▼星とリク
その日何故か寝つけなかった俺は、アンプなしでギターをつまびくのにも飽きて、ワゴンから外に出てみた。
運ばれてくる風の匂いは確かに夜の色をしてるのに、俺たちの川は、やけにきらきらと明るい。なんだよ、月がこんなに明るいせいで眠れなかったんだな。お星さまにとっては嫌な夜だ。そんなことを考えながら、川辺を歩く。
そんなこんなで俺は、リクの部屋の前にまできていた。こんな時間にニノを起こす訳にもいかないし、暇つぶしとしては最適の相手だからだ。ムカつくことも多いがからかうと面白いし、部屋にも無駄に物がそろってるしな。…別に、あいつの憎たらしい顔が不意に見たくなったとか、そういう訳じゃ断じてない。
吹きざらしの風にたえながら梯を上ると、窓からはこうこうと明かりが漏れていた。まだ起きてんのか、あいつ。ノックする前に何気なく覗きこんでみて、そこで俺は足を止めた。
…そこにいるのは、荒川の住人、リクルートじゃなかった。あまり俺たちに見せることはない、もう一つの顔。
ノートパソコンと睨み合いながら、目にも止まらぬ速さでタイピングをし、かと思えば難しい顔で分厚い書類をめくる。時々苛ついたようにペンで額をつつく以外は、まったくといっていいほど無駄な動きがなかった。もちろんこっちに気付く気配もない。
こいつは、この橋の下の住人に迎えられてもまだ、相変わらずたくさんのものを背負っているらしい。この身とギター以外の全てを置いてきた俺とは違う。…それがいいことか悪いことか俺にはわからねえし、そんなもん置いてきちまえば楽なのにと時々思うけど、わざわざ気苦労しょい込んじまうのもコイツらしさなのかもしれない。
「……」
しばらく窓越しの黒い髪を見つめてから、俺は黙って踵をかえした。
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この橋の下では、昼間はあまり仕事がはかどらない。とくに、こういう雑務の処理なんかは、夜中にひっそり進めるのが当たり前になっている。
昼間は、なんだかんだここの住人たちと馬鹿やってることが多いからなあ。こうして睡眠時間を犠牲にしてもそっちを優先してしまうんだから、俺も相当毒されてるらしい。
普段は隙のない俺でも流石に連日の睡眠不足がたたったのか、キーボードに手を乗せたまま少しうとうとしていたようだ。
そこへ突然の、後頭部への衝撃。
「ったァ!」
「居眠りしてんじゃねーよ」
「ななな何……って、星?」
何故か不機嫌そうな顔をした天体が真後ろに仁王立ちしていた。いつのまに?てかコイツ、何勝手に堂々と人の部屋に侵入してるんだ?
いろいろと文句が脳裏をよぎったが、口に出していつものようにやりあうには、疲れすぎていた。仕事はまだまだ山積みだ。
「あのなぁ。悪いけど、いまお前に構ってる…」
「俺だって、こんな時間までお前と喋りたくねーっつの。じゃな」
驚くほどあっさり部屋を出ていった星に、あっけにとられる。
「…なんだよ。
あいつ、何しにきたんだ?」
首を傾げながら視線を机に戻すと、さっきまではなかった筈の銀に鈍く光るものがあった。なんだこれ?
「…魔法瓶?」
どうやらさっきの衝撃は、これで軽く後頭部を殴られたらしい。殺す気か。
「……」
中身をカップに注いでみると、まだかなり熱いままらしくふわりと湯気がたった。あまい匂いがただよう。
「って、コーヒーじゃないのかよ」
まだまだ夜は長いのに、中身はいかにも眠気を誘いそうなココア。あいつなりの気遣いかそれとも嫌がらせなのか、判断に悩むところだ。
それでも、なんの気まぐれか湯をわかし粉末を溶かし魔法瓶に注ぐマスク姿を思い浮かべてみると、おもいのほか間抜けで笑い出したくなった。
カップを手に持ってドアをあけ、扉の外へ。…ああ、今夜はこんなに明るかったんだな。仕事に夢中で気付かなかった。昼間とはまた違う川の煌めきに目を奪われる。
おおきな月は、一つの安っぽいお星さまがのろのろ川べりを進んでいくさままで、平等に照らしだす。
「…こんな時間まで、人の仕事邪魔するなよな」
心にもない悪態を諌めるように、優しい甘さが口の中いっぱいに広がっていった。