- ナノ -


君と歩く世界-2



「おなかすいた」
「冷蔵庫のものを食べなさい」
「うん」

 ソファでだれていると唐突にナマエがそう言い出したので、そんなの知らん、と顔も見ずに適当に指示を出したら、ぱたぱたと短い足で冷蔵庫へと一直線。とっくに勝手知ったる家だ、ここは。俺が冷蔵庫を漁ったところで絶対に文句を言ってくるような夫婦ではないとわかっていても、これがナマエのためとなると、どうしたって体が動きを鈍くする。
 俺はあの子の好物を知らない。嫌いなものも、アレルギーがあるのかすらも。普段は何をどれくらい食べるのか、俺はあの子の生活の一切を知らない。お義母さんやお義父さんがナマエを引きつれて俺の家に突撃訪問した際にべらべらと訊いてもいない普段の様子を教えてはくれたけれど、正直右から左だったからろくすっぽ覚えていやしない。

「これたべれる?」
「……」

 小さな体がすぐさま戻って来たと思ったら、これまた小さな両手でじゃがいも一個を握り締めて俺に見せてきた。もちろん皮を剥いていない、スーパーで売られている状態のまま。
 仕方なく溜息を落としつつ重い腰を上げて冷蔵庫を確認したが、あまり豊富とは言えない有様だった。家を数日空ける予定だったから保存のきかないものは残していないのだろうとは察せたが、この状況においてははた迷惑極まりない。あの夫婦は、俺とナマエが元々の予定通りに二人でこの家を空けると、どうせ思っているのだろうな。

「はぁ……。仕方ないな、何か買ってくるから、待っていろ」
「おなかすいた」
「だから、すぐ買ってくるから。大人しくしていろよ」

 子供と言うのは融通もきかない上に意思疎通が難しくて、こちらの言うことなんかちゃんときけることの方が難しい。感情に素直だからこちらの思惑通りに決して動いてはくれない。会話だって、こうしてままならない。これがポケモンであれば根気よくその気持ちを汲もうとこちらも頑張れるのに、どうしてナマエに対して同じような気持ちになれないのだろう。
 だなんて、そんな理由、最初からわかっているのに。
 一先ずは飯、と近所にあった筈のスーパーを脳内に思い浮かべて、そちらに向かって家を出て足を進ませる。適当にいくつか買ってくればその内の一個くらいは食べられるだろうと雑に考えながら、気が付けば全く知らない道に出ていたのだから立ち止まって首を傾げた。可笑しいな、こっちだと思ったのに。

「……リザードンに頼むとするか」

 また重い溜息を一つ。今日、これで一体何度目の溜息だろうかと煩わしい心地のままリザードンのボールに指で触れた瞬間。
 つん、と俺の足をジーンズ越しに、なんだか遠慮がちにつつかれる弱い感覚。

「……?……っ!?は!?なんでっ」
「こっちじゃない。あっち」

 ――ナマエが、小さな小さなその子が、そこにいたのだ。
 俺と目が合うや否や、まるで隠すようにパッと俺の足を今しがたつついただろう手を背に隠して、あっち、と目で向いて示す。どうして、と驚く俺をよそにナマエはとたとた、と自分の足で道を引き返してしまい、さすがに目を離すわけにはいかないと俺もその小さな背を追い掛けたが、コンパスの差は言うまでもなく歴然なので、あっという間に真後ろにつけてしまった。

「着いてきていたのか」
「うん」
「俺、待っていろと言ったよな」
「うん」
「お前は“うん”としか口をきけないのか?」
「……」

 それきりナマエは俯いてしまって、だけど眉を顰めている俺は何故だかそれ以上苛立ちをぶつけるような真似はしてはならないような気がして、知らず口を噤んでいた。ナマエの足は遅くて合わせるのは正直面倒で、さっさと前を進みたい気持ちと葛藤しながら、その後何とも言えない空気の中ナマエの先導によりようやくスーパーにまでは辿り着けたのだった。そこまでの間ナマエはちらちらと背後の俺を盗み見るようにするものだから、なんなんだ、とそれに気分を良くすることも残念ながらなくて。
 スーパーの中ではナマエと立場が逆転した。俺が前を行き、ナマエはその後ろを懸命についてくる。時々追いつけなくて小走りしてまで、俺の後ろをぴったりと。なんだか置いていかれまいとしているようで、しょうがないからちらちらと一々背後を確認する羽目になった。
 だけど店内にて俺と擦れ違う、ナマエと似た背格好の子供と一緒に買い物をしている家族は、なんだかとても大変そうであった。目を離してもいないのに小さな子供は弾丸のようにあっという間に突然駆け出してあちこち走り出してしまうから、母親や父親が怒りと呆れを混ぜたような顔で追いかける場面も少なくはない。それを鑑みれば、何も言っていないのにも関わらず俺の後をたどたどしくも着いてこられるナマエは、中々どうして俺ではない人間が与えた躾の行き届いている子供なのかもしれない。
 ただ、ナマエの目は、そうして喧しく鬼ごっこまがいをする家族にばかり向いていた。



 サンドイッチ、菓子パン、等々いくつか商品を買ってきて並べて、手近にあった一つをナマエがぱくりと口に含んだ途端、泣きそうな顔になった。にがい、と眉をへの字にしてそれを自分から遠ざけてしまう。みればハムとチーズと胡椒が入った総菜パンだったのだが、恐らく胡椒が嫌なのだろう。
 ちなみに、さっき料理を作らないのかと純真そうに訊ねてきたものだから即座に否定した。ポケモンフーズにはこだわっても自分が食べるものには頓着してこなかったから、料理には苦手意識が付いて回る。ばぁばのごはんたべたい、だなんてぼやくものだから、つい小さく舌打ちしてしまった。

「文句を言うな。それくらい食べろ」
「やっ!」
「や、じゃない。一度口を付けたのだから、飲み物でも飲んで流し込め」
「やー!」
「……」

 それきりそのパンを見向きもしないナマエは、今度はじっ、と俺の目の前にある菓子パンを見つめ出した。愛した彼女にとてもよく似た、同じ色をした大きくて丸い瞳で。その先にあるのはバターがふんだんに練り込まれたクロワッサン。
 その既視感のある眼差しが妙に嫌だった。俺はあの瞳が愛しくて、その瞳だけじゃなく白くて柔らかい肌も、風でふわりと揺れる艶のある髪も、柔軟剤の甘い匂いも、ダンデ君といつだって優しく呼んでくれる温かい声音も、何もかも、全てが。唯一、ポケモンと家族以外で俺の懐の奥深くにまで受け入れることが出来た、世界で一番愛した彼女の。

「……これが食いたいのか?」
「たべたい」
「……、はぁ、しょうがないなぁ」

 そんな瞳で彼女が好物だったそれを見られたら。何より正面で彼女とそっくりなのに違うその瞳をずっと見られやしない。そうして折れた俺に目をきらりと光らせて小さな手を思い切り伸ばしたが、どうしてかハッとした顔を作った後にその手を引っ込めてしまう。次いで、俯いて。先程、俺と歩いていた時に見せたような不思議な素振り。
 何事かと首を傾げたが、気にしたところでどうせ、と目の前にあるクロワッサンをナマエの前に置いてやる。そうしたら、今度はぱちっ、と音がしそうな程まばたきを一つした後に早速小さな口でかぶりつき出したのだから。まったく可笑しな子だ。
 その後、どれだけ待とうとこの家の家主たちは戻っては来なかった。気付けば陽が落ちかけるような時間帯になっていて、わかってはいても頭痛がするというものだ。途中意味もなくテレビを眺めたり仮眠を取ったりしたのだが、その間電話への折り返しすらない。ナマエは一人で人形遊びやら塗り絵などして暇を持て余していたようだが、何度もトイレに籠るものだから、腹の具合でも優れないのかと問うてみても首を振るばかり。そういう体質なのだろうか。お腹が弱いなんて色々と大変だろう、可哀想に。

 さて、うだうだとしたところで時間がどんどん過ぎ去ることだけは確かである。ナマエは一人で遊ぶことに疲れてしまったのか俺に頭の後ろを見せる態勢でテーブルの上にぺたりと頬をくっつけて、一体何を見ているのかは知れないがぼんやりとしているのだろう。
 もうすぐ夜がやって来る。そうしたらあの夫婦は戻ってくるかもしれない、と持ち上がる淡い期待を殺せないままこんな時間まで無為に過ごしてしまったが、一方できっと帰っては来ないだろうと、そんな妙な確信もずっとあったのだ。なにせあの人たちは、最初から俺とナマエに二人きりで旅行に行って欲しくて、こんな状況を強いているのだろうから。
 ふと、その微かに上下する背中を見つめる。特に何かを意識したわけではなかったが、ただ目が離せなくなっただけだ。そのなんて薄くて頼りない体。子供用のやたらと足だけ長い椅子じゃないとテーブルに届かない短くて細い、小さな手足。それこそ吹けば飛んでいきそうな。
 今日、顔を合わせてからずっと、微妙な距離を保っていた。俺は明らかに遠ざけようとする態度を取り続けていたし、ナマエが何かにつけて端的な単語で俺に話はしかけてきても、そこにはしっかりと俺と自分の間に空間を生んでいた。急に思い出したのはあの行き場を失くしたように背中を隠されてしまった手。俺の事を気に掛けるような素振りを見せながらも、もしかすれば俺の体に触れることを躊躇っていたのかもしれない、あれは。
 俺は、あの子の頭を撫でたこともない。

「……行くか、旅行」
「……?」

 気付けばそう口を開いていた。だけど抵抗感はそこにはほとんど無くて。すんなりと、淀みもなく、落ち着いた気持ちでそう言えた。
 ナマエはぴくり、とその小さな体を反応させた後、上体を起こしてゆっくりと顔をこちらに向ける。ぱちりと目を瞬かせるその驚きと言葉の意味が理解できなかった戸惑いが透けて見える表情に、ほんの一瞬だけ気持ちにブレーキが掛かりかけたけれど、わざとブレーキを踏むことを止められた。

「行くか」
「りょこ……?……っ!いく!」
「ただし、俺と二人でだぞ」

 ――嫌な大人だと、我ながら思った。自分で言い出した癖にその実こんな小さな子供に決定権を委ねる言葉だ、これは。
 どう答えを見せるだろうか。それを予測するよりも早く、こちらが狼狽える程直ぐに、ナマエは首を動かした。

「いく!」
「……本当に?いいのか、こんな俺と二人で」
「だってばぁばたちこない」
「そうだけど……」

 この期に及んで、言い出したのは俺なのにこんな情けない物言いしかできないのは、少し笑えてしまう。

「……じゃあ、行こうか。二人で」

 ナマエは表情を浮かべないまま、大きな瞳を更に大きくして、頷いた。



 元々二人揃って荷物は出来上がっていたから準備などあっという間に終わってしまった。ナマエはもう既に玄関で余所行きの靴に履き替えていて、俺も上着を羽織り直したらその隣に立つ。

「準備はいいな?」
「うん!」
「戸締りはしたな?」
「うん!」
「じゃあ、出発だ」
「おー!」

 今日一番の大きな声。それに何かよく知れない、言葉ではままならない気持ちを一人で歯噛みして、二人で一緒に家を出た。
 駅までの道中、ナマエは俺の後ろではなくほんの少し前を歩く。多分俺を先導しているつもりなのかもしれない。ただその分ナマエに歩調を合わせていつもよりも大分ゆっくり歩かないといけなくて、けれど、何故か今はそれを煩わしいとは思わない。
 ほんの少し前を行く、小さな頭を見やる。帽子を被って、それを見たらどうしてかいつ風に攫われて飛んで行ってしまわないかと、そんなことを心配していた。
 会話はほとんどない。ナマエも積極的に俺に口を向けない。俺も同じ。でも、家の中で感じていた気まずさも、やはりさほど感じられない。
 不意に、ナマエがスキップを始めた。高さもスピードもそんなにないのに、とたん、とたん、とリズムよく。ここからだと顔はあまり見えないが、喜怒哀楽の乏しそうな顔のままのようなのに、その足取りだけは、こんなに軽やか。


20210322