- ナノ -


幸せの音



 目が合った途端、ゆるりとなる目尻がいたく好きだ。私を愛しいと言ってくれる瞳。玄関を閉めたら大きな掌に早速手を攫われ、にぎにぎとするからつい笑ってしまった。

「楽しい?」
「楽しい」

 淀みない返答。本心からそうなのだろう。私も同じ気持ちだから家の中だと言うのに二人手を握り合ってお邪魔したての家の中へと進んでいく。そうしたらわっと集まってくるリザードンやオノノクスといったダンデの手持ち達に歓迎されてしまって、隣のダンデもこそばゆそうというか、ゆっくり綻ぶように笑うのだから、これを幸せの一つであると呼ばずになんと言うのか私は知らない。
 幸せなんて人それぞれだ。自分にとってのそれは一体何かと改めて考えてみたというか考えざるを得なかった結果、ダンデといつまでも笑い合っていたいと、そう単純な答えを出した。愛を分け合って、好きだと口に出来て。一見すれば何の面白みもなく、変哲もない、当たり障りないものなのかもしれない。単純だと自分でも思ったくらいなのだからそう捉える人だって少なからずいると思う。
 でも、いつまでも笑い合うことが、どんな時でも好きだと口に出来ることが、本当は簡単なことではないと、私は今更のように思い知ってしまったのだから。

「ダンデ髪乾かせ!」
「ナマエがしてくれないと嫌だぜ!」
「このやろ〜〜」

 などと戯れでしかないこの時間が愛しい。少し前まではなんて子供染みて威厳のないと思ったこともあったが、今じゃすっかりと。これは確かに子供つぽくあるのだろうけれど、偏に単なる甘えで、それを口に出来るのが私しかいないのだと、この度めでたくも気が付いてしまったのである。
 ダンデは私にばかりかまける男ではなかった。例え恋人関係にあろうと、最優先はポケモンや自身のチャンピオンたる職務。かといって私を完璧にほったらかし、といった具合でもなく。四六時中べたべたしたいだとか、連絡をこまめにしないとだとか、そういうことも強制してはこない。だけど時間にいささか余裕も持てる日であればちゃんと私という存在を大事にしてくれたのだ。言葉で多くは語られずとも、あのゆるりとして締まらない目尻や喋る際の声の優しいトーン。ややもすれば見落としがちな、何事にも大仰な男にしてはとても些細な点から私への愛情の端が今思うと感じられた。

「あ、ねぇ映画借りてきたんだけど見よう」
「何の映画だ?」
「ワンパチが突然いなくなった自分のトレーナーを探して千里を旅する映画」
「見たい!」

 適当にお菓子をテーブルに並べてソファに隣り合って座ったらディスクを再生した。新作のCMから始まってようやく始まる本編ではあるが、早速ダンデは映像に夢中になっている。最初の内はお菓子に伸びていた手は次第に動かなくなり、じっと明るい画面を注視して。
 ポケモンと人間の絆に弱い男は中盤に差し掛かるよりも早く涙腺を刺激されたようで、時折ずずっと鼻を啜る音が聴こえた。さすがは大仰で感動屋。感情に素直と言えばいいのだろうか。外では肩書きで評価する人間ばかりに囲まれるのでチャンピオンの顔を終始貫いていたのに、今私の隣で映画に涙するダンデは、とても貫禄があるとは言い難い。喜怒哀楽はあっても幼少の時期にとっくにもそれの制御に長けてしまった彼は、しかし私の側ではこうして素直に感情を見せる。胸を打たれて鼻を啜り、込み上げる涙を堪えるでもなく溢すダンデは、私の側でならばその全てが許されることだとかねてよりわかっていたのだろう。
 私も、それでいいいと、最近になってようやく気が付いたようである。それまではままならない立場による障害だとか、もっと愛情を細やかに表現してほしいとか、よくあることかもしれないがそういう欲にばかり苛まれていた。どうしようもないことと理解しつつも、私も感情には素直なのでそういう一方的な要求ばかりを抱えて我慢したり爆発させたりしたものだ。

「……ワンパチ健気だね」
「ああ。知ってるか?牧羊犬として人気なんだが、おやつに釣られて手伝うような食いしん坊なんだ」
「だからあのワンパチ、あちこちで食べ物の誘惑に勝てないんだね」

 口を開かせれば出て来るのは高確率でポケモンの話。大好きでしょうがない彼等の蘊蓄。以前はいや聞いてねぇよ、などと思ってしまったこともあるが、今やこうして愛しそうに、楽しそうにポケモンの話をするダンデの弾けるような笑顔を愛らしいと思うようになった。我ながら自身の受け止め方の変貌ぶりにはあっぱれである。
 そう、そうなのだ。私はチャンピオンだからダンデを好きになったのではなかった。こうやって不器用ながら素直な感情を表にして、好きなことに対して熱く語る唇を、ダンデに対する気持ちを自覚した日に確かに愛したの。少しずつ我儘になってしまったけれど、根っこの部分では、単にそれだけのこと。
 少年のように無邪気なダンデを見ていると、角ばった胸の中の気持ちが丸くなるようだった。いつからか自分一人では見られなくなっていたそういう部分に、やっぱり最近になって思い出せている。

「……凄く良かった」
「うん。泣いちゃった」
「俺も」

 消費つくしたティッシュの箱を捨て、新しいティッシをダンデが取りに行っている間にテーブルを片付け、本格的に眠るための準備を始めていく。ここはダンデの家ではあるが最早勝手知ったる場所でもあるから、どこに何を片せばいいとか、どんな順番でベッドへ入るまでの過程を踏むだとか、そういうことも既に熟知しているので、さっさと準備を進める。ポケモン達をボールに戻し、泣いてしまったので二人揃って軽く顔を洗って歯も磨けば、いよいよあとは布団に潜り込むだけだ。

 私は酷く穏やかな気持ちでいて、それは恐らくダンデも同じことだろう。その証明としてダンデが私に触れる手つきは全く不埒ではなかった。私の心情ががらりと変わるまではダンデも容易には寄り添えあえないことにどこかで焦りのようなものもあったようで、良き恋人であろうと指南書にでも書かれるような記述の真似事を繰り返しては二人して無為な時間を過ごした。でもそれは、ダンデはダンデなりに私を慮り、愛情を示そうとしてくれていたからだ。それを私がうまく汲み取れなかったから我儘ばかりの鬱憤を溜めてしまったのだが。
 同じベッドに入ったら裸にならなくても良いのだと最近受け入れられた。過剰に求め合うことこそ愛の一端であるといつの間にか思い込み、不自然だとしても凝り固まった頭ではそういうシチュエーションを作ろうとして。今になってみれば本当に馬鹿なこと。愛し愛されるということは、決してそれだけではなかったのに。

「明日の朝ご飯何がいい?」
「うーん……」
「マフィンあったからそれにする?」
「そうだな」

 素直ではあるが自分に頓着しないので、ささやかなことだが自分の食べたいものすらすぐにわからない。ガラルのみんなを強くすると夢を抱き、それを叶える為バトルタワーを作る最中であるのに、結局自分のことには弱いまま。そういうところもある種素直と言えるのかもしれない。

「眠い?」
「……うん」
「泣くのって結構疲れるからね。もう寝よう。おやすみダンデ」
「ああ、おやすみナマエ」

 言うが早いか、数秒でダンデは眠りに就いてしまった。最近ぐっすり眠れるようになったと笑っていたダンデに安心したのはきっと私だけではないのだろうが、ここで私がいるからとか本当かわからなくとも言わない辺りは酷くダンデらしい。
 向かい合うダンデの寝顔は、本当に少年のように無垢だ。眉間に皺も寄せず、悪夢を見ることもなく、朝までぐっすり。それをあまりにも喜ばしいと私は思うわけで。
 そのあどけない寝顔を眺めつつ、そっと呼吸に合わせて動く胸元に掌をあてる。確かに膨らんでは戻る肺。とくとくと一定間隔の鼓動。ちゃんとそれを確認してから布団の中に潜り込んでダンデを起こさないよう気を付けながら耳を胸に寄せた。
 穏やかな心臓の音。急激に跳ねたり速度を落としもしない。耳から入って体に溶け込んでいくその音には、さっき映画に散々泣いたのにじわりとまた涙が滲んでくるのだからとんと不思議な体になってしまったものだ。

 とくとく。健康な心臓の音。
 ダンデが生きている音。

 閉じた瞼の裏に蘇るのはあの日のダンデの無残な姿。ムゲンダイナを相手にして倒れ伏したダンデの、豪快で大仰な彼には似つかわしくない程の大きな傷。重体であると知らされた時の私は正に顔面蒼白だったと思う。まさか、とそればかりが斡旋する頭の中で、必死に祈りを巡らせるしかなかった無力な自分。
 まさか。だってダンデはチャンピオンで、何でも自分の手で解決できちゃう人間で、みんなを守れる人なのに。強くて、意志も真っ直ぐで。そういう、誰もが強いと確信する人なのに。
 けれど病院のベッドで包帯まみれのダンデを見た途端、そういう認識の恐ろしさを痛感したのだ。ダンデは不死身でもないし、ナイフで切ればその肌の下からは私と同じ赤い血が流れるのに。もしかすれば自分でも把握できていない弱さだってあった筈。不器用に愛を囁いて、感情を晒して、感動に涙を流して、温かい肌を重ねたダンデは、私と変わらぬ人間であると、簡単に死んでしまう人間であると、どうして忘れていたのだろう。忘れていたというか、考えることすらしていなかったというか。当たり前のことを当たり前として頭に片隅に追いやり目にはしてこなかった。

 求めることはあまりに簡単すぎる。側にいてあのゆるゆるの目尻に見つめられるだけでいいと思った出発地点から、日々を追うごとに欲求が深まっていって。我儘ばかり膨らませ、ダンデが心から求めていない危うい認識でいつからか自分もダンデも覆ってしまった。ダンデが重体になってからじゃないとそんなことにも気付けないでいただなんて。
 死んじゃったら、何かあってからじゃ、全部遅いのに。
 私の隣にいたダンデはきっとずっと素顔だった。私のせいで時折曇らせることもあっただろうが、ダンデは感情に素直に笑って泣いていたに違いない。ダンデは本当はもっと単純な男なのだろう。私を見て笑い、髪を一人で乾かせないと不器用な甘えを見せて、映画で感動する、そういう単純さ。

「……くすぐったいぜ」
「あれ、起こしちゃった?ごめんね」
「いいや。それ、なにしてるんだ?」
「噛み締めてるだけ」
「何を?」

 悪いことに起こしてしまったらしい。ちょっと掠れた声で指摘されても、私は押し当てた耳を胸元からどかさなかった。だってダンデが頭の後ろを抱えるようにして抱き締めてくれたから。愛だとか甘えだとか、そういう気持ちを全部ひっくるめた行動。

「幸せの音」

 ちゃんと心臓を動かして生きて抱き締めてくれるダンデが嬉しい。素顔でいてくれるダンデのそのままが好き。握ってくれる大きな手も、ポケモンに熱くなる言葉や考えが愛しい。私にダンデを愛する幸福を改めて教えてくれた彼を、こんなにも愛している。私が今寄り添っているのは私の幸福の形だ。これをそうと呼ばずに何と呼ぶのか、それ以上を私は知らない。
 貴方が生きているだけでいい。


20210505