浸染7




 由紀は俺に惚れているらしいから、俺の唇に触れたいと思ってもおかしくは無い。

 ただそれによって、俺がこんなに幸せな気持ちになっている理由がわからない。

 そうだ。意味がわからない。

 ほんの一瞬、不器用に触れてきた冷たく柔らかな感触がまだ俺に残っていて…その心地よさがまるで唇からジワジワと浸染していくように全身を癒やしていく感じがする。


(こんなキスをされたのは初めてだな…)


 由紀はまだ顔を赤らめたまま、俺の後ろから付いてきている。

 不思議な感覚に意味がわからない俺は、自分の唇に指を這わせ、理由を探していた。





 会話も無く歩き続けて、わりとすぐに由紀の家に着いてしまった。

 その外観を見上げ、この由紀がちょっとした名のある家柄の令嬢なのだと、今更ではあるが、実は毎度のことながら驚いている。

 いつ見てもデカい家だ。こんな地味なナリして社長令嬢とは、世の中まったくわからないものだな…。

 そんな事を考えながら、家に到着したことを伝えようと由紀の方へ視線を向けた。



「………?」


 何故だろう…由紀は静かに泣いている。



「……お前…今日は本当に変だな」

由紀
「…変なのは先輩です」


「!…なに?」
(な、なんだ…?)

由紀
「………」


 ポロポロと雫を落としながら、怒っているような困っているような、それでいて悲しんでもいるような…そんな顔で泣いている。



「なんだ…俺にわかるように説明してくれ」

由紀
「先輩にキスしたいと思ったのはわたしですけど…」


「…そんなことか」

由紀
「そんなことじゃないです」


「…」

由紀
「先輩にとってはどうでもいいことかもしれませんけど…わたしにとっては、初めてなのに…平気で居られるわけがないじゃないですか」


「…」

由紀
「…」


「……そうか…初めて…か」


 俺にだって、誰にだって《初めて》というものはある。

 俺が初めて誰かと触れ合った時は、残念ながら特に何も感じなかった。

 ただその時そうしたいと思っただけの、物理的快楽しか無かったからな…。

 だから…こんな由紀の気持ちには気づかなかった。

 本来ならもっと大切に扱うべき事柄なんだろう…きっと。



「悪かった…確かに俺は、おかしいのかもしれないな」

由紀
「………」


 そっと、由紀の頬をつたう涙を指で拭ってやりながら、素直に謝罪の言葉が漏れた。

 …それにしても。

 こう何度も泣かれると、さすがに俺も慣れてくる。

 まぁ、涙の理由がわかるからなんだろうが…



「…………」

由紀
「………」


「……そんなに悲しそうに泣くな」

由紀
「だって…後悔してるんです」


「…何をだ」

由紀
「…気持ちを伝えたことも、キスをしたことも…全部です」


「………俺が」

由紀
「……」


「それを…嬉しいと言ってもか?」

由紀
「………嬉しいと思ってくれるんですか?」


「……当然だ。俺はお前に好かれているとは思っていなかったからな」

由紀
「…」


「……」

由紀
「先輩って…凄く鈍いんですね…」


「……そう思うならそれでもいいが」


 俺が微笑むと、つられるように由紀も笑った。

 涙に濡れた笑顔を見ながら、こんな泣き顔なら、少しは俺にでも愛おしく感じることもできる…そんな不思議な感覚さえ心地よく感じていた。







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