カナタマ
(カナタマ)
『貝殻にこうやって耳を当てるとね、ほら、波の音がするんだよ』
『……』
『ね?聞こえるでしょ?』
『…いいや、カナエの声しか聞こえないな』
あの時そう答えた俺に対して彼は少し困った様に、けれども嬉しそうにはにかんでいたのをふと思い出した。
追想するきっかけになった掌中の白い貝殻をそっと耳に押し当てる。目を瞑っていくら耳をすましても、聞こえてくるのは足首に打ち寄せる本物の白波の音だけ。
スラックスの裾を濡らす海水がやたら冷たく感じた。
「カナエ…もうお前の声さえ聞こえないよ…」
貝殻をどけて捉える音がクリアになっても俺が聴きたい音は聞こえてこない。
初めから解りきっていた筈なのに何故こんな女々しい事をやっているのだろう…馬鹿らしくて泣きそうだ。
力が抜けていく掌から滑り落ちた貝殻がぱしゃん、と波際に沈んだ。
「―――でも俺にはちゃんと聞こえたよ、タマキ君の声」
またいつもの幻聴だと思った。けれどもそう思ったのも一瞬だけ。
背後から伸びてきた二本の腕。それにぎゅっと抱き包められたかと思えば、背中から伝わる温もりと懐かしいフレグランスの香りに鼓動が速まった。
「タマキ君にも俺の声聞こえる?」
ふわふわの猫っ毛が甘え戯れ付くように首筋を擽る。俺は我慢出来なくなって彼の腕の中でくるりと体を反転させた。
紅茶色の瞳が相変わらず優しく俺を見詰めている。
「あぁ、やっと聞こえた…カナエ」
end
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「三十八口径の愛情」のフリーSSを頂いてきました。
カナタマです。幸せです。
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