戻ります」
「はァん。そりゃまぁ模範な判断だなァ? で。安全な場所ってのはどこだよ」
「城内の部屋ですが、何か?」
 しかしひねくれた双子の元門番。口の減らない方のダムは慎まずに挑発めいた口調で言った。
 メアーリンは何か問題があるなら聞いておくに越した事はない。と聞き返す。
 とにかく今は一刻も早く、そして安全な静かな場所でこの幼い少女を落ち着かせてあげたかった。
 ここで答えたのはダムではなく、彼の片割れであるディーだ。ある意味でダムより口の悪いディーはやはり率直に意見をぶつける。
 メアーリンではなく女王に向けて。
「へぇ。目の前の重要な現実から逃げて自室で守られる訳かい。さすが女王様だね、まぁぼく達には関係ないけど」
 茫然自失といった女王を見据えたディーの痛烈な皮肉。その声にびく、と女王の身体が震えた。
「ぁ、」
 小さく、掠れた声が洩れた。そう言われてしまったら、それは確かに言われた通り――女王は逃げ出したも同然である。
 耐えきれず、堪えきれず、決意をした筈の気持ちさえ投げ出して逃げてしまったのだ。
 役持ちの意味を。それを背負う事の重さを、重罪を、知ってしまった恐怖と絶望に。
 何も知らされなかった女王はただの飾りでしかなく、ましてや今でも彼女は知らない。
 何も知らないまま逃げて、それでどうなるというのか。虚脱しかけていた女王の意識はようやくここで戻り、なけなしの自尊心と責任感を振り絞る。
 そうだ。逃げ出してどうする。例え仮だったといえど自身が女王である事に変わりはなく、また決意も無為ではないのだ。ならばこそ、

「戻らなきゃ、メアリー、下ろして」
「無理すんなや、お嬢ちゃん。おどれが行って何が出来る」
「でも、だけれど、あたしは、女王で、」
「女王様、落ち着いて下さい。一旦気持ちを整頓してから出直しましょう、ね?」
 門番とメアーリンの宥める言葉にも、しかし女王は頷けない。こうしている間にもまた、おいてけぼりにされていくような焦燥。
 正式に役を受け継がなかった女王にとって、事実は痛かった。何も知らない癖に偉そうにしていた自身が滑稽で哀れで情けない。
 だが、譲れないものがある。
「嫌よ、無理なのメアリー、だって、だったら! 私は何の為に玉座に座るの、お母様の期待に応えられてすらいない、ただの甘えた子供でしかないじゃないっ!!」
 役を受け継ぐという意味が、呪いを背負うというのなら。女王もまたそれを母親から受け継がなければならない。
 そして、唯一、母親の居場所を知る紅の騎士から聞かなければならない事がある。
「ーーー戻りなさい、メアーリン! 貴女が私の騎士だと云うならば、騎士で居てくれるならば、私の願いを聞いてちょうだい」
 弱さを振り切った女王の声は、まさに女王に相応しく、凛としたものだった。
 その迫力に馬鹿にしたようににやけていた双子は目を見開き、門番は感心したようにほぅと頷く。
 そして、メアーリンは切なげに瞳を揺らし、承知しましたと瞼を閉じ、騎士としての自身を優先させた。


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