虎の威を狩る兎 | ナノ


「……!」

そっと目を開くと、白い天井。そして私の苦手な薬や、注射の前の消毒の臭い。
…ここは、病院?

ゆっくりと体を起こし、完全に起きていない頭で考える。
何だか懐かしい夢を見ていた気がする。思い出せないけれど。

「うさぎ!」

勢いよく扉が開かれる音と共に自分の名前が呼ばれ、ハッとする。私を見るなり、アートくんは枕元に飛び付た。

「アート、くん…?」

「大丈夫?気分が悪かったり、痛むところはないかな?」

「うん、大丈夫だよ…?」


「そっか……よかった…っ」


少し笑って見せると、アートくんはそう言って、へなへなとへたりこんでしまった。

「アートくん、私、大丈夫だから…ね、ね?」

揺すっても撫でてもびくともしないアートくんに困っていると、再び病室の扉が開いた。
入ってきたのは知らないおじさん。何故か片目を閉じていて、頭の真ん中の髪の毛だけ白い。多分、アートくんよりも背が高い…と思う。
私は思わず、アートくんを庇うように抱きしめた。

「そんな警戒しなくてもいい、お嬢ちゃん。俺はアートの部下だ」

「アートくんの…?」

「ああ、ほら、アート」

「…はい」

ぐす、と鼻を啜りながら、アートくんが頭を上げた。

「逆に心配させてどうすんだ」

「…すいません、ごめんね、うさぎ、ありがとう」

そう言って笑うアートくんの目は、ほんのちょっと、赤かった。

「さて、気分はどうかなお嬢ちゃん、もしよかったら、こちらの質問に答えていただきたい。
何せ、聞きたいことが山ほどあるんでね」

「…はい」

真剣な眼差しでおじさんに言われ、段々と昨日からの出来事を、自分が何故ここにいるのかを、痛いくらいに思い出した。あの耳をつんざくような声は、痛い位に頭に焼き付いている。
私はベッドの縁に腰掛け直し、真っすぐおじさんを見る。

「うさぎ、無理しなくていいんだよ?今、言うのが辛かったら、また今度でもいいんだから」

隣に座ったアートくんが、ゆったりとした、優しい声で語りかけてくれる。アートくんの優しい声は、騒ついた気持ちを安らかにしてくれた。けれど同時に、何故かちょっとだけ申し訳ない気持ちになった。

「…大丈夫、だよ、私」

「本当に?」

「うん、話せるよ」

「まあ、ここでこうやって聞く方が、署内で聞くよかよっぽどいいだろう」

アートくんの目を見て頷く。でも、アートくんは私が思っているよりもずっと心配してくれているみたいで、中々信じてくれない。おじさんが、苦笑いしながら言った。

「そういや、まだ名前を言ってなかったな、俺はガスケ」

「がすけ?」

「ああ、お嬢ちゃんは…聞かなくても、あんだけアートが呼んでたら覚えたよ。
よろしくな、うさぎちゃん」

ガスケさんは私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。
ちょっと勢いがよ過ぎて髪の毛までくしゃくしゃになってしまったけれど、その手はアートくんと同じ位に優しかった。

「…じゃあ、本題に入るな。
率直に聞くが、うさぎちゃんは犯人の顔を見たか?」

どきり、と心臓が大きく鳴った。

「…見て、ません。」

「本当か?」

「はい」

私は、自分でも確かめるように、一つ頷いた。
私は何も、見ていない。そう。

「本当です、本当に、見てません…信じて下さい…!」

「分かった。大丈夫、信じるよ」

ベッドからずり落ちそうになるほどに身を乗り出し、ガスケさんの袖を握ると、ガスケさんは目線を合わせ、私の手に自分の手を添えてくれた。
この目は、嘘をつかない人の目だ。

「…犯行中は?ずっとあのクロゼットにいたのか?」

また、コクリ、と頷く。

「…お父さんが、あそこで隠れてなさいって、急に起こしに来て、隠れてたら…そしたらいきなり、誰か…入って来て、お母さんが……声が、怖くて…私…ーっ!!」


お母さんの切り裂くような悲鳴も、

お父さんの焦ったような早口も、

耳から離れるどころか、こびりついて何回も再生される。
二人がもう、この世界の何処にもいないことを、私に何度も突き刺すように教えてくる。

「…分かった。もういい、話してくれてありがとうな」

完全に下がり、俯いた私の頭を再び撫で、立ち上がると、ガスケさんは扉に手をかけた。

「じゃあ、俺は署に戻るが…」

「もう少し、ここにいます」

振り返ったガスケさんに、アートくんが言う。ガスケさんが穏やかに笑った。

「そうしてやるといい、事情聴取はさっきので終わりだ。俺が上に通しておいてやる」

「ありがとうございます…!」

「何、俺としても、こんな小さい子を問い詰めるのは心が痛むんでね」

そういうと、ガスケさんは今まで閉じていた方とは反対の目を閉じ、ひらひらと手を振り部屋を出て行った。

静かに扉が閉じられ、部屋がしん、と静まりかえる。
いつの間にか流れていた涙を拭きながら、ちらり、とアートくんを盗み見ると、その思い詰めたような顔に、話しかけてはいけないような気がした。

「…うさぎ」

不意に、アートくんが私の名前を零した。

「どう、したの?」

私は慎重に言葉を選び、アートくんに返す。

「約束、破っちゃったね」

「やくそく…?」

「僕がうさぎを守るっていう、約束」

きゅっ、と握られた大きな手が、小刻みに震えている。私はその手に自分の手を重ねる。さっきアートくんがしてくれたように、少しでもアートくんの元気が出るように。

「ううん…守ってくれたよ、約束。
私は怪我してない、する前に、アートくんが助けにきてくれたから」

アートくんの顔を覗き込み、しっかりと目を見る。ぼんやりと開かれた目は、何かに怯えているように曇っていた。

「アートくんは何も悪くない、お父さんもお母さんも、アートくんのせいで死んだんじゃないよ、でしょ?」

だからお願い。
そんなに泣きそうな顔しないで。

そう伝えたくて、アートくんの瞳をじっと見た。

「今だって、私が一人じゃないのは、アートくんが居てくれるからだよ。アートくんが居なかったら、私、ひとりぼっちで、きっと
ーっ!」
突然、視界が黒く染まった。

「ごめん…ごめんね、うさぎ…ごめん」

「アートくん…」

きつくきつく抱きしめられ、苦しかったけど、離してほしいとは思わなかった。
私も不安だったから、怖かったから、その暖かさが、匂いが、全てが心地よくて、心が落ち着いた。

何度も私にごめんなさいを繰り返すアートくんを、私も強く抱きしめ返す。
どれだけの時間が過ぎたのか分からないまま、私は何時の間にか意識を手離していた。



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