▼星+リク・過去
あの日あの時あの場所を歩いていたのは全くの偶然だったし、かなり珍しいことでもあった。普段ならこんな繁華街に一人で足を運んだりしない、それも学校帰りに。優等生のこの僕が。詳しい事情は忘れてしまったが、その日は何かしら大事な用があったんだ、たぶん。それであんな不幸にあったんだから、全く、変わったことはするもんじゃない。
…ひったくりに、あいました。
自転車とのすれ違いざま、まさに一瞬の出来事。いくら僕でも、流石に止めようがない。昨今の犯罪の鮮やかさに感心すら覚えたほどだ。何故、よりによって学生鞄なんか盗もうと思い立ったかは謎だが、その嗅覚だけは褒めてやってもいい。鞄の中には、他でもないこの僕…市ノ宮行の財布が入っていたのだから。
いきなりのことに声も上げられず、その場で途方に暮れている……筈もなく、僕は立ち止まってこれからどうすべきか冷静に考えていた。
携帯はロックがかかってるから、仕事上重要な情報は漏れたりしないはずだ。とりあえず、カードを止めるのが先だな。それから高井を迎えに寄越そう。あの不届き者を探し出すのはその後でいい。市ノ宮の力で探し出せない人間なんていないから。ふふふ。一生後悔させてやるよ、この市ノ宮行を敵に回したことを。
「…おい、そこの中坊」
ぶつぶつ呟いていた最中、変なやつに声をかけられた。ちらっと見やると、やたら背の高い、若い男の姿。この騒がしい街にピッタリ馴染む、つまり僕とは住む世界の全く違う人種だ。まさか知り合いの訳もないし、しばらく自分に話しかけていることすら気付かなかった。
「おいって!シカトかよ…」
「…へ?僕…ですか?」
「お前以外に中坊なんかいねーだろ」
確かに、こんな街を制服姿で歩く人間は少ない。その特異性に、行自身が気付いているかは別として。
「僕に何か用が?」
「いま偶然見てたんだけど。これ、お前のだろ?」
そう言って、差し出されたもの。…急速に、目の前が真っ暗になっていった。見間違いじゃなければ、今手渡されたのは間違いなく、ひったくられたはずの自分の学生鞄だったからだ。
「あんまぼさっとしてんなよ。このへん物騒だからな」
「あ…」
「犯人には逃げられちまったけど、まぁ、無事返ってきたからいいよな。なんなら後で警察に…」
男が発する言葉が、まわりの音が、すうと遠ざかっていく。
とすると、この人がうっすら汗をかいていて、軽く息切れなんかしちゃってるのも、気のせいではなく…
「あ、あなたは、」
「あ?」
「な、なんて、ことを」
助けられてしまった。それも、全く知りもしない赤の他人に。
やばい、くるしい、いきができない!
急速に気管が縮こまり悲鳴をあげ始めたのに耐えきれず、胸元を掴んで地面にしゃがみこんだ。ああ、シャツは皺になるしズボンは汚れるし、もう最悪だ。
「お、おい!いきなりどうした?」
「あ…っ、くる、し…」
「なんかヤバイ系?救急車呼んだ方がいいか?」
「…!や、やめて下さ…」
まずい!救急車なんて呼ばれたら、それこそ一体何人の人間に借りを作ってしまうんだ?
ごそごそポケットを探る男を必死に止めようとしたら、携帯と一緒に出てきたぐしゃぐしゃの紙きれが何枚か見えた。何だろうアレ、何かの…チケット?けど、どうしてこんなに無造作に。それも、どうやら同じものが何枚も。
そこで行は改めて、目の前の男の容貌に注目した。明るい色の、奇抜な髪型。ちゃらちゃらした(行にはそう見える)服装とアクセサリー。背中に背負った、何やら大きなケースが一つ。
僕の周りにはいないけど、ひょっとして、これは一般庶民の話に聞く……
「ど、どうした?もう平気なのかよ」
呼吸の苦しさは、いつのまにか収まっていた。ズボンを叩きながら立ち上がり、男がしまいかけたそのチケットを指差す。
「それ、」
「…あ、これか?ライブチケットだけど」
「ライブ……コンサート?」
「ああ。そんなもんだ」
やっぱり。カチカチカチと、自慢の優秀な頭がものすごいスピードで演算をはじめる。
「お兄さんが、でるんですか?」
「まあ、いちおうな」
照れているのか、ごつい指輪のはまった指で、ぽりぽりと頬をかいている。にわかに見えた光明に、行の顔が輝き始めた。
「失礼ですが、有名なミュージシャンか何かで?」
「ハハ、バレた?何を隠そう俺は今をときめく…って、言えたら格好いいけどな。無名で悪かったな」
「……」
「まだ全然人気ねーし、チケット余ってんだよ。ま、人助けだと思って、暇だったら見に来てくれよな」
「人助け、」
手渡されたチケットに、思わず、小さなガッツポーズがでた。やっぱり思ったとおり、これは早速借りを返すチャンス到来じゃないか!
「お兄さん」
きらきら輝く目で男を見上げると、態度の豹変を気味悪がったのか、少し身を引かれた。ふふん、逃がしてたまるか。
「このチケット、お値段は」
「値段?ドリンク代別で、千円で売ってるけど…。安心しろよ。流石に中学生から金はとらねえから」
「僕が、あるだけ買い取ります」
「ああ?」
手元に返ってきたばかりの鞄から財布を取り出し、中に入っていた札を抜く。チケットの代わりに、その全てを手渡した。ぽんと、無造作に。
「とりあえずこれで。足りない分は後日振込みますから、口座番号を…」
「ちょ、ちょちょ、待てよ!」
握らされた札束を見て、彼はぽかんとした顔をしている。言葉の先を邪魔されて、少し不機嫌そうに眉をひそめてしまった。
「な、何だよこの金…。30万はあんじゃねぇの?」
「ですから、足りない分は後からお支払いすると…」
「おいおいおい!……お前、何者?」
「僕ですか?僕は…」
コホンと咳ばらいをして名乗り出ようした瞬間、
「あー待て、いい。よく見りゃその制服、すげーお坊っちゃま校だろ。だいたい想像つくし、別に男の素性に興味とかねぇから」
なんだよ、出鼻をくじかれた。せっかく、助けた人間がこの市ノ宮行だったという幸運を知らせてやろうと思ったのに。
「…何にせよ、こんな大金受け取れるか」「あげるだなんて言ってません。僕は、あなたのチケットを…」
「お前な、ライブを何だと思ってんだ?小っちぇハコでやんのに、チケ全部捌いてもこんな金額にはならねえよ」
「そうなんですか?」
いつも父に連れられる大きなコンサートホールを思い浮かべて、首を傾げる。あれより小さめのホールなのか。どんなところだろう。
「とにかく、ガキから金なんて受けとれねーよ。じゃあな」
そっけなく札束をつき返してくると、男はあっさり踵を返してしまった。正直焦る。
嘘だろ、もしかして、機嫌を損ねてしまった!?
「ま、待ってください!借り、返さないと…!」
足を止めた男が、振り返る。
「なら、ライブ見に来れば?同情でチケット買ってもらうより、俺はそれが一番嬉しいから」
じゃな、とひらひら手を振りながら、今度こそ男は去っていった。何度声をかけても、もう振り返りもしない。
取り残された僕は、しばらくの間、手元に残ったぐしゃぐしゃのチケットを見つめることしかできなかった。
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