悲観2





 ずっと、学ちゃんや翔と一緒に頑張ってきたのに…。

 透瑠くんの音は、なくてはならない音なのに。

 なのに、デビューするって時になってリタイアだなんて……なんだか涙が出そうだ。


一舞
「…ねぇ…ピアノに専念するって、もう店に来ることも無くなっちゃうってことなの?」

透瑠
「……そうだね…そういう暇は、無くなるかな…」

一舞
「…涼ちゃんのライブも見れない?」

透瑠
「…はは…俺が見てたら涼が気ぃつかうよ」

一舞
「……」

(…なんで?)


 どうしてこの人は、こんなに優しく笑えるんだろう。

 こんな時に見せる弟想いな一面ほど、見ていて苦しいものは無い。


一舞
「………透瑠くん」

透瑠
「ふふっ…難しいクラシックをまだまだい〜っぱい練習して、コンクール出たり、留学したりして、最終的に透瑠くんはイケメンソリストになるんだよ。だから悲しくなんかないんだよ」

一舞
「…コンクール」

透瑠
「そう。世界中の超上手いソリスト志望者と競うんだ…で、クラシックの本場でちゃんと活動できるようにならないと…」

一舞
「……」


 悲しくないなんて嘘だ。諦めなければならない事情は分からないけど、好きだから今まで頑張っていたのに、悲しくないわけがない。

 でも、これからを語る彼の目は、今まで見たことのない真剣な目。

 もしかしたら、透瑠くんにとっての全ては、バンドだけではなかったのかもしれないと思わせるような表情。

 あたしには彼の真意を読み取ることはできないけど、きっとどちらも大切なものなのかもしれない。だから、悲しいだけじゃない。そうならいいなと感じた。



透瑠
「あ!ねぇ一舞ちゃん!一舞ちゃん!」



 突然いつもの口調に戻り、あたしの制服を摘んで引っ張る仕草をする。



一舞
「うっ?な、何?」


透瑠
「アドレス教えてよ!てか、俺から一舞ちゃんに時々メールしてもいい?」

一舞
「…え……うん…いいよ?」

透瑠
「ありがとう。返事は要らないから受け取ってね」

一舞
「そんな…ちゃんと返事するよ」


透瑠
「…ありがとう。一舞ちゃんは本当に優しいな」

一舞
「……」


(やっぱり無理してるのかな…)



 とにかくあたしは、早く早くとケータイを握りしめて待ち構えている透瑠くんに急かされて、赤外線を構えた。

 互いのケータイに登録が完了すると、彼はニコニコと頬を緩める。

 その顔はまるで、新しい玩具を手に入れた子供のようにも見えて、少し気持ちが安らぐ。



透瑠
「へへ…嬉しいなぁ」

一舞
「……寂しくなるね」

透瑠
「…うん…そうだね」



 せっかく安らいだ空気を壊すように言ってしまった一言。でも透瑠くんは、先ほどよりも安心した笑顔で頷き応えてくれた。


 透瑠くんは少し他の男の人とは違う感じがあるから、よくそれで、店でもおもしろ騒動を起こしてたけど。会えなくなると思うと本当に寂しく思えた。



一舞
「…あたしが、涼ちゃんとの事で泣いた時…透瑠くんが優しいピアノ弾いてくれて、凄く救われたよ…ありがとう…」


(って…こんな事言ったら本当にお別れみたいになっちゃうじゃん!)


透瑠
「……」


 あたしの言葉を黙って聞きながら、透瑠くんはニコニコ微笑んでいるだけで、何も言わなかった。




















 珈琲を飲み干し、カップが空になると…透瑠くんは帰ろうとする。


一舞
「透瑠くん…」

透瑠
「…ん?」



 あたしの呼びかけに立ち止まって、静かに振り返ると…今日見たどの顔よりも悲しげな笑顔で呟いた。



透瑠
「…やっぱり……ちょっとだけ抱きしめていい?」

一舞
「………ん」



 あたしが両手を広げると、背中に頼りない感触が伝わる。

 透瑠くんの細い腕…あたしを抱き寄せる腕の力は、やっぱりあまり強くはない。

 あたしは、そんな透瑠くんの仕草に応えるように彼の背中に手を当てて、慰めるように撫でた。


 これが…本当の透瑠くんなんだろうか?

 仲間と離れてでもピアノを続けることが透瑠くんの役割だなんて。それをずっと抱えてきたんだとしたら、今までいったいどんな想いで居たんだろうか。

 女の子よりもか弱く感じるその体を抱きしめながら、物凄く切なくなった…。







…………………



……………



………








 本当にちょっとだけあたしを抱きしめた後、透瑠くんはニッコリ微笑んで帰って行った。


一舞
「…頑張ってね」



 藍原邸の広い玄関で、その背中を見送りながら小さく呟いて、ゆっくりとリビングに戻る。





「…」

一舞
「わっ!?…ってか、起きてたんだ」


「…あぁ」


 リビングに戻ると、目を覚ました翔がソファーに座ったままで、難しい顔をして待っていた。


一舞
「……翔?」


「…ん?」

一舞
「透瑠くんのこと………知ってた…よね」


「……あぁ」

一舞
「……だから、おめでとうって言った時、困った顔したんだね」


「……」

一舞
「……」

(翔も寂しいんだ…)


一舞
「…ね…珈琲飲む?」


 下を向いて黙ってしまった翔がなんだか痛々しくて、あたしは慌ててサーバーに手をかけた。





 フワッと、あたしの体を甘い香りが包んで、耳元に、翔の声が触れる。




「…ありがとう」

一舞
「……」


 後ろからあたしを抱きしめて、肩に顔を埋める。

 あたしはそっと、首元にある翔の頭を撫でた…。



 何も言わないし、もしかしたら泣いてたりするのかな…と感じたけど、しばらく動かずに、何も聞かずに…

 そのままでいてあげようと思った。






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