chapter2ー11『狭間の世界で』

終末アリス【改定版】



 
 何処とも知れない場所。常世でも現世でもない曖昧な空間で、気がつけばアリスの意識は迷っていた。
 何もない一面の黒。空も地面もない、前後左右の感覚すら分からなくなるような、寒さも暖かさもない。
 まさに『無』がそこにあった。
(あれ…? ……私は確か、トカゲのビルと話をしていた筈なのに)
 記憶は自然とそこに行きつき、それからどうなったのかがすっぽりと抜け落ちている。
 そんなアリスの視界にふと先程まで姿の欠片すら見えなかった人物ががふわりと現れて「あら、これはこれは」と笑った。
 一気に空間は鏡のような世界に塗り替えられていき、彼女は恭しくアリスに頭を下げてお辞儀をした。

「初めまして。いえ、始めましてと言った方が正しいのでしょうか? まぁどちらでも似たようなものですけれど、そんな戯れ言はさておき、お客様をお出迎えするのがワタクシの役。
貴女がどのような経緯でこんなところまでお出でになったのか。それをご説明致しましょうか? それとも別の話を致しましょうか」
「ちょ、…ちょっと待って! そんなに一気に話されても分からないから…っ」
 すらすらと噛まずに連ねる彼女の言葉を遮ったアリスは改めて黙ってこちらを見つめる少女の姿を見返す。
 ワンダーランドの住人やナナシも大概、普通とは逸脱したファッションセンスをしていたけれど、彼女はまた違った意味で逸脱していた。
 少年にも少女にも見える彼女をアリスは少女だと認識したので彼女としたが、もしかすると少年なのかも知れない。
「とりあえず、ここは…?」
「はい、ここは何処でもない何処か、ですわ。明確には存在しない、いわば間。狭間の世界とでも言いましょうか」
 ううん、とアリスは首をひねってやはりよく分からないと思い、次にじゃあアナタは? と尋ねた。
「ワタクシもまた、誰でも御座いません。ここにこうして居るのですからワタクシという個性は存在するのでしょうけれど、
さて、では誰なのかと問われたらそれに返答はしかねる。そんな曖昧な輩ですので名乗るべき名前はないのです。
そもそも、こんなところまでに落ちてくる方など滅多におられませんから端的にぶっちゃけてしまえば名前など面倒なだけなので、お好きなように。と」
 適当だった。その適当さ加減と淡々とした口調語りはナナシのようで、チェシャ猫のようで、けれど誰とも違う雰囲気だ。
 何故か耳に残る澄んだ声。無感情でもない、妙に芝居がかったような馬鹿丁寧な話し方も違和感はなかった。少し回りくどい気もしたが、それも彼女の個性だろう。
「…うん、」
「こんな世界の狭間の状況など知ったところで得にもなりませんわ。そろそろ本題に入らせて頂きたいのですけれど、貴女はどうやら元の世界に戻りたいと願っておられたように記憶しておりますが。その気持ちは今も?」
 どうして初対面の彼女がそれを知っているのかとアリスは面食らったが、一度トカゲのビルに酷く折られた為に疑うよりまず本当に知っているのかと何度も確認した。
 彼女は知っておりますとも。と頷いて「ですが」と前置きをする。
「貴女が元の世界に戻る為には、貴女自身がまず、貴女自身の気持ちをご自覚なされなければいつまで経っても永久にこのままですわ」
 気持ちを自覚? どういう意味なのだろうか。アリスは彼女をじっと見つめて様子を探る。
 静かな微笑みを浮かべたまま、彼女はとん、と立っていた場所から軽やかに降りる。
 着いてきて下さいませとアリスを誘導した。降りたまでは分かっても、勝手が分からない状態でどう降りて着いていけと言うのだろう。
 イメージですわと短くアドバイスをした彼女は、戸惑いながらも真似をして飛んだアリスを案内していく。
 そして何度目かの着地で到着した場所は一見すると何ら変わりのない白と黒で上下に別れた妙な空間だった。
「さて。ここで貴女の見ない素振りをしてきた気持ちをお教え致しましょう」
 目の前の彼女はとても穏やかに向き直り、問い掛ける。
「どうして此処に至るまで貴女が元の世界に戻れないのか、どうして此所に至っても元の世界に戻れないのか。
そもそも貴女は本当に元の世界に戻りたいのでしょうか。質問を改めてしましょう。『貴女は本当に元の世界に戻りたいと思っていますか?』」
 アリスは困惑する。以前にもナナシに問われたが、戻りたくないなら最初から誰も巻き込んではいない。
 『戻りたい』からこそ。アリスは白兎に詰め寄った。チェシャ猫に話をして、元の世界に戻るための手掛かりを求めて、ここまで来たのだ。
「どうして、そんな当たり前の事を尋ねるの」
「必要な事だからですわ。ワタクシには貴女を不快にする理由も意図も御座いませんし、単純に疑問なのです。そんなに元の世界に戻りたいと仰有る貴女が、ならばどうしてあのワンダーランドに迷い込まれたのか」
 穏やかに。そして問い詰めるように彼女はアリスを見据える。彼女の光のない瞳に思わずアリスは寒気を感じた。
「だったら、ちゃんと説明して欲しい……」
 下がりそうになる足を留めて、アリスは彼女を見返す。「それは勿論でございますわ」と微笑み、地面のない暗闇に波紋を広げた彼女は静かに目線を合わせた。
「それには貴女が自覚なさらなければならない理由があるのです。貴女が思い出さなければいくらワタクシが言ったところで意味を持ちませんもの。ですから故に、質問なのでございます」
「……そう、なの?」
「えぇ。ワタクシ、無意味で不毛な時間は大嫌いなので。冗談はまた別ですけれど」
 いまいち納得しかねるアリスにきっぱりと彼女は告げる。その台詞は無意味で不毛ではないのかとも思ったが、何も言うまい。
「分かったわ……アナタを信じる」
 それで念願の元の世界に戻れる一歩になるなら迷いはなかった。彼女は「光栄に御座います」と呟いた。
「それでは、ワタクシはその信義に応えなくてはなりませんわね。それもまた貴女次第なのですけれども。
では改めて、思い返して見て下さいませ。貴女は確かに元の世界に戻りたいと仰いました。その気持ち及び言葉に嘘はないのでしょう。
ワタクシはそれを偽りだとも謀りだとも思いませんし疑いませんわ。けれど。けれどどうでしょう? 元の世界には戻りたいと仰いました貴女の本音が違っていたら。
戻りたいと思いながら、戻りたくないと思っておられたとすれば。ご自身でも無意識の内にそうお思いであったなら、貴女はそれを知らない限り。
見て見ぬ振り、聞かぬ知らぬ振りをしてきた本音に向き合わなくては始まらないのです。焦らなくても宜しいのですわ。ゆっくり、思い出して欲しいのです。
何度となく戻りたいと思う半面、貴女は一度としてご自分の御家族を、或いは身近な友人を、元の世界に居る誰かを、想われましたか?」
 彼女はそこで言葉を区切り、アリスはそれに、答えられなかった。何故なら、一度たりとも思い出さなかったから。
 だが、確かに言われて見なければ思い出さなかった事に気付いたとて、それが戻りたくないという気持ちにはなり得ない。
「不仲であろうとなかろうと、一番身近である家族の事を貴女は一度として思い出しませんでした。そしてワタクシが尋ねた今現在でさえ、その家族を思い浮かべていらっしゃらない。
さて。それは『どうして』なのでしょうか。考えてみて下さい、貴女が本当に元の世界に戻りたいのならば」
 彼女の言葉に、アリスは頭を押さえて左右に振った。思い出すと僅かに頭痛がしたが、堪えて記憶を探る。
 家族――そう、自分の家族は平凡でありふれたどこにでも居る家族だ。
 仕事で忙しく、遅くまで頑張ってくれている父親。成績には厳しいけれど健康に気遣ってくれる母親。何だかんだで口は悪いけれど優しい兄の四人家族である。
 今まで、どうして思い出さなかったのか。可笑しな話だ。けれど、彼女は「それだけでしょうか?」と穏やかに問い掛ける。
「…、まだ、何かあるの? 家族の事は思い出したよ……どうして忘れてたのかは分からないけど…」
 家庭内に問題があった訳でもない。それぞれが多少の不満を持ちながらも家族としての不足はなかった。
 家に帰ればお母さんがおかえりと共にあれやこれやと言ってくる。それをうんうんと半分聞き流しながら部屋に向かえば、お兄ちゃんがぐしゃぐしゃと頭を乱してイヤミを言う。
 それに対して私は拗ねたように言い返すんだけどお兄ちゃんは笑うだけ。お父さんはたまの休みにしか一緒に過ごせないけれど、それでもお父さんだ。
「……どうやら貴女の記憶は一部抜けておられるようです。嘆かわしいですわ、何と可哀想なので御座いましょうか!」
 なのに彼女はその充分な筈のアリスの記憶が抜けていると言う。何も抜けていないのに。足りない誰かも何かも居ないのに、一体何が。
 アリスの戸惑いにやはり彼女は穏やかで無慈悲にも告げる。
「貴女には大切で大好きな『お姉ちゃん』が居られた筈でしょう?」
「お姉…、ちゃん?」
 居ない。アリスには両親と兄しか居ない。お姉ちゃんが居たなんて記憶はない。
 彼女は何か勘違いをしているんじゃないだろうか。或いは、同じようにアリスと呼ばれていたナナシと間違っているのかも知れない。
「あの、人違いじゃないかな? 私にお姉ちゃんは居ないから、多分ナナシさんと間違ってるんだよ」
 しかし、彼女は云う。ハッキリとアリスを見据えて「勘違いでも間違いでも御座いませんわ」と言い切った。
「どうしてこのワタクシが貴女様とその方を間違えましょう。勘違いだと仰いますが、ならばワタクシは貴女に対して嘘をついていた事になりますわ。
嘘は時に必要だとはいえ、この時点で言えばただの痛くて電波な勘違い女という不名誉かつみっともないレッテルが貼られてしまうじゃありませんか。望むところではないので否定します。
さておき、話を戻すと致しましょう。先程も言いましたけれど、貴女には記憶が抜けているだけで、お姉様が居たのですよ。乙戯アリス様」
 念を押すように。そして彼女は初めてアリスの名を呼び穏やかな笑顔を消した。

xxx

 記憶は巡る。時間は巻き戻る。気付けばアリスは一人、どことも知れぬ闇の中で浮遊していた。
  ー思い返してみてごらんよ。アリス。
きみがこの世界に迷い込んだ理由が白兎だと思っていた考えから、少し前を。
(……白兎にぶつかる前? …確か、懐中時計が落ちてたのを見つけて、)
 チェシャ猫の無感情な声が聞こえる。言われるがままにアリスは瞼を閉じて、回想した。
 そこでズキ、と鈍い頭痛が妨げるのにそれでも無感情な声は言葉を続ける。
  ーねぇ、アリス。もう一度ちゃんと思いだそう。
(ちゃんと? 私はちゃんと覚えているし、思い出してるよ?)
  ーまだ見ない振りをするのかい? まぁ、俺はアリスがそれで構わないなら良いけれど。
でも、何事にも限界はあるし彼女の言う通り、きみが元の世界に戻りたいと願うなら避けられないんだよ。
(だから、何が言いたいのか分からないよチェシャ猫! ハッキリ言ってくれたら良いじゃない。
曖昧に遠回しな言い方をされたって察せられる程、私は頭が良くないもの)
  ーうん。そうだね。
 肯定された。そこは嘘でもちょっと頷いて欲しくなかった。しかし、思いださなければいけないと云うのならそれをするしかないのだ。
 ズキズキと痛む頭の痛みを堪えながら、アリスは記憶を辿る。
 そう、いつも通りに授業を受けて、休み時間には友達と他愛ない会話を交わす。代わり映えのない日常だ。
 その帰り道で、落ちていた懐中時計を見つけた。そして、白兎によって水溜まりにしか見えない穴に落ちていった。
 その少し前とチェシャ猫は言ったけれど、どう考えても違いがあるとは思えない。
 ――貴女には大切で大好きな『お姉ちゃんが居られた筈でしょう?』と彼女は言ったけれど、やはりお姉ちゃんとやらの姿は浮かばない。
 しかし、居たなら、記憶にある筈なのだ。まずはそう、今朝の家族との会話を思い出してみよう。
「おはようアリス、今日は随分と早いじゃない」
「うん、目が覚めちゃったんだ」
ザザッー
「おはよう、お父さん」
「あぁ、そうだアリス、ーザッーザザッー…あいつはまだ寝てるのか?」
「ピッーガガーッーお兄ちゃん? 多分まだかな」
「……はよ、……何お前、遠足にでも行くのか?」
「遠足はもっと早いよ。それよりお兄ちゃん、顔洗ってきたら」
ーザーッガザー
「うるせぇな…お前ーザザザッーガッー…ちったぁ兄貴を敬え」
 ……何だろうか、雑音が入る。これは私の頭が可笑しくなったのか、あるいは彼女の言っていた私の抜けている部分なのか。

  ーねぇ、アリス。別に忘れたいと願うのは悪い事じゃないんだよ。
生きている以上、人間は忘れるし、衝撃な出来事ほど忘れたいと思うものだから。
(…うん、)
 だから私は、思ってしまったんだろう。忘れたいと。大切な人を、記憶から消してしまいたいと。
 ザザザッー
(…マリアとあいつはまだ寝てるのか?)
(お姉ちゃんとお兄ちゃん? 多分まだ…)
(…それより顔洗ってきたら?)
(そうだよ、アギ兄はいつもだらしないんだから、もっとしゃんとして!)
(うるせぇな…お前ら妹は揃って突っ込み入れやがってー)
 あぁ、そうだった。確かに私にはお姉ちゃんが居た。どうして忘れてしまっていたのだろう。こんなにも大好きだったというのに。
 大好きだった? いや、どうだっただろう。まだぼんやりとしか浮かばない姉にアリスは眉を寄せた。
 確かに存在していた家族を記憶から消してしまっていたのに、まだ実感が湧かないのだ。
 こんな風に言われてしまうまで私はお姉ちゃんの事をどうして頭から消していたのか。
 ズキズキとする頭痛が治まらないまま、アリスはゆっくりと頭を振る。


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