▼カナタマ・逃避行中



いつでも誰のもとにも、朝は等しく訪れる。時にやさしく、時に残酷に。


ぼんやり開いたタマキの目に、染みだらけの汚い天井がとびこんでくる。

安ホテルのベッドは、寝心地がいいとはとても言えない。スプリングはきかないし、シーツはいかにも年季入り。部屋には窓もないから、朝日だってあびられない。

けど、タマキにとっては、穏やかで心地好い覚醒だった。隣に何にもかえがたい体温があるだけで、世界がまるっきり色をかえてしまうふしぎ。

「…カナエ」

まだ少し重い身体を起こして、はっと気がついた。…隣の恋人は、いつものロザリオを胸の前で握りしめ、真摯に祈っていた。影を落とす長い睫毛。均整のとれた身体。組まれた長い指。そのすべてに、目を奪われてしまう。

一糸纏わぬ姿で祈りを捧げる姿は、まるで神聖な宗教画のようにキレイで。それ以上、言葉が出てこない…。

「…タマキ君、おはよう」

やがて瞳を開いたカナエが、へにゃりと気の抜けた顔で笑う。やっといつものカナエが帰ってきた気がして、なんとなくほっとした。

「…ごめん、邪魔しちゃったな」
「ううん、もう大丈夫」

ロザリオをヘッドボードに置いて、そっと髪をすいてくれる。あやすような仕草はいちいち照れくさいけど、髪の毛一本まで愛されてるような幸福な錯覚に酔ってしまう。だから、カナエの指は好きなんだ。

「なあ、さっき何祈ってたんだ?」
「え?」
「ずいぶん、一生懸命だったし…」

きれいだけど、なんだか、哀しく見えたから。

柔らかいブラウンの瞳が、一瞬、意味ありげに揺れた気がした。

「……」

不意に腕をひかれて、その腕の中に囲われてしまう。柔らかい毛先が頬にあたってくすぐったい。

「カナエ?」
「いまの生活がね、幸せすぎて…。俺には不相応なものだから、怖くなるんだ。いつまで続くのかなって」
「そんな!俺は…」

必死に首を左右にふる。だってこれは、俺が自分できめた道だから。これからずっと、お前と一緒に歩いていくこと。

「うん、わかってる。だからこそ余計に…ね」

カナエの繊細な指先が、そっとタマキの頬を撫でた。

「幸せは大きすぎるほど、失くした時につらいから」

その切実な言葉に、きゅっと胸がしめつけられる。

そりゃあタマキだって、カナエと一緒にいられればそれでいい。他には何もいらない。そのために、愛する家族も仲間も仕事も全て捨ててきたのだ。

…けど、毎日追っ手に怯えながら、こそこそと隠れ暮らす日々が、ほんとうに幸せって言えるのか?

「この生活が、ずっと続けばいいって祈ってたのか?」
「…まあ、そんなとこかな」

カナエは、曖昧な表情で微笑む。これまでの彼の不遇な人生を思って、たまらなくなった。

「おれは、おまえを、もっと幸せにしてやりたいよ…」

その指に自分の手を重ね、思いをこめてぎゅっと握りしめる。今までこの掌からこぼれていった分の幸せも、ぜんぶ、拾い集めてやれればいいのに。あまりに無力な自分が、もどかしい。

「いまでも、俺には十分すぎるくらいだよ…?」

遠慮や謙遜じゃなくって、きっとカナエは、心の底からそう思ってるんだ。だからこそ、タマキは余計にかなしかった。

お前はもっと、ワガママになってもいい。だってもう、十分に苦しんできただろ…?

気がつけば、タマキの頬を温かいものが濡らしていた。…参ったな、泣くつもりなんかなかったのに。
涙なんて、すべてを捨てたあの日に、一緒に置いてきたつもりだった。カナエの為にも誰より強くありたいのに、本当に俺って、情けない。

カナエは、そんなタマキの濡れた目元に、優しい口付けを落としてくれる。

「泣かないで、タマキ君」
「う…っ」

カナエの胸に顔をうずめ、タマキは、声を殺して泣いた。いまだけ、すこしだけだから。涙を忘れて大人になってしまった、恋人の分まで。

その間、優しい手がずっと頭を撫でてくれていた。



「ぐす…、ゴメン。ほんとみっともないな、俺」
「ううん。タマキ君は本当に強くて、優しくて……」

残酷、だね。

「え?」

そっと耳に届いた言葉に濡れた顔をあげ、タマキははっと息を呑んだ。

…どうして、そんなにつらそうな顔で笑うの。

その哀しい笑顔の理由を、タマキがしることはない。カナエがタマキの隣でひたむきに祈り続けた、本当の「願い」をしることも。





(この幸せに、終わりがきたとき)
(どうか君を、解放してあげられますように)





お題:悩みの種さま



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