- ナノ -


『さて、ジムチャレンジも開会式からすでに半月が経ちましたが―――』

 はた、とスマホをいじっていた手を止めてニュースに耳を傾ける。もうそんな時期だったのか。思い返せばあるゆるメディアでチャンピオンの姿を見かけていた。だから最近チャンピオンがメディアに引っ張りだこだったのだ。
 ジムチャレンジが経済に与える影響がどれ程のものか。素人には計算など到底無理な話なのだが、ガラル一番のイベントだ、それはもう大きすぎて把握などできないだろう。
 モンスターボールやキズ薬といったトレーナー必需品の流通の増加、新規チャレンジャー向けにキャンプセットが一気に市場を出回り、ユニフォームやジムリーダー達のグッズや関連商品の売上数字が鰻登りになる。当然、チャンピオンの物も。トレーナー初心者から玄人まで慌ただしくなり、これからの時期は目まぐるしいスピードで市場経済が回転していく。

 まぁ、トレーナーじゃないから私には関係ないのだけれど。

 でもこの時期は数多くの企業から新商品が発表され、店舗に勢ぞろいする。そろそろブティックに寄るには良い頃合いだろう。
 そういえば最近はキャンプをするトレーナーの間でカレーが大流行らしい。なんでカレー?と思ったけれど、量もある程度用意できるし、ポケモンも人間と一緒に食べられるらしい。俺もこの前ポケモン達と食ったよなんて同期も言っていて、スマホで画像を見せてもらったのは記憶に新しい。

 チャンピオンも、ポケモン達とカレー食べてるのかな。

 ハッと我に返って、頭をテーブルに打ち付けた。ゴン、と大きな音が響く。
 何故、チャンピオンに思考が行ってしまった。訳が分からない。私は今後の経済とカレーに思いを馳せただけで何処からチャンピオンが入り込んできたのだ。
 しっしっ、と頭の中の小さな自分がチャンピオンの顔を手で追い払う。のそりと体を起こして再びニュースを見ると、インタビューか何かでマイクを向けられているチャンピオンが映っていて、またおでこがテーブルへと落ちた。お呼びじゃないですチャンピオン。



 チャンピオンから連絡が頻繁に来ることはない。時折、思い出したように簡単なメッセージがきて、本当に時々一緒に買い物に行ったりした。本当に、ごく稀なことだ。
 偶にシュートシティ内で見かけることはあっても、風のような速さで何処かへ走って行ってしまって、それが目的地にきちんと向かっているのか、掠りもしない方向へ向かっているのか、チャンピオンの毎日など想像もできない私には露知らぬことである。
 私も忘れた頃にチャンピオンの話題があらゆる方向からやって来る。そうして、ほんの少しだけ、思うのだ。今何してるのかな、とか。ご飯食べられてるのかな、とか。まだあのうっすい紅茶飲んでるのかな、とか。そうして自己嫌悪で消え去りたくなる。

 それもこれもチャンピオンが悪いのだ。一向に私に対する冷たい感情を自覚しないし、この前なんかまた家に寄って欲しいなどと連絡してきたのだ。真顔になったのは言うまでもない。いつもの押し問答で最終的に行くと返事させられてしまい、今から胃が痛い。

 あんなに、関係がない人だと思っていたのに。どうしてこうなってしまったのだろうか。かれこれ一年近く関係を続けてしまっている。
 一度体を許してしまったからだろうか、チャンピオンは私へのちょっかいを止めてくれない。あれからもうベッドに転がされたことはないものの、さすがにまた家に来てくれなんて、一体どうしたらそんな簡単に口にできてしまうのだろうか。
 チャンピオンの頭の中なんてわかる訳がない。生まれ育ちだけでなく歩んできた道も違うのだ。チャンピオンがトレーナーとしてガラルを巡っていた頃、私はピアノ漬けの日々だった。来る日も来る日もピアノ。その頃から音楽専門のスクールに在籍して、文字通りピアノしか触らない毎日だった。
 もう、懐かしい思い出だ。少しずつ整理していかなくてはならない、過去のこと。これでも昔よりは気持ちが穏やかなのだ。どうしてかなんて、鈍感じゃない私は、うっすらと、わかりかけていて。

 終わらない思考の海から抜け出したのは、ひとえに目的地に辿り着いたからだ。例の約束の、チャンピオンの家である。高層で高級マンションの最上階にただ一つしかない部屋に、たったの一人で住んでいるらしかった。雨の日に手を引かれて連れ込まれたときは気付かなかったけれど、入口を抜けたフロアにはコンシュルジュがいる。おっかなびっくりあらかじめチャンピオンに教えられた通り声を掛ければ、「承っております」だなんて笑顔で返されてしまった。気分は取引先に一人でやって来たそれである。そう考えたらちょっと落ち着いてきた。

 そう、私は仕事に来たのだ。しゅっと背筋が伸びる。馬鹿みたいだが、あれこれ答えの出ないことを考え続けるよりは健全じゃないだろうか。
 仕事、仕事。そういえば私もついに社会人三年目。新入社員の教育なんかを任されて、ほんの少し鼻高々なのである。そう、私は、教育できる女。仕事がこなせる女。だからパッとこなしてパッと帰ろう。まぁ何を理由に呼ばれたのかは知らないのだけれども。

 専用のエレベーターで一気に昇ってたった一つの部屋のチャイムを鳴らす。すぐに応答があって「今開ける!」とチャンピオンの声。ぐっと腹筋に力を込めてよくわからない気合を入れていると、ガチャリと玄関の扉が開かれる。おはようございますチャンピオン、本日はよろしくおねが、

「バギュアア!」
「ギャアアアアアア!!!!」

 お、おね、おねがいできません!!!!!




「バギュア」
「いや、ほんと、ごめんね、ビックリしたの、わるぎはなかったの」
「パギュウゥ…」
「あ、ああ…!ごめんなさい…ごめんね…」

 こんなに良心が痛むことなんかないだろう。見るからにしょぼくれて気落ちしているリザードンに私は右往左往して口からは謝罪の言葉しか出てこない。

「くっ、くく…ふは…!」
「チャンピオンうるさいです黙っててください」

 後ろの失礼な人はあっちに行っていてください。

「ふふ、くっ、ぎゃ、ぎゃあ…!」
「本当に黙ってください!」

 怒り心頭の私のことすら可笑しくてたまらない様子で、チャンピオンはお腹を押さえながらソファに突っ伏した。前方のリザードン、後方のチャンピオン。私はどうすればよいのだ。

 玄関を開けたらリザードンが飛び出してきて、私の叫び声がこだました。このフロアに部屋がここ一つだけなのが救いだった。我が家みたいなアパートだったらご近所さんが大集合していたところである。

「本当にごめんね、驚いただけなの、チャンピオンが出ると思っていたから、だから本当にごめんね、あなたのことが嫌なわけじゃないの」
「グウ」
「だからそんなに落ち込まないで?」

 内心おっかなびっくりだけれど、そっとリザードンの顎の下を擽るように撫でる。そうするとリザードンの目が細められて、少しずつ力を抜いてくれる。どうやらそこそこ機嫌を直してくれたようだ。テレビでやっていたことの真似事だったから不安だったけれど、どうにか事態が収拾できそうだ。

 それにしても、リザードン大きいな。でも表皮はツヤツヤしていて、初対面の私に警戒心をぶつけることもなく、随分しつけられている子だ。きっとチャンピオンの育て方が良いからなのだろうな。ポケモンについてはほとんど無知識なのだけれど、一度も触れたことがないわけではない。ただ、時たま人間を傷つけてしまう事例があるから、遠ざけられていただけで。勿論ポケモン達の意図的でない攻撃の場合もあるし、たまたま触れてしまったときに爪が、とか牙が、体を撫でて火傷を、なんてこともあるだろう。
 万が一手に何かがあれば、と両親も絶対に家の中ではポケモンをボールから出さなかったし、学校でもほとんどポケモンを持つ子供はいなかった。いても大人しい種類の子ばかりだった。そのせいか、ピアノから遠ざかった今でもその頃の習慣が抜けなくて、私は自分のポケモンを持ったことは一度もない。
 でも、こうして大きな体なのにきちんと私の前で大人しくできるリザードンを見ていると、少しその考えが傾いてくる。要は人間の問題なのだ。良くも悪くも、生かすも殺すかも人間次第。人間の気持ちを汲み取ってしまう子に如何にして接していくか、それだけの話なのだ。ちょっといいかもしれない、ポケモンを、持つのも。

 ところで失礼千万なチャンピオンはどうしただろうか。背後を見やれば、ソファに腰かけながら私のことを見ていたようで、パチンと目が合った。なんだか生温い瞳をしている。もう気が済みましたか。

「君、うまいな」
「え?」
「リザードンは初めてじゃないのか?」

 うまいとは、あやし方だろうか。別に何度もこんなことがあったわけではないが、私はそんなに特別なことなのだろうかと首を傾げた。

「だって、チャンピオンを真似しただけなので」
「は?」
「テレビでチャンピオンがこうしていたので、そういうものかと」

 インタビューを受けながらリザードンのことを紹介していたときに顎の下を擽っていたから真似ただけなのだが、何か可笑しかっただろうか。
 私の言葉に、何故かチャンピオンはにっかりと笑った。でもそれ以上何も言ってこない。一人で何やら完結したようだ。

「…で、今日のご用件はなんですか?わざわざ呼び出して」
「ん?ああ、そうだったな」

 思い出したように零してチャンピオンは立ち上がった。背筋をピンと伸ばし、腕を胸の前で組んで、真剣な眼差しで私を見据える。つられて私の背も伸びて、やはり仕事のつもりで来て良かったのだと自分を肯定する。

 一泊置いて、チャンピオンは神妙そうに、勿体ぶるようにゆっくり口を開いた。

「掃除を手伝ってくれ」

 本当に仕事だった。


 ◇◇


 以前訪れたときよりも部屋の中がその……にぎやかだな、とは思っていたのだ。どうやら繁忙期で片付けが間に合わないらしい。

「なんで私?」
「君しか浮かばなかったんだ」

 掃除機をかけているというのに私のぼやきを拾ったチャンピオンの耳聡さよ。それにしても、私しか、か。チャンピオンは部屋に呼べる友人がいないのだろうか。
 チャンピオンなんて肩書きを持っていると交友関係も自ずとしぼられてしまい、気軽に招ける人が限られるのかもしれない。誰それと交流があるとか雑誌に書いてあったような気がするが、さっぱり忘れてしまった。こんなこと彼女にでも頼めばいいのに。いるのかいないのかわからないけれど。
 彼女にはこんなだらしない部屋見せられないってか?いやいやいたらマズイか、その、色々と。

 今までの己の行動を振り返って苦い気持ちになる。
 そういえば確認したことなかったけれど、チャンピオン、彼女いないのだろうか。いたら私、浮気相手になってしまうんじゃ。もちろん私とチャンピオンは付き合ってなどいないのだが、決定的な要素としてあの一夜のことがある。
 私だったら恋人が一夜とはいえそんなことをしていれば許せないだろう。裏切られたと涙に暮れる。もう随分前とはいえ、仮に彼女がいたとしたらあまりに不誠実すぎるぞチャンピオン。

 一通り掃除機をかけて、チャンピオンに度々尋ねながら二人で必要な物と捨ててもよい物を仕分けて、ベッドシーツや枕カバーを引っぺがして衣類もかき集め、下着は見なかったことにして、何度も洗濯機を回して、ポケモン達のものだろうベッドやおもちゃなどは、どうすればいいのかわからないのでチャンピオンに丸投げして、ようやく片付けに目処が立った。
 綺麗になった部屋に満足感を抱いていると、チャンピオンが「紅茶淹れたぞ」とキッチンからカップを二つ持ってきた。

「……」
「どうした?そんなしょっぱい顔をして」



 うっすい紅茶をちびちび飲んで、チャンピオンの話に適当に相槌を打って、片付けのときから何度もチャンピオンって呼ぶことを咎められて、今も咎められ続けて、面倒臭くなったから「はいはいダンデさんしつこいです」って返したら嬉しそうに破顔した。
 本当は名前で呼ぶなんて憚られるけれど、自分の家の中にいるくらいリラックスしたいものな、と渋々了承した。本当は、嫌だけど。
 だって、名前で呼んだら、親しい間柄、みたいじゃないか。
 別に親しくなくたって誰々さん、とか敬称をつけて呼ぶのは普通だし、同期だってチャンピオンのこと呼び捨てにしているし、それ程可笑しなことじゃないとは思う。
 でも、どっかで線引きしていたい私も、いるのだ。ずうっと前から、それこそ初めて言葉を交わした日から。
 今だって心底奇妙な光景に映っているのだ。どうして私の目の前には紅茶を飲むラフな格好のチャンピオンがいるのだろう。あんなにもチャンピオンとは縁遠い生活を送っていたのに。それがどうしてこうして連絡を取り合って、揃って外出して、紅茶を飲み合うようなことになっているのだろう。

 ――あの日、あの瞬間、チャンピオンと目さえ合っていなければ。

 ――あの日、課長の代理なんて務めなければ。

「ん?」

 黙って見つめていれば、そりゃあ気付かれる。どうしたのかと言わんばかりのダンデさんに、私はカップで口元を隠した。




 陽も落ちてきたのでそろそろお暇しようとして、また送っていくなんて言われるかもと身構えていたのだが、あっさりと「気を付けて」などと言われてしまった。それでも玄関まで見送りに来てくれて、何とも表現し辛い気持ちに苛まれた。

「今日は悪かった。君も休みだったのに、俺のために使わせてしまった」

 ど、どうしてしまったのだろうか。殊勝なことを言っている。

「い、いえ」

 声が震えた。いつもより物腰が柔らかで、落ち着いた雰囲気で、一体何が起きているのだろう。
 でも、なんだかその表情は心なしか明るくはなくて、なんだろう、言いたくないが、名残惜し気に見えてしまうのだ。

「…これから当分の間は忙しくなるから、あまり連絡はできないと思う」
「あ、そうですか」
「つれないなぁ…」

 連絡がないことなんて正直歓迎だ。何と返して欲しかったのだ。

「次は、彼女にでも頼んでくださいね、お掃除」

 へらりと笑った。私に連絡できなくても彼女になら連絡できるだろう。私は恋人でも友人でもないのだから。
 しかし次の瞬間には眉を吊り上げ、唇を真一文字に結ばれてしまった。何やら機嫌を損ねたらしい。それはとても面倒くさい話なのだが、何が要因だろう。

「いないぜ」
「え?」

 やっと口を開けたかと思ったら、先の言葉だ。
 いないって、それは。

「彼女なんて、いないぜ」

 二度も言った。表情は未だに難し気で、へそを曲げたまま戻っていない。

 貴方は、私に、

「……そうですか」

 なんて言って欲しいの。


 ◇◇


 ダンデさんの申し出通り、あれから一度も連絡は来ない。万々歳なので何も憂うることもないのだが、忙しいのはこちらもだった。ジムチャレンジの影響だ。直接的に関係がない中小企業のうちでさえこうなのだから、大手の、しかもスポンサーとしてジムリーダーやチャンピオンのバッグにいる企業は目が回るどころではないだろうな。

 さて、忙しいことは忙しいものの、かといって休日が潰れるわけでもない。
 今日は、大切な用事があるのだ。

 あの子の、リサイタルに行くのだ。

 メイクを確認して、薄い水色のカクテルドレスの裾を確認して、ボレロを羽織って、最後に後れ毛の確認をして、完了。ドレスコードはないものの、あの場所に行くのだ。きちんとした格好で臨みたい。
 玄関を開ければ、雨が降っていた。大粒の雨だ。まるで、私の行く手を阻むみたいに空から遠慮なく落とされていた。
 ナックルシティ行の列車に乗って、濡れる石畳の道を歩いて、ちょっとヒールが引っかかって躓きそうになって、そうしてやっと辿り着いた。

 ガラルの音楽史において一番の歴史を誇る、荘厳な建物。
 私の手が届かなかった、伝統ある、コンサートホール。

 入口へと足を踏み入れ、案内に従ってチケットを渡し、ホールへと入る。

 ――ああ。

 370人を収容できるヴィンヤード型の座席に、淡く光が入るシャンデリア。木目の規則正しい内装。そして、一際目を引く、舞台上にたった一つのピアノ。
 あれに触れたくて、触れたくて、たまらなかった。
 昔日の虚無が蘇ってくる。ダメだ、冷静に。わかっていて私がここまで自分の意志で、自分の足でやって来たのだ。今日の公演のポスターを見つけて、抑えきれなくて、この場所へ踏み入った。
 チケットに指定してあった座席へ座り、ホウと息を吐く。前から十列目の真ん中の席の隣。ほぼ一番と言ってもいい席だ。欲を言えばこの一つ隣の中央が良かったのに、既に売り切れだった。

 美しい舞台だ。今日はここを、たった一人の人間のために使う。今やガラルで名を馳せ、その道の人間は知らぬ者などいない、あの子のためだけに整えられた空間。
 人の入りが頻繁になってきて、ガヤガヤとし出した。腕時計の秒針が刻一刻と開演までの時間を刻んでいく。目を瞑る。心臓の音がうるさい。黙っていてほしい、私は、大丈夫。

「あれ」

 暗闇の向こうからテノールが降り注いだ。ゆっくりと瞼を開くと、予想だにしていない光景が広がっていて、目が瞬く。

「どうして」

 どうして貴方がこんな場所にいるの、ダンデさん。
 トク、と心臓の音のリズムが変化した。




「スポンサーの方にチケットを貰ったんだ。予定が変わって行けなくなってしまったから、せっかくだからどうぞ、と」
「そう、ですか」

 普段の装いとてんで違う服装だ。前髪をオールバックにしてまとめ、正装をしている。クラシックのコンサートに正装は不要だが、気合が入っている私とは違ってそうではないだろう。

「こんな公演は初めてで、よくわからなくて正装なら間違いないと思ったんだが、予想は外れだな。調べる余裕がなかったたとはいえ、甘かったぜ」

 私が座りたくても座れなかった席に体を収めて、ジーンズの男性を見やりながら、窮屈だと言わんばかりに首元のネクタイをいじるダンデさんは、いつもと違う恰好のせいか別人のように見えた。
 本当に、まるで、別の男の人のように見えて。

「どうした?」
「…あ、いえ、別に、すいません」
「はは、なんで謝るんだ?」

 忙しいのにあの子の公演には来るの。
 スポンサーの手前だ、断れないだろうと理解しているのに。
 うるさいです黙ってって、前は平気で言ってのけたのに、今は喉奥から出てきてくれない。

「…今日の君は、いつにも増して綺麗だな」

 今喋れないからそういうのはやめて欲しい。



 やがてあの子が登場し、静かに鍵盤に手を置いて、演奏が始まった。
 演奏中胸が詰まる思いだった。鍵盤の上を指が軽やかに舞い、全身で奏でる美しい旋律で、時に静かな風のように、時に激しい嵐のように。支配的で、圧倒的で、あの子にしか表現し得ない音楽。正しくあの子はこの空間において女王だった。
 あの子の演奏を聴くのは別に久しぶりのことではない。CDは全て買っているし、メディアで演奏することがあれば必ず見ているし、終わった日からあの子の演奏から遠ざかっていたなんてことはない。
 でも、やはりダメだ。この場所で、直接この耳で、今まさに生み出されているあのおびただしい音楽は。

 ――やっぱり、追いつけない。

 休憩が挟まれても、ドキドキと心臓が鳴りやまなくて息も絶え絶えだった。圧巻の音の渦に飲み込まれて、我を忘れかけていた。あの子の音はあまりに魅力的で、蠱惑的で、頭がボンヤリとする。

「凄いな」

 隣の人が何か言っているが、私の耳の中はあの子の音が反響していて、よく聞き取れない。

「正直、音楽には疎くて、ピアノは全くわからないんだ。でも、何というか、心に刻まれるな」

 音の奔流が未だに脳を揺らしている。目がチカチカする。飲み込まれていて溺れかけている。幼い私が蹲って泣いている。どうしてわたしがいるのはあそこじゃないんだろう。

「本当は来ないつもりだったんだ。今が一番忙しい時期だし、スポンサーの心証は悪くなるかもしれないが、俺にとってはポケモン達のコンディションを整える方が大事なことだから」

 息が苦しい。溺れたままで手は水を切るばかりで、人魚じゃない私の足じゃ、陸に到達できない。音が、遠くなっていく。

「でも、君がピアノが好きだと言ったから、来たんだ」

 ――なんでだろう。急に、耳鳴りが止んだ。水の中に明かりが射して、神様みたいに優しい手が、私の手を掴んでいる。

「何度も言っているが、君の好きな物が知りたいんだ」

 世界に光が戻って、耳が正常に動き出す。いつの間にか深く俯いていた顔をのそりと上げて行けば、その人は綺麗に笑っている。

「いつか、君のピアノが聴きたいな」

 私の、ピアノ。
 あの子じゃない、私の、ピアノ。私だけの、音。

「……ええ、いつか」

 貴方のお陰で、息ができた。

 

 貴方が望むのなら、きっと、私は――。