- ナノ -


はじけて、はじけきれなかった



 背が伸びたな、とすぐに目を瞠るくらいダンデ君とは会っていなかったんだ。
 ダンデ君は私とは比べるべくもない程に忙しい身なので、こうしてハロンに帰ってくることなんか月に数えられる程度。私が呑気に家の中でお菓子を食べている間ダンデ君は遠い場所でバトルをして観客を沸かせたり、呑気にシャワーを浴びている間もスポンサーを立てるためのパーティーに参加したり。時々話してくれるダンデ君の日常は昔とは比べようもない程壮大なものになっていて、凄いね、としか相槌が打てない私は相当つまらないと自嘲出来るのに、ダンデ君はいつでもにこにこと笑って話を聞いてくれてありがとうって、そう言ってくれるから心臓がいつも痛かった。
 帰省したら絶対顔を見せてくれるのはありがたいな、と思う。たかが幼馴染をこうして忘れずにいてくれるなんて、などとどこかで自惚れを持っている自分を見つけてしまったのは、はてどれくらい前のことだったろう。ダンデ君とソニアにつられるようにして参加したジムチャレンジでほとんどバッジを集めきれないまま終わってしまった弱い私を、こうして。

「変わりないか?」
「うん。ダンデ君は変わらず活躍中だね」

 ダンデ君の家と同じようにウールーを飼って彼等の恩恵で暮らす私は、スクール卒業後こうして実家の手伝いでもう何年も生きている。本当は都会で悠々自適な一人暮らしを夢見ているけれど、この小さな頃から代わり映えのない家を、そしてこの小さくて素朴な町を出てしまったら、接点が近所だからというだけのバトルも弱くてソニアのように料理もうまくはない私にダンデ君がこうして会いに来てくれなくなるんじゃないかと、ついそんなことを恐れてしまうと。もう成人したのにこうして未だに踏み切れないでいた。
 ダンデ君が私を忘れないでこうして顔を見せに来てくれるのは、私が単に昔からのご近所さんだから。毎日ウールーの世話と親の手伝いをするだけの、ソニアみたいにダンデ君の役になぁんにも立っていない私を気に掛ける理由なんてそれくらいしかない。
 幼馴染へ向ける感情をいつの間にか親愛やら友愛から大きく逸脱させてしまっている私は、それに悲しいかな察しがついてしまっている。

「精が出るな。手伝うよ」
「え、いいよ!せっかく帰ってきてるんだから家でゆっくりしてよ!」
「帰ってきているからこそ好きにしたいんだ。それにナマエの力じゃそれ持って往復するのは大変だろ」

 つい、と目で示されるのは先程懸命に刈ったウールーの毛やら水の入ったバケツやらいくつかの道具。そして荷車。別にバケツは戻す際に水を捨てて持っていくだけだし、荷車も重いけれど引いていくなんてこともう慣れたものだ。だからわざわざダンデ君の手を借りるまでもないことなのだが、断っても彼はどうにも頑なだった。そうして、あまり間も置かず勘が妙にも働いてしまって。
 ダンデ君、何かを話したがっているみたい。目の前の彼からはどこかそわそわとした、落ち着かない様子が感じられて、この場を一人で離れるのを惜しんでいるみたいな。何かを言いかけて言い淀んだり。らしくもないその態度を見ていると、もしかしたらもう少し私と時間を共にする理由が欲しいのかもしれないと勘繰ってしまった。

「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 そうなるたけゆるりと笑ったが、悲しいかな喜ぶ私ではなかった。寧ろ、痛い。
 昔は一緒にいることに理由なんか何も要らなかったのに。とっくにわかってはいたけれど、これはつまり、もう理由がないと長い時間隣に居られないってことだから。



 片付けを手伝ってもらう最中ダンデ君の隣に並んだり背中を追いかけていると、改めてその成長ぶりに感嘆してこっそりと溜め息吐いてしまった。テレビでその姿は四六時中追っていた筈が、いざこの目に映してみると、その逞しさを今更痛感したようで。

 陽の下でうっすらと汗をかいて、シャツを肌にはりつかせた男の人。額の滲みを粗雑そうに腕で拭ってふぅと息を吐いて。でも首筋を一筋汗が流れるのを目の当たりにしてしまうと、見てはいけないものを見てしまったような気分に陥ってすぐに俯いた。ダンデ君の汗なんて何度も見たことがあるのに、こんなにも胸がドキドキとしてしまうのは私がダンデ君に幼馴染以上の感情をいつしか抱いてしまったからで、顔が熱いのも陽射しに焼けたからでもなくて。
 暑いな、と笑うダンデ君にそうだね、とか細く頷いたら、顔を覗き込まれてしまってジャンプするみたいに体を跳ねさせてしまったから自分でも罰が悪い。だって「具合が悪いか?」なんて心配そうな声音を貰ってしまったのだ。だから慌てて首を振って頑張って笑ってみせるしかない。
 俯けなくなってしまったせいで再び盗み見る顔つきも、随分精悍となったな。本当に不思議な心地だった。テレビや雑誌以外にもこうして近くでダンデ君を拝む機会は何度かあった筈なのに、こうして汗が流れる様を目撃できる程すぐ間近に見ると、その体つきや顔つきが頭上からの容赦ない眩しさのせいか、まるで知らない人みたい、だなんて。

「ほら」
「えっ」

 一通り片付けを手伝ってもらった後、体調を心配してくれたダンデ君の気遣いからか、はたまた陽射しが強いからか、木陰に移動して二人草にお尻を預けながら。ダンデ君と休憩がてら水分補給という名目で木の下に座り込んで、さっきまでと比べても近い距離に、ちゃんと笑わなきゃって必死になる私は端から見れば鈍感なダンデ君以外ならぎこちなく映るかもしれない。隣で落ち着いた様子で話を振ってくれるダンデ君が缶を傾ける度に上下する喉仏に釘付けになる姿も、経験を積んでいない女だと笑われてしまうかも。気付いた時からずっと初恋を続ける私に他の誰かを気にできる精神力はなかった。
 でも、そこでさっき自販機で買ってきたサイコソーダを躊躇なく手渡されたら、あまりにも予想外の事態に石よろしく固まってしまったのだから。
 だってそれ、飲み掛け。

「どうした?好きだろう?」
「好き、だ、けど」
「じっと見てたから飲みたいのかと思って。遠慮するな」

 うっかり肯定するべきではなかった。そう思うももう後の祭り。無邪気な顔で差し出される、飲み掛けのそれ。目を泳がせそうになって、結局逸らすこともなくプルタブの開いた缶を見つめてしまった私は筋金入りの馬鹿だ。
 受け取っても、いいのかな。私達は理由がないと一緒にいられない二人になってしまったのに、いいの?なんてイイコな振りで忙しそうに言い訳を考えたところで、逸る心臓は既に誤魔化せないくらいで。女として気にされていないという言外の証明に一々胸を刺されて弱る場面でもない。
 いいって本人が言うのだから、と邪な手がとうとうダンデ君の手に握られた缶に伸びる。わざわざ自分の缶を地面に置いて。いつダンデ君と出くわしてもいいようにって丁寧に作った、春色の爪が彼に見えるよう気を付けながら受け取り、だけどすぐに口をつけることもこの期に及んで勇気が出しきれないから踏ん切ることも容易には出来なくて。

「……なぁ、聞いて欲しいことがあるんだ」

 上の空だっただろう。私の意識はプルタブの開いた、今しがたダンデ君が数口分飲んだばかりのそこに集中していたから、話し掛けられてもいつも通りつまらない相槌を反射のように無意識で打っていた。
 だから、その直後に我に帰されて、世界が滅べばいいと願ってしまうことになるだなんて、微塵も想像出来るわけもなかったのだ。

「……恋人が、できて」

 顔を上げたら、そこには頬を微かに色付かせて照れ臭そうに笑う、私の好きな人。私に飲み掛けのサイコソーダを手渡せるダンデ君。
 握り締めるアルミ缶は、私の力では到底形も変えられそうにはない。

「相談を、したくて」

 はにかむ、嬉しそうなかんばせ。
 咄嗟に袖で爪を隠した。浮かれていた私を正に表すかのような色めくそれを、直前までの気持ちとは正反対にダンデ君にだけは今見られたくなかった。
 この爪はダンデ君だけに見つけて欲しかった。仕事に必要ないと親に怒られてもこっそり塗って隠し続けた、ダンデ君だけに見て欲しかった春色の爪先。ダンデ君に少しでも可愛いと思って欲しかったから丁寧に彩った、ダンデ君のことを思い浮かべながら施した、私の浮ついた心の塊。
 しゅわ、ぱちん。炭酸の弾ける音が、手元からじゃなく耳のすぐ横で聴こえたのは、とっても不思議だな。

「そ、か」

 言葉を発せられたことを誰かに褒めてもらいたかった。それくらい、言葉を紡ぐことに労力と勇気を要したのだから。

「おめでと?」
「ありがとう」

 思ってもいない言葉を使うのには心を空っぽにするしかない。ここで涙の一つでも零せばダンデ君はその理由を聞いてくれるのだろう。そういう優しい人だ、ダンデ君は。
 だけど私の目玉からそんな気配は微塵も感じられないのだから、それもまた不思議なことだった。それはきっとダンデ君がすぐ側にいるからこそなのだろう。
 プライドとかそういうものはないのに。ただ好きな人を想って、毎日その人のことを考えて、たまに連絡を貰えただけで舞い上がって。気持ちを伝える決意も持てないくせに爪だけ綺麗に彩った、馬鹿で炭酸みたいに弾けきれなかった私。
 本当になんて馬鹿なんだろう。



 それからの会話は全く覚えていない。――なんていうこともなく、しっかりと覚えているのだからこれもまた可笑しな話だ。聞きたくもない話ばかりダンデ君に話させて、つまらない相槌を打つだけの涙も流せない自分。いつからそういう人が出来たのとか、どういう人だとか、世界で一番どうでもよくて微塵も必要ない情報を自分の中に入れ込んでどうしたいのだろう。自分と比べて優劣をつけたいのか、はたまた今更ボロを出したいと思っているのか。それでも一々胸をかき回されながら、ただただ、はにかんで嬉しそうな顔のダンデ君の顔を真似することだけに努めた。同じ色の顔。同じ温度の言葉。幸せそうなダンデ君を空っぽな自分に投影するだけの、なんて不毛な。
 だけど時折頭を掠めるのは、ここでダンデ君に抱き着きでもすればどうなるんだろうって、そんな詮無いことばかりだった。涙も流せないくせに何夢見たことを、と、掠めるごとにすぐに打ち消していく。何をしたってもう届けられないのにね。
 やっぱりどこまでいってもつまらない人間なんだな、私。

「今日はありがとう、相談に乗ってくれて。こんなこと言えるのはってナマエしか思い浮かばなかったんだが、思い切って話にきて良かった」
「ううん。良かったね、支えてくれる人ができて」

 今までは幼馴染だから会ってくれたことが、もう今日からはそれすらも通用しなくなった。ダンデ君の何気ない言葉を私だけが重く受け止めたとしても、それに喚き散らしてはいけない。少なくとも、今はまだ。
 早い者勝ちとか、そういうルールなんて世界のどこにもない。ないけれど、実際私はこの長閑で変動のない場所から動かなかったのだ。何年もの間数えきれない程機会があったのにも関わらず、次はとか、今度、とか。下手をすれば自分からは言うこともなかったのかもしれない。私は私を守るだけでダンデ君に何も言わなかった。そういう選択をしてきたのは紛れもない臆病で甘えたな私で、これが全ての結果なのだ。

 ダンデ君はこれからも私に会ってくれるのだろう。ファンの前で取り繕う笑みは得意なくせに嘘が嫌いな彼のことだ、きっと恋人にも私のことを包み隠さず話して、会いにいくなら会いに行くと予め告げて、堂々とまたやってくるに違いない。そこに下心が欠片もないから、ダンデ君は平然とそうしてしまえる。

「ダンデ君」
「ん?」
「もう私に飲みかけの缶渡しちゃだめだよ」

 鈍感。私のなけなしの気持ちに目を丸めて首を傾げるダンデ君に心の中で叫んだ。良くも悪くも恋愛事に疎いダンデ君に、その上悪気もない彼にこういうことは本来であれば一から十まで説明してあげないといけないのだろうが、そういうの、もう私がすべきことではないからそれ以上は意地でも口を開かない。諸々は棚に上げるがこうしてダンデ君が選んでくれなかった私に、そんな義理はない。
 案の定どうして、と言わんばかりのダンデ君には精一杯の微笑みだけを返した。そういうことに早々と気付けてくれれば、私はもう少し勇気が出せたのかもしれないね、なんて。

「じゃあ、またな」
「うん」

 またな、にまたね、も返さない。精々その鈍感具合で恋人に叱られればいいと、底意地も悪いが思う。負け惜しみだって後ろ指差されたって今なら構わない。
 でもどうせダンデ君は再び私の元へ現れるに決まっている。そんな自信があるのも確かで。勘ではなく、長年ダンデ君の性格と習性とに付き合ってきた経験則に基づく未来予想だ。ともすれば性懲りもなく相談なんだが、とやってきたらまた頬を赤らめながら切りだして、怒られるかきちんと自分で気付くかしなければ飲みかけのそれを平然と渡してくる。
 惚れた弱み、というのも厄介な言葉だなと、人生で一番痛感する瞬間だった。結局浅ましくてはっきりと失恋が決定づいたのにも関わらずダンデ君をそう簡単に諦めない心は、ダンデ君が会いに来てくれれば馬鹿なことこの上ないことに嬉しさでざわつくだろうし、理性が負ければ飲みかけのそれを受け取って一人で胸をばくばくとさせるのだろう。全く意識がされていない証拠の積み重ねだと承知しながら、選ばれなくてもしばらくは諦められない私はそうやってわるいことをする。

 またな、の後、ダンデ君は振り返らなかった。いつでも彼はそうだった。別れを告げたら一度も振り返らず、前だけを向いて自分がいるべき場所へと帰っていく。私の隣を帰る場所としないために、ダンデ君は最後に背中だけを見せて地平線の向こうへと消えて行ってしまう。
 そこそこ私達に距離が開いた頃、左右に振っていた手をそっと下ろそうとした。でも馬鹿だから、掴めない背中を掴もうと腕が伸びてしまったの。万が一にも掴めることなんかないのに。昔からずっとそうだ。私を置いてどこまでも先を走って行ってしまう子供の頃から、ダンデ君は後ろを気にしてくれなかった。そうやって、突然自覚してしまったダンデ君への気持ちに全く気付く素振りもなく、とうとう私の手が完全に届かない所にまで行ってしまったのか。

「……すき、」

 ちっぽけな恋心にふさわしい小さな声は誰にも届かない。泣いていても誰にも気付かれない。いや、正確には少し語弊がある。全部気付いてほしい人には届かないし、気付いてもくれないだけのこと。好きな人はいつも私を顧みないから。
 それでも、だとしても、私はダンデ君を好きになったんだ。

「……う〜〜……ッ」

 幼馴染で、友達で、だけどライバルにはなれなかった。私はダンデ君の心にはとうとう入れてもらえなかった。なのに、ダンデ君が選んだ人はどの関係にも当てはまらない人。
 あの時ああしていればとか、もっと早くにとか、こういうことは何もかもが終わってからでないと考えられないことで、だから後で悔やむと書いて後悔なのだ。
 すき、だいすき。涙と一緒に零す気の抜けた言葉が、何でもいいからダンデ君に届けばいいだなんて、もう終わっちゃったんだから今頃思ってもどうしようもないのにね。


20210618