▼夏徹・人狼と屍鬼
「徹ちゃんて、本当、迂闊だよな」
ぐわんぐわん。生前も経験したことのないような眩暈が酷い。輪郭をなくした世界が目の前の夏野と一緒にくるくるまわる。
…どこかで聞いたような台詞だけど、いつ、どこでだろう。考えるそばから思考は血液と一緒にじゅるじゅる吸い出されていって、とてもじゃないがおっつかなかった。
「なつの…」
「その顔…辛いの、苦しいの。吸血され慣れてる、あんたでも?」
空腹感に堪えるおれの拳のうえを、手首を、手の筋を、二の腕を。美しい指先が、丁寧になぞっていく。たくさんのみえない跡の上を辿るように。
「あっ」
たらりと肌を伝った名残は熱い舌がゆっくり舐めとっていって、その生々しい感覚にぶるりと背が震えた。俺の特異な身体は、その跡さえ、何事もない顔で消し去ろうとする。
「あんたはどうか知らないけど、俺はもう昔の俺じゃないって、わからなかった?それとも、わかってて、そんな風に近付いてきたの」
夏野のひやりとした声が耳をうつ。それがどんなに昔とは違うとしても、やっぱり俺にとって、夏野はどこまでも夏野でしかなかった。自分の手で彼を殺しておいて、つくづく吐き気がするほど身勝手な話だが。
『徹ちゃんて、迂闊、だよね』
あぁ、そうだ。回転した意識が過去にすとんと着地する。昔の夏野が、俺にそう言ったんだ。
夏野が俺の部屋にいるのが当たり前になった頃、春先のわりには肌寒い日だった。ゲームに熱中するうちに指先が冷えて、俺は不意打ちで両手を、夏野の頬にピタリくっつけてやった。なはは冷たいだろうと高らかに笑うと、いつもの悪態の代わりに夏野は少し表情を強張らせて、それからぽつんと言ったんだ。
いまひとつ意味がわからなくて首を傾げても、べつに意味なんかないよとあっさりかわされてしまった。
「なつの、うかつって、どういうイミだ…?」
それはいまの夏野へ問いかけたのか。それともあの日の彼に?
夏野は何も答えずに、真冬の三日月みたいに冷たく笑った。弧を描く唇を染める赤は最高に悪趣味なはずなのに、はっと息がとまるくらい美しかった。いや息はとっくに止まってるけど。
「ン、」
ぴちゃり。
唇が重なって、俺の温度のない舌が熱いものにねとりと絡めとられても、もう驚きはしない。ただ、俺と夏野の関係が、いびつに歪んでしまったのを自覚しただけだ。濡れた音と、くらりと陶酔しそうな甘い味。夏野との距離はゼロに近いが、あの頃よりずっと遠い。行為は恋人たちのそれでも、俺たちの関係はそれとは真逆であり。時計の針を進めてしまったのは、俺自身。
「…なあ、俺の血と、どっちが美味しかった?」
その言葉に責められ苛まれ、俺は見えない血を流し、それさえ舐めれば痺れるほどに甘美なんだろうか。
「…夏野、すまない…」
「謝らなくていいよ。許す気はないから」
半端に血を摂取して余計に強まった空腹で、本格的に意識が遠のいてきた。くるりくるりと回転する意識の中で、夏野の声だけが静かにふってくる。
なあ、徹ちゃん、知らなかっただろ。あのときも、俺がこうしたかったってこと。あんたは多分、そんな俺も許してしまうんだろう?だから、あんたは迂闊だっていうんだよ。だから、だからおれは。
不可解なそれは、幻聴だったのかもしれない。夏野の声がまるで泣いているように聞こえただなんて、余りに都合がよすぎる話だものな。
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