- ナノ -


 部屋の片づけを始めると止まらないタイプで、一つ片づければあれもこれもと気になって、普段はしないような大きなものの洗い物までしたくなって、家の隅から隅までピッカピカにする作業に夢中になった。塵埃一つも残したくなくて掃除機と雑巾を駆使し、クリーナーであちこち拭いて、窓まで磨き上げて、どうせだからとカーテンまで洗うことにした。
 そこまでしてようやく普段着の洗濯が終わっていなかったことに気が付いて頭を抱えた。先にこっちの洗濯を済ませておくべきだったと後悔する。とりあえず色物だけでも分けておこう。
 この際だ、大掃除のつもりで古い下着や着ない服を捨ててしまおう。そうしたら先にクローゼットの整理だ。脱衣所から移動してクローゼットを開けて、真っ先に目に入ったのが綺麗にアイロンがけしてある黄色いスカート。あまり派手な色を持たない私服の中で一際目立つそれを、手にとって、私は。

『壮絶な戦いの末、勝利を掴んだのはダンデだー!!チャンピオン防衛の成功です!!恐ろしい程に鬼気迫る容赦のない猛攻撃でした!!その様はまるで鬼神のようですらある!!ここで勝利のリザードンポーズ!チャンピオンタイムは終わらない――!!』

 ガラルの民が釘付けとなったその試合は、その英雄の物語の更新は、私の耳にも瞬時に飛び込んできて、私はこの期に及んで期待していたのだと痛感させられた。そう、期待したのだ。私のせいで不調になりやしないかと。そうすれば、まだ望みがうっすらとでも残っただろう。
 でも、あの人はやはり正真正銘の王者であった。根っからの気質はそうそうに変化しない。些末事に、揺り動かされたりなどしないのだ。
 嫌な女だな、私は。



 私の毎日というのは、至極平淡なものだ。決まった時間に起きて、決まった順番に準備をして、決まったルートで会社へ行く。仕事の内容はさすがにもう決まったものばかりではないが、おおむねの概要は反復だ。一度成功させたケースを元に次を成功させる。途中他の人のアドバイスや相談なんかしてもらって、決められた目標に向けて過程をこなす。仕事が終わる時間はまちまちだけれど、不満はない。モニターばかり見て目や首周りが凝るけれど、取り上げて不平を言う程ではない。

 私は、自分の生活に疲弊していない。もう少しだけお給料が高くなれば楽になるけれど、そればっかりは自分の能力だから仕方ないこと。私は自分の限界値をとっくに知っている。高望みは、身の丈に合わない。
 私は、私の毎日を、否定しない。相変わらずピアノの雑誌を読んで、適当にテレビ番組を見て、スマホは適度に。SNSは最低限だけしかしない。あまり、外に交流を持ちたいわけではないから。だから頻繁にメッセージをやり取りする人もいないし、電話なんてもってのほかである。

 だから、喧しくないスマホを見ていたって、何にもならないのだ。
 鳴らないことが、結果なのだから。



 シュートシティを歩いて、チャンピオンを見かけることがここ最近何故か増えた。また迷子かな。あちこちキョロキョロして、リザードンで飛べば上空から目的地を見渡せるだろうにほとんどそうしたことはなかった。
 それにしても、また急に増えたな、チャンピオンを見かけるのも。ここ数か月はほとんど見かけなかったのに。シーズンオフだからだろうか。その分ファン達もチャンピオンを放っておかないのだけれど。

 あちこち見ていたチャンピオンは、そのままの流れで振り返り目が合う。大きな目が更に開かれて、唇が何やら動いた。チャンピオンの足が前へと動こうとして、横からファンに話しかけられて、そうしたらあっという間にチャンピオンを中心に輪が生まれて身動きがとれなくなる。ファンサービスの一貫だろう、にこにこと笑って彼等と話をしている。そろそろ行かなきゃ、と私が動きだそうとしたらチャンピオンとまた目が合う。顔見知りなのだし、一応会釈だけして今度こそ歩き出す。後ろからファン達のかしましい声やシャッターオンが聞こえてきた。

 そんなことばかり、繰り返していた。


 ◇◇


「なあ」
「ん?」
「今日飲み行かない?」
「飲み?」

 帰り支度をしていると同期に声を掛けられて動きが止まる。飲み。別にこの後は家に帰るだけだから何も不都合はないのだが、一体、どうしたのだろうか。同期からこうして誘われたのは初めてであった。

「いいけど、二人だけ?」
「うん」

 あっけらかんと言うが、二人きりで飲みか。
 同い年で同期は、彼しかいない。入社当時は大学卒の同期も数人いたが、時期はまばらだがみな辞めてしまった。そんな中、フィーリングが合うのか彼と私の仲は比較的良好だと思う。昼休憩もよく一緒に取るし。でも、飲みに誘われたことなんてこれまでなかった。
 いいけど、というのは本当のことだが、唐突なことに逡巡する。そうしたら渋っているように見えたのだろう、彼が切り札を出してきた。

「奢る」
「行く」

 他人の金で飲む酒は最高だ。



 シュートシティの繁華街にあるバーへ行くというから着いていったら、なんと私の行きつけの店だった。ビックリして常連だと告げれば、同期も驚いて「マジ?」と笑っていた。

「俺ここよく来るよ、仕事の後」
「私は休みの日の夜に来る。だから会わなかったのかな」
「かもな」

 コロコロ二人して笑い合って店へ入り、カウンターの両端が埋まっていたからほぼ真ん中に座る。
 各々注文をして、癖で奥を見やる。今日は平日だからいないかな。

「なんかある?」
「いや、いつもピアノ弾いてる人じゃないなって」
「いつもいるの?」
「私が来る日はね」

 このバーに通う最大の理由がそれだった。あのピアノを弾くピアニストの演奏を聴きたくて私はこの店に通っている。でもその人は休日の夜ばかり来るようで、今日は残念ながら別の人だった。

「ピアノ好きって言ってたもんな」
「うん。あ、ほら来たよ」

 注文したカクテルとおつまみが揃って、カンパーイお疲れって二人でグラスを鳴らす。同期の最近やったあの案件さぁ、なんて切り出しから始まって、お互いに話が止まらなくなった。取引先からの無理難題の話や、課長の面白エピソードに、他部署の誰と誰がこっそり付き合っているらしいとか。互いに互いの引き出しを見せあって、ケラケラ笑いながらカクテルを飲み進める。
 なんだか凄く楽しかった。馬鹿みたいに笑い合って、元々気が合うから取り繕う必要もなくて楽に酒が飲める。
 それも、彼がこんな話をするまでは。

「あ、そういやダンデの試合さ――」

 キン、と耳鳴りがした。一瞬音がぶれて、何も聞こえなくなる。
 でもすぐに持ち直して、私も観たよって相槌を打ってカクテルを煽る。心臓が嫌に鳴り動いている。どこからか聞こえる激しい雨の音が張り合うように呼応する。大丈夫、私はもう気にしてないよ。
 かっこよかったダンデ、まじで。同じようにカクテルを口にしながら同期は興奮が蘇ったのか、語尾が段々熱くなってくる。本当にファンなんだな。

「キバナもよく食らいついてたけど、やっぱダンデはすげぇよ」

 何回も凄い、かっこいいを繰り返す同期に、私はロボットみたいにうんうんと頷いていた。それ以外の反応なんて到底難しくて無理だった。

「ていうかお前もとうとうダンデに興味持ったんだな、前はあんなつまんなそうに俺の話聞いてたのに」
「君があんなに熱心に布教してくるからすっかり覚えちゃったんだよ」
「マジか、俺天才だな」
「はは」

 ほんと、君のせいだよ。
 カクテルを飲み干して次の注文をして、そうしてようやく隣の同期が黙っていることに気が付いた。どうしたのだろうと彼を見ると、腕をカウンターに乗せて少しだけ猫背になっている彼が、どうしてか笑みを絶やして、真剣な瞳をしていた。

「なあ」

 どうしたのかと見つめてしまった私に、同期はおもむろに口を開く。

「最近、なんかあった?」

 ――ああ。
 私はようやく、同期がわざわざ私を誘ったのか理解した。
 同期の言葉を咀嚼している間に、彼はすぐにまた口を開く。

「ここんとこ空元気だろ、お前。笑ってるのに笑えてないよ」
「…そんなことないよ」
「そんなことあるよ。俺お前の隣のデスクだから、お前の横顔ようく見えんの。そん時のお前、死にそうな顔してる」
「目が疲れてるからだよ。何、まさか仕事中ずっと私の横顔見てるの?」
「そうだよ」

 冗談のつもりで言ったのに間髪いれずに返ってきた言葉に、ぐっ、と喉が詰まった。何言ってるんだろう、この人。

「今までもさ、つまんなそうに笑ってること多かったけど、でもここ一年くらいは楽しそうだったよお前。なんかそわそわしてさ。仕事が順調だったのもあったろうけど、しっかり楽しそうだった。それがさ、ここ二か月近く死んだ顔で仕事してんだから、何かあったなってすぐ気づくよ」
「…何、してたの君。ちゃんと仕事しなよ」
「お前結構わかりやすいからさ、俺の勘違いじゃないと思う。今だってそうだ、笑ってるつもり?それ。全然笑えてねぇよ」
「やめてよ、大丈夫だよ。何にもないから」
「俺に言えないなら誰かに相談しろよって言いたいけど、お前友達ほとんどいないだろ。言えそうなら言っちまえよ、今」
「…ほんと!大丈夫だから、しつこい!」

 きたばかりのカクテルを一気飲みした。あ、なんて同期が驚いているけれどどうでもいい。どうでもいいけど、とにかく黙って欲しい。君には、絶対言わない。言えるものか。
 あんなこと、誰に言えるというのだろう。未だに自分の中でぐるぐるしていて、整理なんて何一つできていないのに。

「…わかった、悪かったな。話したくないこともあるよな」

 急にしおらしく悪びれる同期に、私の心がチクチクと痛み始めた。
 ごめんね、君は私を気に掛けてくれただけなのに。私が見栄っ張りなんだ。君を信用していないわけじゃないの。でも、誰にも、言いたくないの。
 空になったからまた次の注文をしたら「おいコラ無茶な飲み方すんな」って怒られる。うるさいぞ君が喧しいからだ飲ませろ。

「ほんとやめろよ、俺のためにやめろ」

 お前のためって何のためだ?


 ◇◇


 飲もうとすれば止められ、また飲もうとすれば目敏く咎められ、好きに飲ませてもらえなくて内心グレていた。少し酔ったのかもしれない。酒に関してだけは、あまりべろべろになるまで飲んだことがないから限界値がわからない。でもいつものほろ酔い気分とまた違うのは、単に飲み方が悪かったのかもしれないけれど、隣を歩く同期のせいでもあると思う。

「もうほんとお前やだ、真っ直ぐ歩けよ。送ってくけどさぁ。そんでしっかり布団で寝て」
「はは、優しいな」
「ほんと俺の優しさが身に染みてほしい」

 軽口を叩き合いながら私の家へ向かって歩く。当然のように送ってくれる同期は、逆方向だというのにこうして付き添ってくれて優しさの塊のようだ。
 夜風が火照った体に丁度良い冷たさで、少しだけ頭がすっきりする。ふと視界にかすったものがあって、見上げてみる。ああ、お月様が綺麗だ。

「ねぇねぇ見て、お月様綺麗」
「前見て歩け…あ、ほんとだ、真ん丸」

 何でもないことで笑って、何でもないことに共感して。とても心地が良い時間だった。酔っ払いとまではいかないけれど、酒を飲んだ大人二人が歩いているのに、何とも穏やかな心地だった。

「君ってほんと優しいよね。彼女は幸せものだ」
「残念ながらフリーなんですぅ、ずっと」

 なんだかんだで面倒見が良くて、話を聞いてくれる優しい人だ。そして、話したくないことを話さなくていいよって言ってくれる人。
 あの人とは、別のベクトルで優しい人。
 一瞬頭が冴えてかぶりを振った。よそう、こんな楽しい時間に。ふとした瞬間にどうあっても浮かぶそれを、私はどうしても許容できないでいる。

「なんでいないんだろうねぇ」
「ほんとなんででしょうねぇ」
「好きな人でもいるの?」
「いるんだよねぇ」
「え!?誰!?」

 初耳だぞお前。今までそんな話したことなかったから本当に初めて聞いた話だ。思えば揃ってあまり深い所まで話をしたことがなかったから、私は彼の交友関係なんかについてほとんど知らないのである。
 パッと食いついた私に一瞬顔を顰めた同期は、なんだか言いづらそうだった。適当に誤魔化すという道もあるのに、わざわざ言うか言わないか迷っているなんて。でも言いにくそうにしているということは私が知っている人なのかもしれない。同じ部署に同期はもういないから必然的に先輩たちの誰かか。もしくは他部署の誰か。そうするとお手上げだ、交流が乏しい。
 勝手に同じ会社の人間だと決めつけているが、そうでない可能性だってある。期待を込めて見つめていると、急に同期は立ち止まった。ポケットに手を突っ込んで、一度足元を見つめて、そしてゆっくりと顔を上げて私を見つめた。

「お前」

 雲がかかったのか、急に月明かりが失われた。暗闇に覆われて、彼の顔がわからなくなる。私もきっと、暗がりの中にいるはずだった。

「……え?」
「お前だよ、お前」

 暗くて見えない口元から飛び出す言葉に、何もわからなくなった。言っている意味がよくわからない。私は、君の好きな人の話をしていたのに。

「好きだよ、お前のこと」

 雲が流れて、再び辺りに月の光が満ちる。ようやく暗がりが晴れて見えるようになった同期の顔はあまりに真面目で、でも目元がほんの少し赤く染まっていて、それが酒のせいだって信じたかった。

「……は、はは、冗談がうまいや」
「冗談じゃねぇって。本当。ずっと好きだったよ」

 こんな冷や汗かくような時季じゃないのに。知らず知らず手を握り込んでいて、呑み込めない現況のせいか掌もびしょびしょだった。

「じゃなきゃ、お前のこと、仕事中なのにずっと見てないって」

 なんでわかんないかな、なんて腹から吐き出すように言われても、わからないよ。
 ドクドクと働きが活発になる心臓が痛くてたまらなくて、でもあの時程じゃないな、なんて最低なことを思ってしまった私は、そんな自分を隠したくて俯いた。

 同期のことは好きだ。でもそれは、同期だからだ。男の人として考えたことは、正直ない。今までそんな素振りもなかった。とは思うが、彼の口振りだとそうではないのだろう。私が気付いていなかっただけで、きっと彼は前から私へ合図を送ってくれていたのだろう。

「…ずっとって、三年近く?はは、ずいぶん熱心なんだね」
「違う。もっと前から」
「え?」

 もっと前って、私と彼は入社の時に初めて会ったはずだ。なのに、その言い方はおかしい。反射的に顔を上げてしまったが、彼は相変わらず真っ直ぐに私を見つめていた。

「本当はさ、知ってるよ。お前がピアノ弾いてたの。ずっとずっと、お前の演奏聴いてた」
「は、え?…ちょっと、待って!?どういうこと!?」
「俺ジムチャレンジしてたんだけど、そんときにお前の演奏聴いて、それからずっとお前のこと見てた」
「意味わかんないよ!?」

 彼の話だと、少年時代から私のことを知っていることになる。知っているどころか、私の、ピアノまで、知っている?
 私が、負け続けたことも?
 あまりの衝撃に呆然と立ち尽くす私に、彼もポロポロと語り続ける。白状というより、なんだろう、なんて言えばいいのかわからない声音で。

「ジムチャレンジ中お前の演奏が俺の拠り所だった。俺はジムチャレンジ、結局勝てなくなって途中で諦めたけど、お前のピアノだけは追いかけ続けた。お前の出るコンクールはほとんど聴きにいった。でも段々とお前躍起っていうか、鬼気迫る感じでピアノ弾いてたよな。それであの日で、お前はピアノ辞めたんだよな。ずっと黙って知らんぷりしてて悪かった。でもお前、触れて欲しくなさそうだったから」

 段々と、息が苦しくなる。空気がうまく取り込めない。あの頃の私が瞼の裏にぞろぞろと蘇ってくる。
 あの子が現れて、私は勝てなくなった。あの子に勝てなくて四六時中ピアノに齧りついて、両親もスクールの先生も期待してくれて、でも私はあの子の後ろばかり立たされた。そうやって最後のあのコンクールで、思い知って、糸がプツンと切れたのだ。私をそれまで立たせていた糸が。私とピアノを繋いでいた、細い細い糸が。

「頑張ったな。辛かったな」

 ふっと、肩の力が抜けたのがわかった。彼がくれた言葉が体を巡っていく。あの頃の私への、労いで、弔いの言葉。視界が滲むのを、どうか責めないでほしい。

「入社式でお前のこと見たとき腰抜かしそうな程驚いたよ。それで、勝手だけど思っちまった。運命かも、って」

 うんめい。口先だけで反芻すると、彼が花のように笑った。優しく、はにかむような笑みだ。実は照れくさいのかもしれなかった。

「お前が嬉しそうだと俺も嬉しくて、お前がそわそわしてると俺もそわそわして、お前が寂しそうだと俺も寂しくなったよ。でも、ここ一年くらいはずっと楽しそうだったから、それが俺のお陰じゃなくても嬉しかった。でも最近のお前は見てらんない。今まで黙ってお前のこと見てたけど、もうダメだ。もうそんな顔させてたくない。だから」

 言葉を一度切った彼が、私に右手をそろりと差し出した。掌を上に向けて、何かがその手に乗ることを期待するように待っている。

「俺のこと選んでよ。俺を、お前の運命にして」

 気障だな。どうして私の周りにはこんなに気障ばかり集まってしまうのだろう。脳裏で茶化すけれど、私は少しずつ頭が冷静になっていくのを感じていた。

 彼のことを悪くは思わない。黙っていたではない、黙ってくれていたのだ。何も聞かず、初対面として、ただの同期に徹してくれた。私に何も強要せず、ただ私を尊重して、寄り添おうとしてくれた。彼は、呆れ返ってしまうくらいに損な性格をしていて、底抜けに優しい。

 きっと私達は、うまくいくのだろう。そんな予感がする。多分お互いに弱さを持っているから。それを分かち合えるから。喧嘩することもあるだろうけど、修復不可能なくらいにこじれることはないだろう。だって、いつだって相手の目線に立てるのだから。

『君の好きなものが知りたいんだ』

 まだ彼のことをよく知らないけれど、これまでうまく関係を続けてきた。会社の中でしか通用しない拙い肩書きの関係だったけれど、彼と昼休憩にご飯を食べるのも、一緒にくだらない話をするのも、気が楽で肩に力を入れなくて済んだ。

『大丈夫』

 根拠のない慰めより、私を受け入れて隣で同じ目線を持って歩いてくれる人の方が、よっぽどいいに決まっている。
 だから、私は、彼の手を選べばいい。

 ――違う、選んでしまいたい。

 手を私へ差し出して待っている彼に、私はごくりと唾を呑み込んだ。ふらりと、何かに引き寄せられるように私の足が傾く。前へ、彼の元へ。
 ゆっくりと、もどかしいくらいの加減で私の手が伸びていく。彼の、武骨なのに傷が一つもない掌に。月の下で柔らかく微笑む、彼へ。

 私は、彼を、きっと好きになれる。


「ダメだ」


 ――何が起こったのか、一瞬わからなかった。
 ただ、私の彼へ伸ばされていた手が、彼ではない誰かに乱暴に掴み上げられたことだけはわかった。熱くて、ゴツゴツとして、大きくて、マメがたくさんできていた手に。


 ◇◇


「…ダンデ?」

 ――ダンデ?
 ハッとして手の先を即座に目で辿っていけば、その人は恐ろしい程の威圧をもって私を見下ろしていた。月明かりが射すとはいえ、暗がりの中で怪しげに主張する瞳で。ギリ、と私の手首が聞こえもしない悲鳴をあげる。

「…え、なんで?ダンデ?」

 動揺するのは私だけではなく同期の彼も同じだ。突然のことに思考回路が停止したのだろう。目を丸くしながら口を閉じられなくなっている。彼のファンである同期だ、こんな場面でなければ喜んでサインをねだれただろうに。
 でもどうして、この人は、こんな所にいるのだろう。
 予想だにしていない出来事にまともに行動できない私達をよそに、私の手首を掴み上げるチャンピオンは、そのまま私のことをぐいと強く引っ張りだした。

「っ!?」
「あ、」

 されるがままに手を乱暴に引っ張られ、私の体は簡単に同期に背を向ける。後ろで小さな声が漏れたのが聞こえた。次からどんな顔で会えばいいのだろう。
 なら、言えばいいのに。何するんですか放してくださいって。今まさに彼の手を選ぶところだったのに。どうして邪魔するのって。
 どうして今頃、こんなことするの。
 なのに、痛いって、それすらも言えない私は、やっぱり嫌な女で、浅はかだ。

「君の家は」

 脅しにも似た声音の強さだった。決してはぐらかしも誤魔化しも許しはしないと、その声だけでなく瞳を見るだけで嫌でもわかった。せっかく平らかになっていた心が喧しくなり始める。

「……そこを、左に」

 仕方なく私の唇は嘘も吐かず正直に道順を教えた。有無を言わせぬ雰囲気なのはもちろんだが、何より雨が降ってきたからだ。今日は一日晴れだとキャスターが言っていたから傘を持っておらず、屋根の下に一刻も早く入りたかった。いつかの日と違って今日は二人揃って傘がないから、このままチャンピオンの家まで向かうよりは私の家の方が近いと思ったから。
 だから、私はあんなに頑なに拒んでいた、自宅への道を口にせざるを得なかった。

 ガチャリと玄関を開けて中へ入るが、当然電気がついていないから真っ暗だ。カーテンの隙間から外の明かりが漏れているがほぼほぼ視界が不明瞭で、でも私の指が照明のスイッチを押すことは叶わなかった。
 体が軋むほどに、チャンピオンが背後から抱き着いてきたからだ。

「……」

 息を飲んだ私とチャンピオンは互いに無言で、冷たいのに熱い体がピタリと張り付いて、剥き出しの部分の肌を濡らしていく。そうだ、雨に濡れていたのだった。早くシャワーを浴びなくては。

「…あの、シャワーを。風邪引きますよ」
「君は、あの手を取ろうとしたな」

 ぐっと絡まる腕が強まった。首筋に熱い息がかかってくすぐったくて、かといって身をよじる程の余裕もなかった。あまりに苦しくてたまらずチャンピオンの腕を叩くが、当然ピクリとも動きはしなかった。

「あの男を、選ぼうとしたな」

 見てたな、この人。どこからかわからないけれど、少なくとも私が同期の彼を選び取ろうとしたことを把握しているとなると、ほとんど見られていたに違いない。いい趣味をしているじゃないか。

「…な」
「聞きたくない」

 何か問題でもありますか、なんて火に油を注ぐようなことを言いかけて、結局口にできやしなかった。
 チャンピオンが、噛みついてきたから。

「いっ!」

 息がかかっていた首と肩の境をガブリと噛まれて生理的な涙が目尻に浮かぶ。思い切りのよさにびっくりした。この人、躊躇いとかそういうのないのだろうか。
 しかしいつまでも好きにさせておくなどできやしない。じくじくと痛む肩口に対しての抗議の声を上げようとして、そうしたら今度は、その言葉ごと食われてしまった。
 無理やりに後ろに傾かされる首が痛くて、呻き声をあげながら振りほどこうと暴れようとするが、鍛えている成人男性と華奢な体では勝負にもならない。ピアニストは見格好に気を遣う人がほとんどで、その名残で私だってストレッチや軽い筋トレくらいは続けているが、比べるのも馬鹿らしくなるくらいに膂力の差が歴然だった。されるがまま唇が重ね合わされ、咥内を遊ばれる。いや、遊ぶというよりも、それは蹂躙だった。

 こんなときまで、支配者面するのか、貴方は。

 舌を噛みちぎってやろうかと嫌な考えまで抱かせる頃合いになって、ようやく唇が遠のいていった。酸欠で頭が空っぽで、ぜぇぜぇと私の呼吸音がうるさい。いつの間にか体は正面を向かされていて、力が抜けて倒れそうになる私をチャンピオンは簡単に抱きすくめる。沸騰するように体のどこもかしこも熱くてたまらなかった。口の端からどちらのかもわからぬ唾液がだらしなく零れていて、それを拭う力さえ残っていなかった。

 そして、呼吸を整えられないまま体を持ち上げられ、主の許可なく部屋の中へとチャンピオンは進んでいく。遠くから、家を壊さんとするほどに叩きつけるような雨音を聞いた。
 そのままどさりと落とされて、チャンピオンが被さってきて、やっとそれが自分のベッドの上だと気がついた。

「ちょ、なにし」

 声を荒げてもすぐに煩わしいとばかりにまた口が塞がれてしまって、チャンピオンの熱い息を呑み込む羽目になった。重しのように決して動かないとわかっていて私の手は厚い胸を押し戻そうとするが、やはりどかすことができない。
 ろくな抵抗ができないままカットソーの中に手が、入ってきて、私は、

「っ、やめてよ!!」

 無意識にチャンピオンの頬を打っていた。パシンと、乾いた音が鳴る。
 途端に動きを止めたチャンピオンは、けれど薄闇の中に浮かぶイエローにもゴールドにもなる瞳は、狩りを前にする獣のように鋭いままだった。
 怖い。その瞳を目にして、今更になって恐怖がやってきた。

 貴方が、私に、そんな目を向けるなんて。
 私が、貴方を、怖いと思うなんて。

「…っく、ん」

 一度怖いと認めたらもうせり上がってくるものを止められなかった。嗚咽が固く結んだ口の隙間から漏れて、じわじわと涙が溢れ返る。すぐに洪水のように栓もできない熱い涙がどんどんわきでて顔を覆った。私の無様な鳴き声が二人の間に漂う。もうどうしても止められそうにない。

「…ふ、くっ、なんっ、で」

 何でこんなことするの。貴方は、何をしたいの。私に何を望むの。
 私たちは他人だ。最初から今まで、ずっとそうだった。なのにこれまで私に喜びを与えて、悲しみに突き落として、今は恐怖を刻んで、私をどうしたいのだ。

 私には、貴方がわからない。

「…い、きらい、きらい…!」

 こんな思いするなら。こんな痛みばかり与えられることになるならば。
 あの日からずっと頭を回って抜けて行かない考えが支配する。したくない後悔ばかりして、どうしてって、誰かにずっとぶつけている呪詛。


 貴方に、出会わなければよかった。


「…っ、すま、ない」

 それしか知らないとばかりに泣きじゃくる私を抱え込んで、チャンピオンがか細い声でそんなことを言う。私は、まだ涙を止められなくて、何も返せない。

「本当に、すまない…俺が悪かった、ずっと、ずっと…」

 醜い嗚咽が止めどなく溢れて、私は子供の駄々みたいに泣き散らしながら、その人にはあまりに不似合いな弱々しい声を聞いていた。

「だから」

 そんなこと、言わないでくれ。
 消え入りそうな語尾に、まだまだ涙は止まらなさそうだったけれど、私は恐る恐る顔を覆っていた掌を下げる。
 暗闇の中で、溶ける飴みたいな瞳をした人が、私を見つめていた。胸が締め付けられて、私の手は自然とその人の頬を掠めるように撫でていた。泣かないで、ダンデさん。