合鍵1



 突然夜中に押しかけた俺を何の躊躇いも無く部屋にあげ、紅茶を差し出してくれる美樹は、本当にいつも通りで少し驚いた。


美樹
「……手」


 俺の横に座り、俺の右手を指差す。



「……あ」



 俺の右手は、大きく切れて血が出ている。

 これじゃ何があったのか丸わかりじゃないか。



美樹
「…喧嘩に、なっちゃったんだね」



 そう言って美樹は、手当てを始めた。




「っ!……痛ってぇ〜」

美樹
「ちゃんと病院行ってね?早く治さなきゃ…ギター弾けなくなっちゃう…」


「…大丈夫だよ。こんなのすぐ治る」

美樹
「…こんなに怒ってくれたんだね」


「………」

美樹
「………」



 次の言葉が出ない。

 怒る?あぁ、そりゃ怒るよ。

 自分が許せない。

 喉まで来ているのに、それを言っていいのかわからない。



 俺が黙っているのを気にも留めていない様子で、美樹の手当ては続いている。

 一回り小さいその手がとにかく愛おしい。

 こんな時なのに俺は胸がいっぱいで、このまま時間が止まればいいとさえ思う。



美樹
「あの頃は、こんな怪我してるのを見たら怖くて仕方なかったけど…平気になるもんだね」


 美樹はそう言うとクスッと笑った。



「…あの頃?」

美樹
「1年生の頃。よく、涼と蓮が喧嘩してたから…」


「あぁ…アイツらの相性ってよくわかんないよな」

美樹
「仲がいいのか悪いのか…変な関係だよね」


「…バカなんだよバカ」

美樹
「ふふっ」


「………」


 傷の手当てが終わった俺の右手を、そっと掴んだまま軽く笑う美樹。


 その美樹に今、どうしようもなく触れたい。そんなどうしようもないくらいの衝動が襲う。


美樹
「?」







 ほんの一瞬だけ、微かに触れた、美樹の細い指の感触。

 最後なんだ。これくらい許してくれ。

 そんな気持ちで顔を上げると、美樹は驚きもせず俺を見ていた。


(今しか無いよな…)


 いつも首からぶら下げていたこの部屋の合い鍵。そっと首から外して、美樹の手に握らせた。


美樹
「………これ」


「勝手に作ったんだ。ごめんね、でも…もう来ないから」

美樹
「………」


 美樹は何も言わない。

 俺はそれを了解の返事と受け取って、そっと部屋を出た。



















 美樹の部屋を後にして数分。なんとなく家にも帰りづらくて、ブラブラと夜の街を歩いている。


(だけど、財布もケータイも家に置いてきちまったし…さて、どうしようかな)

(それにしてもさっきから腹のムシがうっせーな…)

(こんな時でも普通に腹が減るってのも困ったもんだな…てか俺の体なんだから空気読めよ)



 鳴り止まない腹の虫に困り果て、それでもダラダラと歩きながら、どうしようもない寂しさをかみ殺す。

 気づくといつの間にか、自分の家とは正反対に進んでいたらしく、一舞や涼が住むセレブ住宅街付近に来てしまっていた。



 こんな時間に、連絡手段も持たずに入れてもらえるワケがないんだけど。困りながらも足を止めることが出来ない。

 そんな俺の背後から、聞き覚えのある排気音が近づいて、俺の横を通り過ぎる…。

 俺を追い越して行ったその車は、翔さんのダッジ・マグナムだ。


(今帰りか…一舞も一緒なのかな…)



 ふと、別荘で仲良くキッチンに立っていた2人の姿を思い出して、うらやましいような、おかげで更に寂しいような気持ちになった。


(うわぁ…俺、バカだ…)


「?」


 そんな気持ちで足を進めていると、車を車庫に入れ、降りてきた翔さんが、門の前に立って俺を待っているようだった。




「…珍しいな」



 翔さんの目の前を通りかかりそうになり、挨拶をしようと口を開いた瞬間、先に声を掛けられた。



「……お疲れっす」


「…寄ってくか?」


「…いいんすか?」


「忙しいなら無理にとは言わないけどな」


「……寄らせてもらいます」


 翔さんの黒笑いに導かれ、藍原邸に入る。




「…あの…一舞は…?」


「…解散してすぐに送ったよ。さすがに合宿明けで家に帰さないわけにいかないだろ?」


「……そっすね」



 通された藍原邸のリビング。ずいぶん見慣れた室内で、翔さんと2人だけってとこにやけに緊張しながらソファーに座る。




「…美樹んとこに行ってた割にはふさぎ込んでるな」


「…な…んでそんなバレバレなんすか」


「いつもそうだろ?ただ…いつもはもっと楽しそうなんだけどな」


「………」


「それにその手…お前が誰かを殴るなんてのも珍しい」


「………ちょっと…兄弟喧嘩しただけっすよ」


「…………なるほど」


「……」


「……」



 俺が黙ると、翔さんも黙ってタバコに火を点けた。

 静まり返るリビング。漂う煙。翔さんはもう、何も聞いては来ない。


 静けさのせいなのか、頭の中でグルグルとさっきまでの事を考え始める。


 もう美樹とは一緒に居られない。

 俺と一緒にいたらきっと、思い出すから。


 もう傷つけたくない。泣かせたくない。

 諦めるんだ。

 それが…俺が背負う責任だよ。

 きっと出来る。






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