蘇芳さんから | ナノ


雪哉は今、自分の行動範囲の中で一番天国に近 いと思われる場所で、風に融けていた。頬を撫 でる風は、夏に向かって生温い。普段誰も入っ てこない2時間目の屋上。今日は普段通りじゃな かったことを覚えている。何をするわけでもな く静かに目を閉じていると、割りと大きめの音 を立てて現実へと繋がる扉が開かれた。

「あれ?お前、何してんだよ?」

放っておいてくれればいいのに、と思いながら も、声の主の方を振り返った。

「今日は直乃と一緒じゃないんだな。」

「今は授業中」

素っ気なく返事をした雪哉の様子は全く気にし ていないようで、無遠慮に雪哉の隣に立った。

「何?」

満面の嫌悪感を相手に向けるが、さして効果は ないようだった。先程までの雪哉と同じように 目を閉じると、そのまま話し出した。

「お前、ここで何してたの?」

「天国に一番近い気がするから」

「だから?」

間髪入れずに挟まれた問いに明らかに不機嫌そ うな顔をした雪哉だったが、どうやら相手には 通じなかったらしい。

「その時を待ってる」

「天国に行けそうな時をか」

「うん」

くるっ、と音がしそうな勢いで振り返った相手 は、女子のように雪哉の顔を覗き込んで言っ た。

「いつまでも待ってたって、そんな時、来ねぇ よ。もっと天国に近い場所、教えてやろう か?」

家と学校までの往復しかしてこなかった雪哉 が、こんな場所を知っているはずもなく、二人 は今塩辛い風に融け込もうとしていた。

「綺麗だね、海って」

「いや、ここだけだよ」

潮風に乗って後ろに流れ行く雪哉の声を拾っ て、それ以上に大きな声で返事をした。

「俺のプライベートビーチだ」

へへ、と鼻の頭でも掻くような声色で、機嫌良 さげに笑う背中に、直乃に対して罪悪感が浮か んだ。今ごろ探してるかな、お昼一人で食べる のかな。

「ほら、もうすぐだっ」

自転車のまま砂浜に突入し、柔らかい地面にハ ンドルが取られ、二人して車輪の上でバランス をとる。あっ、と声を上げた時にはもう遅く、 二人はずぶ濡れになっていた。

「冷たい」

季節の割りには少し冷たく感じる藍色は、下着 まで濡らし、革靴の中にしつこく満たされてい た。

「ここで一日中何も考えずに寝てたら、天国な んてすぐにでも行けちゃうぜ」

す、と目を閉じると、何かに侵食ていくような 感覚が広がり、怖くなってすぐに目を開けた。

「あぁでも、冬なら一日いなくても行けちゃう な」

「冬まで待てばいいんだね」

「そうだな、その時は、いずれ来る」

向こうに広がる水平線を眺め目を細めながら相 手は言った。

「早く来ないかな、冬」

俺は冬嫌いだよーと、まるで山びこを試す時の ように、ずっと遠くに声を投げた。その勢いに 取られ、一歩二歩、よろついた。

「何でさ、女って何でもかんでもすぐ言っちま うんだろうな」

ばしゃん、と音を立てて倒れ込んだ彼はもう全 身ダメになっていた。

「人の悪口だとか、他人の恋バナだとか、噂と か好きだし。」

「何言われたの」

ごろん、と水の中で横になった彼は、大きな手 の平で水底の固まった砂を掴み上げた。

「好き、ってさ。そんなこと言われても知ら ねぇよ。断りゃ泣かれて、次の日にゃ悪口だ ろ?」

雪哉も同じように寝転んで、髪に砂が絡むのも 気にせず寝返りを打った。
「いつまでも待ってたって、そんな時、が来な いからじゃない?」

がばっ、と起き上がった相手は、今度は大きく 口を開けて笑い、雪哉にの顔に水をかけた。

「言うじゃねぇか」

「やられたらやり返すの」

今度は雪哉が相手の顔にぱしゃりと水を跳ねさ せた。

「でも俺よりは賢いよね。その時が来ないって 自分で気付いたんだから」

「そうかぁ?」

「うん」

弱々しく呟いた雪哉の言葉を最後に、少しの沈 黙が並波の音と共に二人の距離を隔てた。

「なぁ、」

突然眩しすぎる光が遮られ、その直後、僅かに 残っていた光も遮られた。寝転がっている雪哉 の頬に、波が小さく打ち寄せる。冷たさにはも う慣れた。あぁ、今この唇に触れているもの が、あの人のそれだったなら。

「俺のファーストキス、ある意味レモンの味だ ぜ」

「酸っぱい、の間違いでしょ」

このキスは、しょっぱい。二人の声が重なっ た。

「しょっぱい」

もう一度呟いて拭った唇は、もうとっくに甘 酸っぱいレモンの味を知っている。



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