CROSS DELUSION
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世界は一瞬で変わる
「たまには飲みながら話さないか」

という誘いの言葉に、

「上司の命令なら逆らえませんよ」

と言いながら付いて行った店。



シンジュクの一角にあるバー。

地下に続く階段を下りていく。

薄暗い店内と、青白く浮かび上がる水槽。

店名を聞いた時にはBERのチェーン店を想像していたが。

まさか、こういう趣向の店のほうだとは思っていなかった。

「最近、人気あるらしいな。こういう店が」

「…そのようですね」

落ち着いた感じの区切られたスペース。

各スペースに2つ、壁面に水槽があり、熱帯魚たちが優雅に泳いでいる。

ソファーに腰を掛け、顔には笑顔を浮かべながら、キヨタカは嫌な汗が流れるのを感じた。

大きいフロアにはさらに大きな水槽が、壁一面に設置してあった。

あの時のヒカルを思い出す。

──水槽の中にたゆたいながら揺れるオレンジの髪の毛。

(10分以上水没していたもの、蘇生に20分以上要したものは予後は絶望的です)

──大丈夫。ヒカルは沈められてそれほど立たないうちに助けることが出来た。

(最優先すべきは自己心拍の再開で…)

──それも大丈夫だ。人工呼吸は俺が、心臓マッサージはカナエがして。すぐに水も吐いて心拍は再開した。

(溺水被害者の自己心拍が再開しても、依然として昏睡状態にある場合は、体温を32℃−34℃以上に積極的に復温してはなりません)

──あの日は寒かったから、体温は低かった。濡れた身体をコートで包んだが、せいぜいそれ以上の体温低下を防いだくらいだろう。

(核温が34℃を超えるときは、速やかに体温を低下させ(32℃−34℃)、12〜24時間はそれを維持しまする。急性期には高体温はいかなる場合においても避けます)

──病院に運ばれた後の処置は、担当の医師の言葉通り、低温を徹底させていた。

担当医師の言葉を反芻しながら、あの時の様子を思いかえす。

キヨタカたちが地下クラブに到着する少し前に沈められたらしく、それほど水を飲んでいなかったのが幸いだった。しかし、意識が戻らないので危険だったことは事実だ。後遺症もなく、回復したのは奇跡といっていい。

もし、あの時上司の指示を仰いでたら到底間に合わなかっただろう。
カナエがあの場所を知っていたのも幸いだった。

あれ以上到着が遅かったら…想像するのも恐ろしい。

常に存在すると当たり前のように思って、甘受していた世界。

しかし、それは常に死と隣り合わせだという事を自分たちは忘れがちだ。

世界は一瞬で変わる。

崩壊するのも一瞬だ。

あっという間に奈落の底に落とされるというのに。

だけど、自分がその当事者になるとは、なかなか思えないものだ。

ヒカルを失うかもしれない恐怖。

そんな状態を目の当たりにして、ようやく気付いた事実。

自分が心から愛しているのは、ヒカルだけだという事を。

ヒカルへの感情と同じように、他者を愛することは出来ないだろう。

懐の広い人間のつもりだったが、思った以上に自分のキャパは狭いらしい。


キヨタカはそんな回想をしながら、苦笑した。

「キヨタカ…聞いているのか?」

「え…? いや、すみません、すこし考え事を」

「困った奴だな。…少しは家の事も考えたらどうだと言ってるんだ。本当に身を固める気はないのか」

「それについては、とっくにお話したはずですが」

目の前で、渋い顔をする年かさの男性ににこやかに答える。

キヨタカを二、三十老けさせて、渋面にしたらこういう男になるのでは…という表情を浮かべて男はため息をついた。

「いや…。ま、その件はいいだろう」

諦めたようにそう言うと、男は立ち上がる。

「しかしだ…。それなら、これくらいのトラウマは克服しておいてもらいたいものだ。今後の任務に支障をきたしても困るからな」

「っ……」

(ばれていたか…。というかそれを見越してわざと連れてきたな…狸親父め)

自分の父親に悪態をつきながら、ポーカーフェイスを保てなかった自分の度量のなさを悔やむ。

そして、男が立ち去ったあと、改めて水槽を眺めた。

青い水槽。

泳ぐ色鮮やかな熱帯魚。

そこに、死の影はない。

自分の記憶がそこに投影されるだけだ。

「まったく…。いい加減克服しないとな…」

キヨタカは、目の前の水槽にだぶる、記憶の中の水槽とを振り払うように。

生きて微笑む恋人の顔を思い浮かべた。








* * *



「遅かったじゃないか」

「ああ…。ちょっと上司に捕まって…」

キヨタカは、コートと鞄を置きながら、ソファにもたれて雑誌を読むヒカルを見つめた。

テーブルの上にはキヨタカの愛飲のブランデーが置かれてる。

飲みかけグラスと、つまみ。

ほんのり上気した頬に、血の通ってることを感じる。

ああ。彼が生きている。

そしてそばにいる。

そんなことを、思って胸が詰まった。

「キヨタカ…どうかし…?」

ヒカルの問いかけが言い終わらぬうちに、彼を抱きしめた。

ソファに腰掛ける彼の前に立って、腰だけ屈めて抱きしめる形になる。

夜気で冷えた身体に、ヒカルの体温が染み込んでくる。触れた頬が温かい。

その温かさに心が満たされる気がした。

大切なものを失いそうになって、絶望しそうになった世界。

しかし、それは彼の生によってあっという間に色を取り戻す。

世界は一瞬で変わる。

輝くのも一瞬だ。

ヒカルは、そのままキヨタカに身を預け、自分の腕を回した。

「愛してる。ヒカル…。お前だけを」

そう言って、唇に口付けを一つした。

顔を離すと、少し驚いたようなヒカルの表情が見え、それから、ほころんだ笑顔を見せた。

「俺も、愛してる。キヨタカだけを」

その微笑みを慈しむように両手で包むと、今度はもっと深い口付けを落としたのだった。



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