海と太陽の匂い
(DC2 記憶喪失中)
「いい天気だなぁ。…せっかくの休日だから、どこか出掛けないか?」
ある晴れた、休日の朝──。
洗濯物を干しながら、トキオが空を見上げて言った。
そう言われ、テーブルの上を片づけていたタマキも、手を止めてベランダに近寄る。
晴れた空が青く遠く、空気が爽やかだ。
シンジュクのビルの谷間からでも、秋を感じる。
絶好の行楽日和に思えた。
「いいな。…どこへ行こうか?」
「タマキは山と海、どっちがいい?」
「海っ!」
タマキが即答する。
「海、好きそうだな……」
裸足で海とかに入りたがるクチだな……と、トキオはタマキの無邪気な笑顔を眺めながらそう思い、それから一瞬、固まった。
「あ……」
「ん? どうかしたか?」
トキオの、呟きにタマキが不思議そうに首を傾ける。
「いや……」
自分の提案がすこし思慮が浅かったことを悔やむ。
海には暗いイメージが付き纏う。
海……崖…………。
記憶を取り戻すはめになりはしないか?
嫌な考えがよぎった。
かといって、ここで希望を却下するわけにもいかない。
すこし、思案してから提案する。
「じゃあ…九十九里海岸沿いをシーサイドドライブなんかどう?」
「いいな!」
嬉しそうに言うタマキを眺めながら、トキオは先ほどの考えが杞憂で終わることを祈った。
「じゃ、決まりだ! さっさと片付けて、出かける準備をしよう」
そう言いながら、洗濯物を干すのを再開する。
水遊びをしたがった時のためのタオルや着替えは……持っていかない。
直接海に近づかず海岸沿いを走るだけにしよう。
(だから大丈夫……)
そんなことを思ってる自分に慌てる。
(……って、それも含めて監視してるのに……)
必要以上にタマキに傾倒している自分を、自覚せずにはいられない。
(しっかりしろ、自分)
トキオは自分自身の甘い考えを叱咤した。
「じゃ俺は車を取ってくるから。タマキは入口で待っていて」
「トキオの車って、地下にあるのか?」
「そうだよ。マスターの車と一緒に停めてるあるイタ車だよ」
「え………」
(イタ車って、あのイタ車の事か……?)
マスターの不思議なキャラクターの絵の描かれた車を思い浮かべる。
タマキは、ドライブに行くのを後悔した。
「ト、トキオ…。俺、やっぱり……」
「戸締りよろしく!」
ひらひらとキーを振りながら、トキオが出ていく。
タマキは一人取り残されて、暗澹たる気分で、ガスや電気の戸締りを始めた。
「イタ車ってこれ?」
入口で待っていると、目の覚めるような赤いオープンカーに乗ってトキオが現われた。
「アルファロメオ。正真正銘のイタリア車だよ。さ、乗って」
そう言いながら、助手席のドアを中から押し開ける。
「ああ……」
タマキは、ほっと胸をなでおろしながら、右座席に乗り込んだ。
車は軽やかに出発する。
「俺はてっきり、痛い痛車だと思って……」
タマキはシートに身を静めながら、安堵のため息を漏らす。
「うーん。タマキが乗りたいっていうなら、俺も考えるけど」
「いや、考えなくていいから!」
あわてて、断る。
「そう…? ならいいんだけど」
そう言いながら、ウインクする。
(こいつ……。絶対俺が、勘違いしてたのを楽しんでるな)
「……俺が、乗りたいといったら本当にするんだな」
「え…本気?」
少し焦った声で言われて、小気味いい。
「今度、マスターに頼んでおく」
「タ、タマキ。それは勘弁……」
「冗談だよ」
そう言いながら、軽やかに笑う。
「助かったよ……」
そう答えながらも、余裕のある微笑みをするトキオ。
(冗談で言ってるってのもお見通しなんだろうな…)
と、タマキは思った。
車は高速に乗り、空いていることもあって、スムーズに千葉に入った。
そのまま海岸沿いの有料道路に入る。
車の乗り心地はよかった。
すがすがしい秋風を頬にうけながら、景色を楽しむ。
トキオの運転はそれなりに速度は出しているが、急な加速や減速がないのでとても安定している。
ふと、外の景色から、目元の車に視線を向ける。
美しい流線形のボディラインと鮮やかな赤。
ハンドルについているエンブレムの十字と蛇。
官能的なイメージはそのままトキオを思わせる。
「……トキオってイタリア車似合うな」
「そう?」
「セクシーって感じだ」
「……あは」
そういう事、臆面もなく言えるところがタマキである所以なのか。
言われた方が照れるしかない。
「どうかしたか?」
「あ…いや。セクシーコマンドーで頑張りますよ」
「なんだよそれ」
タマキがふわりと笑う。
その笑顔に、一瞬見とれそうになって、思わず視線を元に戻す。
「いや…。なんというか…。部隊のお色気要員の事だ…由美かおるみたいな…。きっと……」
言ってることが支離滅裂だ。
「ますますわけわかんないよ、トキオ」
そう言いながらも、笑い続けるタマキ。
出来ることなら、いつまでもこの笑顔を見ていたい。
「なあ、海岸には行けないのか?」
「うーん。行ける事は行けるけど…」
「じゃあ、行ってみたい」
パーキングで休憩中、目の前の海に目を奪われたタマキにそう言われて。
行くまいと思っていた海岸へ。
「こっちから出られるみたいだ……」
タマキが砂浜へ走り出す。
「うわー。いい眺め。…このまま防波堤まで行ってみよう」
「……ああ」
しかたなくタマキについて行く。
潮風が頬に当たる。
防波堤に打ち寄せる波音が高くなる。
嫌な予感が高まっていく。
「あ…っ!」
異変はほどなく表れた。
防波堤の半ばでタマキが頭を押えてしゃがみこむ。
「大丈夫か!」
トキオはタマキに駆け寄った。
「波音が……」
そう言いながら、タマキが耳を押さえる。
「大きな波音と……銃声と……波しぶきが……痛っ──」
頭痛で顔を歪めるタマキの肩を抱き寄せる。
(思い出したの……か……)
崖っぷちに追われて。
恋人が撃たれて──。
そのまま2人で崖から落ちたこと──。
どのくらいそうやって、肩を抱いていただろう。
「もう……大丈夫だから…」
そう言いながら、タマキが立ち上がる。
顔色はまだ悪い。
「ごめん…なんか心配かけて」
そう言いながら、微笑もうとする。
「ごめん!」
そんな顔を見ていると、たまらなくなってトキオはタマキを抱きしめた。
「トキオ?」
「ごめん……」
「どうして、おまえが謝るんだよ……」
「こんなところに連れてきて」
「…来たいと言ったのは俺だよ…」
「嫌なこと思い出させて」
「嫌なこと……じゃないよ。俺に必要なことだ…」
「それに……」
(お前らを追い詰めて……)
(彼を撃って……)
(こうして監視までして……)
トキオの苦い表情を見て、今度はタマキが腕を回してくる。
「大丈夫だから……そんな顔しないでくれ」
「………」
「俺、記憶を取り戻したい…。記憶を取り戻してちゃんとJ部隊に戻りたい。だから、こういうキッカケってありがたいよ」
「何か…思い出したのか?」
「ううん。…結局何も思い出せてないけど」
それを聞いて安堵してしまった自分に嫌悪する。
「ちょっとは、近づけた気がする…。だから、ありがとう」
「お礼なんて……」
(お礼なら体で……)
いつもなら、そう言いながら尻を撫でてる自分だというのに。
だけど、今日は……。
そんな軽口を叩けない。
いつもの仮面をかぶりきれない。
「お礼なんていらない…から。いつものお前でいてくれ」
「…うん」
そして、自分もいつもの自分に戻らなければ──。
いつの間にか、タマキがそばにいることを心地よく感じて。
その、和やかな空気に身を置きたがっている自分がいる。
だけど、それは叶わぬ夢だ。
もう少し、この温もりを味わったら、手放そう。
もう少しだけ──。
抱きしめた身体は、海と太陽の匂いがした。
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