▼敏→←夏




「…また来たのか」
「来ちゃダメなのか?」
「病院は、健康な人間の来る場所じゃないよ」
「…仕事の邪魔しないように、診療時間外にきたんだ」

確かにいまは昼休みだが、それが逆に困るとは考えないんだろうか。看護婦たちがいないから、当然二人きりになる。…いや、この利口な少年のことだ、わかってやってる可能性が高い。

思わずため息をもらし、椅子に深く腰かけ直した。さて、どうしたものか。

「それに、ちゃんと理由だってある。また膝が、痛むんだ」
「…本当か?」
「患者を疑うんだ?悪い先生だな」
「…わかった。見せてみろ」

そう言われてしまえば、ほっておく訳にもいくまい。患者用のベッドに腰かけた少年が立ち上がるそぶりはなく、ゆるりと膝を立ててみせるだけ。仕方なく、こっちから歩み寄っていく。

…と、突然、バランスを失った身体が大きく傾いだ。腕を引く力はそんなに強くなくとも、不意打ちの勝利ってやつだ。

「…っと!」

そのままベッドの上に倒れ込みそうになるのを、なんとか両手をついて支えた。その腕の中には、年相応に成長途中の身体がある。

「せんせ、」

体格はごく普通の少年なのに、見上げてくる不思議な色合いの瞳は、はっとするくらい印象が強い。…ああ認めよう、それはひどく、挑発的だ。心の奥の奥に何重にも鍵をかけてしまったものを、いともたやすく、揺さぶってみせる。わかっていてこんな真似をするのなら、ついこの間まで中学生だった少年の所業じゃない。

先生。おれは、知ってるよ。あんたの本音なんか、全部お見通しだ。

「夏野くん」

静かにかぶりをふりながら、身体を起こした。

「他に用がないなら、帰って勉強でもしたらどうだ?」

やけに明るい、わざとらしい声が出た。白衣をはたきながら窓際に立てば、ブラインドの向こうは、へどがでるほどに平穏と健全さに満ちた世界だ。

「先生ってホント、自制心強いよね」

自制心。鉄壁の理性、か。自分でも、鼻で笑いたくなるはなしだ。

「諦めが良すぎるだけだよ。昔から、な」
「ふうん…」

そんな風には、見えないけどな。

ひた、ひた、と足音が近付いてくるのを、ぼんやり遠い世界のできごとのように聞いてた。それは、なにかよく知った音に似ているきがする。

「若先生」

なんだと振り返った唇をかすめたのは、なんの技巧もない、ただ、触れるだけの一瞬の口づけ。

「……おまえさんは本当に、困った患者だ」
「諦めが、悪いだけだよ」

ちらっと口角をあげた少年の笑みは、どこか歪んで、淋しげに見えた。








(せめてあとすこし、彼が年をとっていたら。俺が若かったなら。これ以上振り回してくれるなと、突っぱねることができたのか。それとも、もっと別の未来があったとでも?)





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