chapter2ー12『ナナシと蜥蜴』

終末アリス【改定版】



 
「……どうやらお姉様の事を思い出されたようで御座いますね。宜しい、上々ですわ。さてそれでは続けて参りましょう。どうして貴女が大切なお姉様を記憶から、思い出から無くしてしまうに至ったのか」
 気がつけば再び白と黒で別れた場所で彼女が語る。ふわふわと現実味のない狭間の世界。
 確かにここは何が起きてもどこにも影響されず、どこからの影響も受けない場所なのだろう。
 ふと、アリスはあの無機質な蜥蜴を思い出す。裏切り者にして無機質な、あのトカゲのビルを。
「……ねぇ、トカゲのビルは、一体何がしたかったのかな」
 彼は何がしたかったのだろう。こんな何の力もないただの小娘を連れてきて、訳の分からない空間に落としてまで。
 何気ないアリスの問いに、彼女はふむ。とアリスを見返して口を開く。
「――それは、言葉の通りなのではないでしょうか。真実、偽りなく、あの方は『呪い』を壊したかったのですわ。ワタクシには解りかねる思考ですけれど、否定は致しません。彼には彼の理由があり、また貴女には貴女の権利がある」
「私が、呪いを解く為には消えなきゃいけないって」
 曖昧な記憶だけれど、それが妙に耳に残っている。アリスはその為にあのワンダーランドへ迷い混み、そしてこんな場所でまた迷っているのだ。
 真実から必死に目を背けるように、逃げたいんだと。彼女はそんなアリスの迷いににっこりと微笑んで「では、貴女はこのまま消えたいと」と冷ややかに告げた。
「ワタクシは別にどうでも構いませんのですけれど、これは単に頼まれたからのお節介ですので。
貴女がそれで良いと仰有いますならワタクシには貴女の記憶を取り戻すお手伝いをする理由も、こうして問いに答える理由もなくなります。
貴女は確かに役を持たない方で、よって少なからず影響を及ぼしたのは事実上の肯定となるのですが」
 独り言のように彼女は淡々と言葉を連ね、つまらないですわね。と呟く。
「別に、貴女でなければ呪いを解けない道理はないのですよ。たまたま貴女は波長が合ってしまわれた。突然の不幸に遭い、災難に遇い、そして彼の目に会ってしまった、それらが積み重なって迷っただけの存在。
何でしたら――これまでに関わった全て。役持ちとされる彼等とその騎士に関わる狂った住人を含めて――全ては夢だったと忘れてしまって構わない些末な出来事なのですから」
 それだけの、偶然でしかないのだと。
「貴女は何も悪くない。ですから、関係のない彼等を忘れてしまっても、誰も貴女を責めませんわ」
「夢なんかじゃ、ないよ……」
 それでは駄目なのだ。彼女の言葉にアリスは小さく呟いた。彼等が『夢だ』等と、どうしてアリスが決めてしまえると言うのか。
 たった、一週間にも満たない程度の関わりでしかなかったけれど。それでも、ちゃんと彼等は生きていたのだ。
「戻らなきゃ、戻って、ちゃんと」
 お別れを言わなければ、終われない。記憶は曖昧だが、アリスはそう強く願う。
 彼女は変わらない表情でアリスを見つめて「そうですか」と短く息を吐き出す。
「戻りたいのは、元の世界ではなくワンダーランドなのですね」
「うん。勿論、元の世界には戻らなきゃいけないけど、今は」
「えぇ、えぇ。ワタクシは貴女の決断を止めはしませんわ。戻りたければどうぞご自由に。その選択に、後悔をなさらないよう願っておりますわ」
 そう恭しく頭をたれた彼女はアリスにそう告げると先程まではなかった扉を指し示して「お気をつけて」と言う。
 躊躇うように扉を見つめたアリスは頷いて、扉の向こうへと足を踏み入れて行った。
 暗闇に一人残った彼女は「またいずれ」と呟いて、音もなく姿を消した。


 アリスが狭間の世界で彼女と話をしている間。
 かつてもう一人のアリスことナナシと先代ハートの女王の運命を決める裁判が行われた場所。
 既に使われなくなって久しい裁判所を一瞥したナナシは、通常と変わらぬ無感情さでトカゲのビルを見据えた。
 相変わらずこの変態は表情一つ変わりゃしないと思い、視線を今にもビルを殺しかねないような怒りを燃やしている芋虫に向ける。
 突然現れたナナシに視線が集まり、何事かとその場にいる面々は彼女を見据えたが、ナナシは気にせず言葉を吐き捨てた。
「……下らないわね」
 全く。友達だとか、どうだかは知らないけれど。この人のセンチメンタル(笑)な感傷はただの言い訳だ。
 ナナシは知らない。トカゲのビルと芋虫との間に何があったかを何も知らない。しかし、それでも何も知らないナナシだからこそ言える事がある。それこそ下らないのだ、と。
「別に、この変態の味方をする訳ではないけれど。貴方が友達としてビルを止められなかったと嘆くのはお門違いというものよ。
貴方に限らずこの世界の住人全てに言える事なのだけど。ねぇ、今更何をどう後悔したとして、一体何が変わると言うのかしら?」
 故にナナシは今だって特別に何かを思うことはない。この茶番の意図も意味にも興味はない。
 付き合わされる身としてはさっさと終われと思ってしまうのだ。あぁ、ちゃんちゃら可笑しいったらない。
 どいつもこいつも昔から。二年前からずっと。
 淡々と告げるナナシに水を差された芋虫は何も言わず、代わりに帽子屋が苦言する。
「ナナシちゃん……きみの言いたい事も分からない訳じゃないけど、関係のないきみが口出しをする問題じゃないよ」
「関係ない? そうね、私には関係ない。でも、口出しをしてはならない理由にはならないわ。私も招かれざる訪問者。つまりは役に縛られない厄介者だもの」
 とはいえ、未だにナナシにも真相とやらは分かりはしない。役だの何だのというこの世界の仕組みとやらすらも、考えようとさえしなかった。
 ここに迷い込んだ理由も、二年前から今に至るまでの一切合切ですら、ナナシには興味も関係もない下らない物語ではあるけれど。
 ナナシでさえ分かる事がある。いや、これはナナシだったからこそ分かったのかも知れない。
「……ねぇ。ビル」
「はい。何でしょうか、私のアリス」
「あんたが私をどう思っていたかは知らないけど。最初から私を使ってればこんなややこしくはならなかった。そう思うのよね」
 二年間。トカゲのビルが裏切り者となり、ナナシと共に消えてからの時間。
 トカゲのビルが語る事はなかった目的と動機を、ここに至るまでナナシは訊ねた事はない。
 アリスに同情もしていないし、彼女の安否ですらどうでもいいとさえ言えてしまう。
 だが、腑に落ちない事がある。呪いを解きたいというのが、最終的にこの食えない男の。薄っぺらくて読めないトカゲのビルの目的なのだとするのなら。
 わざわざ二年も待ってアリスを招く必要などなくて、傍に居たナナシを利用すればあっさりと終わった筈なのだ。
 それなら逃げた理由も納得出来るし、まさに有効活用と言えよう。だから、解せない。
「……それは、考えも寄りませんでした」
 そう見返せば、意外そうにビルは呟いて、まじまじとナナシを見返した。
 無機質な声や表情は変わらないのに、そんな些細な変化を分かってしまう辺り。
 ナナシは二年もの間に随分と毒されてしまったものだと辟易する。そんなナナシにビルは安心しろと、さも当然のように語り出す。
「ですが、それも最早不要な心配というものですよ私のアリス。既に鎖を外す鍵は彼女が果たしてくれる。そして役持ちを蝕む呪いは直に解ける。
後は、彼等がそれを受け入れ、そして紅の君が晴れて先代女王と幸せになれればハッピーエンドという終わりに辿り着けるのですから」
 不要な心配? 最初からそんな心配などナナシはしていない。頼んですらいない。むしろ利用する為だと言ってくれた方が納得出来るというものだ。
 こんな下らない結末など、滑稽すぎる。そしてナナシはわざわざビルと雑談を交わす為に傍聴席から移動してきた訳でもない。
「なら、この状況でもう一度、錠をかけたらどうなるかしら」
 ハッピーエンドだとか。それはまぁ結構な言葉だけれど。つらつらと長ったるい台詞を聞き流したナナシは小さく微笑みを浮かべた。
 意味が分からないとばかりにビルが止まったのが妙に可笑しい。自身にこんな情があった事が意外で、それをこうして認識している現状が不可思議だった。
「やってみなければ確証はないものの、呪いを解くための鍵があの子なのだとすれば、私もまた鍵か、或いは似たような何かになるって事でしょう。さすがにアンタもそこまでは読めてなかっただろうから、いい気味ね」
 二年前からずっと変わらない面で、声で、鬱陶しいったらないわ。
 不愉快で不可解で、どうしようもなく無機質な変態に付き合わされた時間を巻き戻して消し去りたいくらいには、嫌いだ。
 何で当たり前のように傍に居続けたんだか。何が私のアリスだと言うのか。
 とうとうナナシの名前すら呼んだ事がない男が、どうしてこんなにも嫌いで仕方がないのだろう。
 とても気に食わなくて、とても不服だったから。ナナシは静かにビルを見つめた。
「大嫌いよ、アンタなんか。だから少しは後悔とやらを感じてみればいい」
 そう囁いて、瞼を閉じる。アリスが消えた理由はきっと、どうしようもない絶望を知らされたから。
 だったらナナシも同じく絶望を知れば良い。見なかった気持ちを見返して、何も感じなかった心とやらに浮かぶのは、この気に食わないトカゲのビルの感情の在処なのだから。
「あぁ、最悪ね」
 ずっと気付かなかったのに。大嫌いでうざったいこの無機質な蜥蜴を、本音の奥底では、好きだなんて血迷った感情を想っていたなんて。
「吐き気がするくらい、大嫌いなのに結局は好きなんてーー」
 ぐら、と開けた視界が揺らぐ。笑えない。有り得ない。あと一歩で消えかけたナナシがせめてもの意趣返しにとざまぁみろと視線をビルに向けた、
次の瞬間。ビルが赤に染まった。
「………………、っ?」
 うっすらと消えかけていたナナシの身体は、どうした事か。はっきりとした姿を保っていて、何故か身体が熱くて仕方がない。
 かは、と咳き込み、口から赤い血が出た事を認識した時、ナナシはあぁと自らに起きた事態を把握する。
 胸元から血が溢れて止まらなかった。赤くなったのはビルではなくナナシの方だ。
 感情がないと言われていた自分でも血は赤いのかと思ったら少しだけ可笑しかった。
 あの無機質な変態はどんな面をしているのかと視線を動かすけれど、すっかり霞んで見えなかった。
 残念だとそこでナナシの意識は途切れた。
 彼女の体躯を受け止めるべきトカゲのビルは椅子に縛られたままで動けない。
 ただ、倒れたナナシを見つめて、その背後に濡れた剣を持ったまま柔和に微笑む紅の騎士の姿を見上げた。
「やれやれ。驚いたなぁ、まさか彼女がそんな重要な役割を担っていただなんて、久し振りに焦ったよ。
ん? どうかしたのかい、ビルくん。きみらしくもない」
 問われたビルは、何も出てこないからからに渇いた喉に自分でも戸惑いながら、ナナシを刺した男の笑みに、泣き出したいような笑い出したいような複雑な気持ちをもて余す。
 早く止血をしなければと頭の片隅で思い、同時にそんな紅の騎士に対する怒りさえ覚えない非情な自分。
 口を開いたビルの言葉は、変わらぬ声音で。ただ、何でもありませんと告げていた。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -