電車から降りると外はどしゃぶりだった。朝は晴れていたのにと小さく舌打ちをする。この時期の雨は冷たい。冷え性の指先が凍ったように冷たくてでも傘を買う気にはならなかった。金がないわけじゃない。この冷たい雨に降られれば何かがさらさらと流れていく気がしたからだ。 マンションにつくとふと違和感を感じた。入り口に、人が座っている。ここは住んだ後に知ったのだが高級マンションとして有名で浮浪者なんかが近づくことは滅多とないことだった。俺はその座り込んでいる男をじいと見ながらマンションの認証パネルを弾いた。 「ねぇ」 深い深い闇から這い出てきた魔物のように得体の知れない声に聞こえた。実際にはそんなこと全くなく、普通に人間の声だったのだがなぜか闇を思わせる声に聞こえた。 俺は最後の認証番号を押す手を止め、ゆっくり男の方を向いた。相手もこちらを見ていて、鮮やかな橙色の髪が何より目に留まった。 「君、若いのにいいとこ住んでるね。」 男はふらふらと立ち上がる。スウェット姿の男は年齢も職業も善人か悪人かすらもわからない。 「ここ、君の家あるんでしょ?」 「……」 「ひとり暮らし?」 「そう、だ」 男が俺の濡れた指先に触れた。冷たいね、可哀想と言った男の声は優しかったが俺は思いきり手を振り払い後ろへ下がった。男は驚いた顔を一瞬浮かべ、あら、不潔恐怖症?と訊ねてきた。 「ごめんね」 「いい、別にそういうんじゃねぇ。俺の方こそ悪かった。だが、あまり俺に、触れない方がいい。」 雨に濡れた体は温度が逃げていくのか、それとも先ほど触られたことに未だ恐怖を感じているのかよくわからないが兎に角寒くなった。 「ふるえてる。寒いでしょ、そんなびしょ濡れじゃぁ。」 「ああ、だから一刻も早く部屋に帰りたいんだが。」 俺は馬鹿なんだ。そもそもなんでこんな変なやつと会話をしているんだ。現在の状況にばかばかしくなって最後の番号を打とうとしたら男がさらに距離を詰めてきた。 「ねぇ俺を飼わない?君のその悲しみを埋めてあげられるかもしれないよ。」 男の一言に一瞬思考も行動も停止する。それでも指先を動かせば自動ドアが開く。深く考えないように足早に自動ドアを抜けるが男ものこのことついてくる。冗談じゃない、飼うってなんだ。見ず知らずの人間によくそんな変態めいたことが言えたもんだと俺は恐怖やら怒りを通り越して呆れてしまった。 「なんでお前…ついてくるんだよ。」 歩みを止めて訊ねると男も足を止める。 「やー俺ってば住む場所もお金もなんもないからさ、君に飼って欲しいなぁと思って。君なんだか寂しそうなんだもん。丁度いいじゃない。」 悪びれる様子もなくそう言った男に俺の思考も浸食されたのか。ペットとしてなら飼ってもいいかもしれないという馬鹿げた考えが思考を支配した。 「わかった。ならお前を今からペットとして飼ってやるよ。」 数分前会ったばかりの人間を部屋に入れる日が、それどころかこれから一緒に暮らすことになるだなんて微塵も思っていなかったがどうやらこれは現実らしい。 「わー広っ!てか物少ないねぇ。」 「冷蔵庫のもん勝手に食っていいから。俺風呂入ってくるし。」 「あ、そう。」 何か言いたそうな男を放っておいてバスルームに入り濡れたままのシャツを脱ぐ。全身が冷たい。温度を熱めに設定してシャワーを浴びるとさっき雨に降られたときと同様になにか、俺の中の悪いものが流れ出ていくように感じられた。毎日毎日そんな気がしているのに、俺は一向にきれいにならない。 「ねぇ、背中流そうか。」 「──っ!」 突然の声にぐるぐるとまわる思考はカットされる。というより他の、もっと重要なことに思考がもっていかれる。 「ば、入ってくんな」 「えーなんで?ペットだからご主人様を癒すんじゃない。」 男は無遠慮に入ってきたが俺はもう指の先が寒くもないのにふるえていて声も出ない。ひたりと男が俺のうしろに立ち、腕を回してきた。そんなことにすら抵抗できずにいると男がくつくつと笑った。 「やっぱり、不潔恐怖症じゃないんだね。」 くつくつ笑いが止まったかと思えば男の手がゆるうりと上にあがった。俺は最早、涙目になっていた。 「泣かないで。大丈夫、君はとても美しいんだよ、政宗。」 闇から這い出てきた男は俺の名前を知っていた。 |